いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2008/05/22 5:58:51|聖書
1ミナで、商売をしなさい
ザアカイのエピソードに続く 「ミナ」 の例え話です。マタイのよる福音書25章に書かれているタラントの例え話を思い出しましたが、ここでは別の話として対象外にします。
イエスは、ご自身がエルサレムに近づいているのを見ている人々の心の中に、政治的開放を伴う神の国が、間もなく実現すると期待しているのを知って、例え話を始める。しかし、その例え話は、人々に理解できるようで、理解できない内容である。
ルカによる福音書19章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(イエスは、失われた人の救いの話に続けて、例え話をされた。それは、人々が神の国がすぐにでも現われると思っていたからである。)11節

(イエスは「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。)12節

(彼は十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、 『私が帰るまで、これで商売しなさい』 と言った。)13節

(しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、 『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』 と言った。)14節

(身分の高い人が王位を受けて帰ってきたとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。)15節

(最初に来たものは 『一ミナで、十ミナを儲けました。』 と言った。これに対し主人は 『良いしもべだ。あなたは小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい』 と言った。)16、17節

(二番目に来たものは 『一ミナで五ミナを儲けました』 と言った。主人はこの者にも 『あなたも五つの町を治めなさい』 と言った。)18,19節

(次に来たものは『ここにあなたの一ミナがあります。風呂敷に包んでしまって置きました。)20節

(あなたは計算の細かい、厳しい方ですから、恐れていました。預けなかった物も取り立て、蒔かなかったものも刈り取る方ですから。)21節

(それで主人は、 『預けなかった物も取り立て、蒔かなかったものを刈り取る厳しい人間だと知っていたと言うのか。だとしたら、なぜ金を銀行に預けておかななかったのか。そうすればそれを利子といっしょに受け取れたはずだ。』 と言った。)22、23節

(そして、そばに立っていた者たちに 『その一ミナを彼から取り上げて十ミナ持っている人にやりなさい』 と言った)24節

(すると彼らは、 『その人は十ミナも持っています。』 と言った)25節

(すると主人は 『あなたがたに言うが、誰でも持っている者は、更に与えられ、持たない者からは、持っている物まで取り上げられるのです。ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』 と言った。)26、27節



(私が持つ聖書の補足欄から)
13節、1ミナ : →百デナリ相当(筆者補足、マタイ20章2節参照 : 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。→当時、最低賃金法などの法律はないので、かなり貧しいものであったろう。)
17節、ほんの小さな事にも忠実だった : 「小さい事」への忠実さが「大きい事」への忠実さのテストになるという、不正な管理人の例え(16章10節)の結論的教訓が繰り返される。
20節、風呂敷に包んで : 「地の中に隠しておく」(マタイ25章25節)よりずさんな管理。主の恵みを軽んじた証拠とみなされる。


(私の思索)
この例話を聞いた時、即ち、福音が完全に現わされていなかったこの時点で、イエスの真意を理解できた人は、一人もいなかっただろう。
ここには、 「小さい事にも忠実でありなさい。」 というメッセージが込められていると思いますが、それだけではなく、十人に一様に与えられる一ミナとは何か、商売とは何か、王位を受けて帰るとは何か、 「十ミナを儲け」 が 「十の町を支配」 に価値の置き換えがあるのは何か等、多くの疑問が残る。

更に、この身分の高い人は、その国民たちに憎まれていたが、殺される危険はなさそうであり、十字架の死を考慮する内容ではない。
おそらく、再臨というテーマ、死後の裁きというテーマ、永遠のいのちというテーマ等と合わせて考える事柄であろう。
ここでは、問題が大きくなってしまうので、理解できない事柄として言及しない。

しかし、1ミナ(日雇い労務者が百日働いて得る賃金総額)で商売するとは何だろう。
風呂敷に包んで置いた人は、資金を必要としない別の仕事をしながら、衣食住の必要を満たしていたので、1ミナが残っていると考えると、浪費しなかった彼の生活態度は、品行方正なのだが、主人のために、1ミナを銀行に預けるという行動さえしなかったので、主人から叱られ、1ミナを失う。
この主人は、“商売しなさい”に相当する何らかの行動を、十人のしもべに要求されているのではないか。

仮に、 「十人のしもべ」 を、 「イエスについていった人々」 と置き換えると、1ミナとは、各自に与えられた平安や喜びであり、商売とは、喜びを伝えていく行動になる。
その行動は、福音によって与えられるものが、5倍・10倍に膨らむ性質のものだと推察されるからである。

聖書記者のルカは、この例話を書きながら、何を思っていたのだろう。


(私の脳裏をかすめる言葉)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。    ヨハネ 3章 16節


