いこいの泉を探そう
いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
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2007/02/21 10:36:40|
聖書
聖書のチリ
昨日投稿した記事で、カペナウムの群衆は、百人隊長の姿を見ることができなかった。
しかし、マタイによる福音書8章5節以降に、非常に類似した記事がある。
このマタイによる福音書によれば、百人隊長がイエスに面会して、会話をしている。
しもべがいやされた現場を目撃できなかったことは、共通している。
興味がある方は、ルカによる福音書が後から書かれたらしいことも含めて、比較してください。
非常に類似した内容に注目すると、これらの記事は一つの出来事であったと考えるのが妥当でしょう。
すると、どちらの記事が正しいのだろうかという疑問が起きるが、当時の人から人へ伝えられた情報収集事情の限界が見えてくるというところか。
伝え聞いた私達は、記者達が伝えたかった大切な真理は何か、記者達の信仰がどのようなものであったのかを、注意深く把握することにあるだろう。
聖書は間違いを含む文書と捕らえがちな私だが、聖書のチリを見て、自分の目の梁が見えないようなものと言われそうだ。
信仰の先輩の指導を受けねばならない。
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2007/02/20 23:26:25|
聖書
登場しない人が中心
イエスは動き出したが、百人隊長と病人は登場しない。
百人隊長の友人たちが、使いとして動いた。
友人たちによる伝言だけで、百人隊長の信仰と人柄が十分表れている。
ルカによる福音書 7章続きです。
(百人隊長の人柄と信仰)6〜8節
イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスに伝えた。「
主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。
」
(イエスの賛辞と僕のいやし)9〜10節
これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。 「
あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。
」
使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。
私の感想
いやされた病人は登場せずに、「よくなっていた。」とだけ報告されている。
百人隊長も表に現れることがなかったが、周囲の人達の友情に満ちた様子から、立派な人格者であることが感じられる。
百人隊長を中心として、いやされたしもべ、友人達、ユダヤ人の長老たち、などがかもし出すなごやかな笑顔が伝わってくるようでもある。
この記事から何を汲み取るべきなのかわからないが、中風を患っていた人がいやされた記事を思い起こした。
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2007/02/19 23:22:17|
聖書
隊長に重んじられている一人
イエスは、ガリラヤ湖(テベリヤ湖)の北岸に位置する、カペナウムの町を伝道拠点として、各地方に伝道旅行をした。(参考例・そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。マタイ4章13節)
ルカによる福音書 ようやく7章です。
(カペナウムの百人隊長と長老達)1〜5節
イエスは、耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムにはいられた。
ところが、ある百人隊長に重んじられている一人のしもべが、病気で死にかけていた。
百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。
イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「
この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。
」
私の状況理解・・
軍隊なのか警官隊なのかわかりませんが、百人隊長とは、百人の隊員を部下として指揮する立場にある人だ。
この百人隊長は、ユダヤ人たちの会堂建設をして、ユダヤ人たちに人望がある。
ユダヤ人の長老達の言葉と行動を見ると、日常のかかわりかたも優しいのかもしれない。
そして、有能で忠実な隊員の一人が、病気で危篤状態だ。
その病人は、記事に登場しないが、隊長にスポットが当てられる。
部下思いでもある百人隊長は、イエスが病人をいやす事や近くに来ていることなどを聞いて、部下の救助依頼をユダヤ人の長老に託して送り出した。
熱い思いを込めていただろう。
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2007/02/18 7:45:49|
聖書
見えていない私だから
自分の師をどのようにして見つけたらいいだろうか。
今日のテーマは、その回答Aだと思う。
心の思いの原因となる世界、魂の世界、霊の世界のことが、今見えていない私だから、イエスから(聖書から)聞いて行なっている(と思われる)人を見つけ、一緒に歩むことを通して、見る訓練を受ける必要があると感じている。
ルカによる福音書 6章続きです。
(行なう人の生涯)46〜49節
なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」
基礎をしっかり学んで馴れてきたら、聖書から(イエスや使徒達から)直接訓練されたいものだ。
私が、今書いているのは、幼い子供達の「ママゴト」のようなものだろう。
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2007/02/17 8:14:00|
聖書
良い木・悪い木
自分の師をどのようにして見つけたらいいだろうか。
今日のテーマは、その回答@だと思う。
何気ない言葉の中に、その人の本質が見え隠れする。
ルカによる福音書 6章続きです。
(良い蔵・悪い蔵)43〜45節
悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。
良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。
「良い・悪い」 の判断は、神がご存知なのだが、真理から遠いのか近いのか、真理そのものか、といったところだと思う。
だから、残る問題は、その人の(私の)価値観が 「良い・悪い」 を的確に捉えているか否かにかかってくる点にある。
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