(私の感想)
私自身に、行動できないという課題があった。このブログ投稿という課題を自分自身に与えて、半歩でも前に歩み出したいと願っていた。
その結果なのかどうかは別なのですが、最近、生活の、他の領域で、少し歩みだした自分に気付くようになっています。
このページに立ち寄って下さった皆様のお陰かなと思っています。今後も、立ち寄って下さる方の後押しによって、私も前進できることでしょう。







2008/05/07 8:53:23|聖書
ザアカイに与えた信仰
今回の物語は、エリコの町が舞台であり、ルカだけが取り上げている。登場人物の準主役は、取税人のかしらである。成り行きの描写が生き生き書かれており、面白いので子供達に話すテキストとして用いられることが多いようだ。
ルカによる福音書19章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(イエスはエリコの町を通りました。そこにはザアカイという名の人がいたが、彼は取税人のかしらで金持ちであった。)1〜2節

(彼は、イエスを見ようとしたが、背が低かったので群衆のために見ることができなかった。)3節

(それで前方に走り、イエスが通り過ぎようとしていた所の、いちじく桑の木に登った。)4節

(そこに来たイエスは、上を見上げて彼に 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊ることにしてあるから。」 といわれた。)5節

(ザアカイは、急いで来て、大喜びでイエスを迎えた。)6節
(これを見た人達は、 「あの方は罪人の所に行って客となられた。」 と言ってつぶやいた。)7節

(ザアカイは立って 「主よ。ごらん下さい。私の財産の半分を貧しい人達に施します。私がだまし取った物は、4倍にして返します。」 と言った。)8節

(イエスは 「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」 と言われました。また 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 と言われました。)9〜10節



(私が持つ聖書の補足欄から)
2節、取税人 : ローマ政府のために税を取り立てる人、不正徴収や背任徴収のかどで非難されていた。

4節、いちじく桑 : その実はいちじくに似て、葉は桑のような木。幹が短く枝は四方に伸び、上り易い。

5節、あなたの家に泊ることにしてある : ザアカイが救われたのは、神の御旨によることを示す。
これこそ、 「だれが救われることができるでしょう。」 との疑問への最終的回答。

7節、罪人  : 律法の定めに反する職業に従事している人。パリサイ人は、これらの者との交際を一切禁じられていた。

8節、私の財産 : エリコは交通の要衝である上に、ここのナツメヤシとバルサムを輸出するため税関を置いていたので、取税人のかしらは莫大な財をなしたであろう。そして、8節の宣言は、かれの心がキリストによって変えられ、悔い改めの実が結ばれたことを示す。

9節、アブラハムの子 : アブラハムと同じ信仰を持ち、その信仰をあかしするわざをなすかどうかで、誰がアブラハムの子であるかを判定する。


(私の思索)
前回の投稿で、道端に座っていた目の不自由な人は、イエスに褒められるほどの信仰であったが、ザアカイの信仰はどの様なものであったろうか。彼は “イエスを見ようとした” という意思と “いちじく桑の木に登った” という行動を中心に、その置かれた環境を含めて推察することになろう。

さて、彼は取税人のかしらであったから、宗教指導者を中心とした人々から罪人として非難されていたし、ザアカイ自身もそのように感じていたのではないだろうか。
特にパリサイ人からは、罪人として非難されるだけでなく、一切の交際がなかった様だ。
ルカ18章18節に登場した “金持ちの役人” と比べると、こうした置かれた立場の相違が大きく影響しているように感じる。
“金持ちの役人”も大変な金持ちと表現されているが、ザアカイは、大金を直接取り扱える立場にいたことを考慮すると、桁違いの莫大な財産を所有していたであろう。
しかし、普段から周囲の冷たい視線や 「チビの罪人」 等と謂れのない陰口を意識しそうな彼の心は、満たされないままであったろう。

「裕福なものは難しい」 という題の投稿に対して、 “一言”さんがコメントで指摘されたように、ザアカイさんは “金持ちでも救いの必要を感じ、救いの必要を意識している人達” の一例でしょうし、 「何をしたら、永遠のいのちを自分のものに・・・・・・・」 と尋ねたあの役人も例外ではない。
二人の違いは、その時、不足する何かを尋ね求めていたザアカイに対し、あの役人は 「小さい時から守っております。」 という言葉に表れているように、その時の自分の生活(行動)を十分だと自分で判断している。
そして、一つだけ欠けたもの (隣り人を愛すること) を教えられたのにできず、イエスについていけなかった(神を愛せなかった)。
言い換えると、あの役人は、神と自分の霊的関係を見落とし、神のものである “永遠のいのち” を個人的に自分のものにしたいと考えた。

一方、何かわからなくても真実に飢えていたザアカイは、 手下を通して聞こえてくるイエスに関する噂によって、 “癒し主・きよめ主・慰め主” を無意識の状態でぼんやり感じ取り、助けを求めていたのではないだろうか。
だから、木の上から観察しようとしていたのに、イエスの呼びかけがあったとき、その優しさに圧倒され “急いで降りて来て、そして大喜びで” イエスを家に迎え、 「主よ。ご覧ください。」  (“Look, Lord, NKJ訳) と告白したのだろう。

ザアカイは、イエスの中に、旧約聖書に現された神を見出したので喜んだのだと思われる。
彼は、神の優しさによって、信仰が回復せられ、神を喜んで愛し、隣り人を愛するようになったのである。

ルカは10節に、このエピソードの結論と思われるイエスの言葉をおいた。
神の側から人を捜して近づいて下さるという。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来た」


(私の脳裏をかすめる言葉)
これを聞いた人々が言った。 「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 イエスは言われた。 「人にはできないことが、神にはできるのです。」 ルカ18章26〜27節


(私の感想)
神が人を愛して下さるから、人に神をあがめる心が生まれ、その神が 「隣り人を愛しなさい」 といわれるから人々に愛する力が生まれる。この順序は変わらない。







2008/05/02 22:23:12|聖書
イエスについて行った
イエスがエリコ近辺におられた頃の記事だが、エリコは ヨルダンの向こうとエルサレムを結ぶ道にあり、北から下ってエルサレムに入る入り口にも当る交通の要衝である。そのエリコの町に近い道端が、物語の舞台です。

ルカによる福音書18章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(イエスがエリコに近づかれたころ、目の見えない人が、道ばたにすわり、物乞いをしていた。)35節

(彼は大勢の群衆が通る音を聞いて、何か起きたのですかと尋ねた。)36節

(イエスが通るのだと教えると、彼は大声で 「ダビデの子のイエス様、私を憐れんでください。」 と言った。)37〜38節

(前にいた人々がたしなめたが、目の見えない人は、ますます 「私を憐れんで下さい」 と叫びたてた。)39節

(イエスは立ち止まって、彼を連れて来る様に言いつけられ、彼が近寄ってきたので 「私に何をしてほしいのか」 と尋ねた。すると彼は 「主よ。目が見えるようになることです。」 と答えた。)40〜41節

(イエスが彼に、 「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」 といわれると、彼は目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。)42〜43節



(私が持つ聖書の補足欄から)
35節、物乞いをしていた人 : マルコ10章46節には、テマイの子のバルテマイという名前が書いてある。

42節 「・・・・あなたの信仰があなたを直したのです。」 : 信仰とはイエスの言葉を信じ、イエスに従って生きること。


(私の思索)
 イエスが人の病を癒したときに 「あなたの信仰があなたを直したのです。」 という表現によって励まされたのは、ここだけではない。
 それで、ここで言う 「あなたの信仰」 という言葉が気になる。日本語で 「主よ」 と訳されている部分を手元の英文聖書(NKJ訳)で確認したところ “Lord, と呼びかける形で訳されている。
聖書の舞台となったイスラエル、特にユダヤ地方で “Lord, に相当するギリシャ語が何と言うのか分からないが、おそらく旧約聖書が伝えている“神”であろう。
とすれば、イエスの目の前にいる彼は、イエスにまつわる噂を伝え聞いて、イエスを“神”、全ての創造者、歴史を造り出す者、イスラエルの人々をこよなく愛するお方、として把握し、出会えた事を引き締まる思いで喜び、その方を信頼したのであろう。
だから彼は、傍目をはばからずに大声で、神に甘えたと言うべきかもしれない。
それで、イエスは冒頭の言葉で励まし、今後も同じ信仰を持ち続けるように導かれたと感じる。
43節で、彼は神をあがめ、民は神を賛美した、とまとめた様に。

 もう一つの言葉は 「あなたを直した」 なのだが、どのように考えても考えようがない出来事だ。
最近になって、心や感情の持ち方によって、人間が本来持っている免疫力が、弱くなってしまったり強く働くようになるという表現を聞く事があるのだが、もしそうであるなら、視力回復はどんな順序でどの部分が免疫力で回復したのだろう。目の専門家ならどう思うのだろう。

神の不思議に属する事 (神の人に対する憐れみの発露) と考えるのは安易に過ぎるのだろうか。



(私の脳裏をかすめる言葉)
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカ19章10節)

「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」 (ルカ4章43節)

群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。(ルカ4章42節)

(私の感想)
 イエスは、多くの人々の病を癒し、神の国の福音を語られた。しかし、神の国の福音を喜んだ人達はイエスの宣教活動記事を読んだ時のイメージより、かなり少なかったのではないだろうか。

 後に触れる十字架事件の折の民衆の行動を見ると、贖いの神を感じ取った人々がいなかったと言っても過言でないだろう。
今日、見えるようになって、イエスについていった彼は、どんな行動をとっただろうか。
「あなたの信仰があなたを直したのです。」と、イエスに褒められたほどの信仰であったのに、十字架の前では色あせてしまっている。

福音の実現を待たねばならない。







2008/04/27 20:50:04|聖書
十字架による“死”と“復活”の予告(三度目)
イエスは、十二弟子たちだけを対象に話されます。
ルカによる福音書 18章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(イエスは、十二弟子をそばに呼んで「エルサレムに向かう、
預言者が書いたことが実現する。」と言った。)31節

(「人の子は、異邦人に引き渡され、あざけられ、はずかしめられ、唾をかけられます。異邦人達は、人の子を鞭で打ってから殺します。しかし、三日目によみがえります。」と言った。)32〜33節

(弟子たちには分からない。この言葉が隠されているから。)34節



(私が持つ聖書の補足欄から)
31〜33節、 : 三度目の十字架と復活の予告を一般の弟子道の教訓(29,30節)に直結させるのは、ルカ独特。

31節、人の子について・・・すべてのことが実現される : ルカはここだけに見られる旧約預言の成就への言及。

34節、 : 三度目の十字架予告の後の記事は、マタイとマルコがゼベダイの子らの愚かな無心の物語を置くのに対し、ルカは同じような弟子たちの無理解を強調する。彼らの理解は、復活の主が 「心を開いて」 下さること(24章45節)によって可能となる。


(私の思索)
旧約預言の成就について確認しておきたい。

<詩22章1節、>
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

<イザヤ53章、>
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

その他の旧約預言(私が気付かない預言が他にもあるでしょう)
<イザヤ7:14 >処女がみごもっている。
<イザヤ9:6>ひとりのみどり児が、私たちのために生まれる。
<イザヤ28:16>わたしはシオンに一つの石を礎として据える。
<イザヤ32:1>見よ。ひとりの王が正義によって治め

これらの言葉のほかにも重要な予言の言葉があるでしょう。
取りあえず気付いたものを挙げておいた。


(私の脳裏をかすめる言葉)
・・・・・・・・
人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。


(私の推理)
自分の師、自分の希望、エリアのように力あるお方、自分の全てと思っている方が殺されることなど、その当人が言う言葉でも、聖書に預言されたことであっても、受け入れられない。否、受け入れたくないのだ。
政治的・経済的メシアとして、ローマの支配から開放し貧困者に十分な食料を与えるメシアであってほしいから。


(私の感想)
基本的に自己保身的態度を含み、「隣人もよければなお良い」と考える。







2008/04/26 11:12:56|聖書
だれが救われる
永遠のいのちを自分のものとしたかったある役人は、 「何をしたら」 良いか尋ねたことに続く問答の末に悲しんで去ったが、イエスは 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 と、落胆にも似た言葉を残された。
 この役人は、 「イエスはどういうお方なのか」 、 「永遠のいのちとは何か」 という事柄を理解しようとせず、自分に都合の良い何かを求めていたようだ。
これに続いて、弟子達とイエスの問答に移るが、弟子達でさえも分っていないようです。
ルカによる福音書 18章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(人々は 「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 と言った。)26節

(またイエスは 「人にはできないことが、神にはできるのです。」 と言われた。)27節

(それでペテロは 「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」 と言った。)28節

(するとイエスは 「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」 と言われた。)29、30節



(私が持つ聖書の補足欄から)
28,29節、自分の家 : 「妻、兄弟、両親、子ども」という家族の意。


(私の思索)
イエスから離れていった金持ちと弟子達との違いは何であったろうか。少し極論に感じるでしょうが、弟子達に共通することは、資産を持たない者、お金があっても世の名誉がない者など、一般に見下されていた方々でしょう。ニコデモ先生のように例外的な求道者がおりましたが、陰の存在のままでした。
日常生活の全てを賭けて従っていった弟子達は、イエスの短い招きの言葉に喜びのような何かの価値を感じたのではなかろうか。
しかし、それが何であるかを知らないままだ。


(私の脳裏をかすめる言葉)
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネ3:3)
人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。(ヨハネ3:5)
私は終わりの日にその人をよみがえらせます。(ヨハネ6:44)


(私の感想)
人は(私も)、自分自身の過去の行為 (神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた、法律を犯した事がない、真面目に会社勤めをした、etc) や自分の立場 (教会の会員、教師、牧師、法律の専門家、etc) に安住し、目の前のイエスを見失う可能性が大いにあるようだ。