今回の物語は、エリコの町が舞台であり、ルカだけが取り上げている。登場人物の準主役は、取税人のかしらである。成り行きの描写が生き生き書かれており、面白いので子供達に話すテキストとして用いられることが多いようだ。 ルカによる福音書19章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。
(イエスはエリコの町を通りました。そこにはザアカイという名の人がいたが、彼は取税人のかしらで金持ちであった。)1〜2節
(彼は、イエスを見ようとしたが、背が低かったので群衆のために見ることができなかった。)3節
(それで前方に走り、イエスが通り過ぎようとしていた所の、いちじく桑の木に登った。)4節
(そこに来たイエスは、上を見上げて彼に 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊ることにしてあるから。」 といわれた。)5節
(ザアカイは、急いで来て、大喜びでイエスを迎えた。)6節 (これを見た人達は、 「あの方は罪人の所に行って客となられた。」 と言ってつぶやいた。)7節
(ザアカイは立って 「主よ。ごらん下さい。私の財産の半分を貧しい人達に施します。私がだまし取った物は、4倍にして返します。」 と言った。)8節
(イエスは 「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」 と言われました。また 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 と言われました。)9〜10節
(私が持つ聖書の補足欄から) 2節、取税人 : ローマ政府のために税を取り立てる人、不正徴収や背任徴収のかどで非難されていた。
4節、いちじく桑 : その実はいちじくに似て、葉は桑のような木。幹が短く枝は四方に伸び、上り易い。
5節、あなたの家に泊ることにしてある : ザアカイが救われたのは、神の御旨によることを示す。 これこそ、 「だれが救われることができるでしょう。」 との疑問への最終的回答。
7節、罪人 : 律法の定めに反する職業に従事している人。パリサイ人は、これらの者との交際を一切禁じられていた。
8節、私の財産 : エリコは交通の要衝である上に、ここのナツメヤシとバルサムを輸出するため税関を置いていたので、取税人のかしらは莫大な財をなしたであろう。そして、8節の宣言は、かれの心がキリストによって変えられ、悔い改めの実が結ばれたことを示す。
9節、アブラハムの子 : アブラハムと同じ信仰を持ち、その信仰をあかしするわざをなすかどうかで、誰がアブラハムの子であるかを判定する。
(私の思索) 前回の投稿で、道端に座っていた目の不自由な人は、イエスに褒められるほどの信仰であったが、ザアカイの信仰はどの様なものであったろうか。彼は “イエスを見ようとした” という意思と “いちじく桑の木に登った” という行動を中心に、その置かれた環境を含めて推察することになろう。
さて、彼は取税人のかしらであったから、宗教指導者を中心とした人々から罪人として非難されていたし、ザアカイ自身もそのように感じていたのではないだろうか。 特にパリサイ人からは、罪人として非難されるだけでなく、一切の交際がなかった様だ。 ルカ18章18節に登場した “金持ちの役人” と比べると、こうした置かれた立場の相違が大きく影響しているように感じる。 “金持ちの役人”も大変な金持ちと表現されているが、ザアカイは、大金を直接取り扱える立場にいたことを考慮すると、桁違いの莫大な財産を所有していたであろう。 しかし、普段から周囲の冷たい視線や 「チビの罪人」 等と謂れのない陰口を意識しそうな彼の心は、満たされないままであったろう。
「裕福なものは難しい」 という題の投稿に対して、 “一言”さんがコメントで指摘されたように、ザアカイさんは “金持ちでも救いの必要を感じ、救いの必要を意識している人達” の一例でしょうし、 「何をしたら、永遠のいのちを自分のものに・・・・・・・」 と尋ねたあの役人も例外ではない。 二人の違いは、その時、不足する何かを尋ね求めていたザアカイに対し、あの役人は 「小さい時から守っております。」 という言葉に表れているように、その時の自分の生活(行動)を十分だと自分で判断している。 そして、一つだけ欠けたもの (隣り人を愛すること) を教えられたのにできず、イエスについていけなかった(神を愛せなかった)。 言い換えると、あの役人は、神と自分の霊的関係を見落とし、神のものである “永遠のいのち” を個人的に自分のものにしたいと考えた。
一方、何かわからなくても真実に飢えていたザアカイは、 手下を通して聞こえてくるイエスに関する噂によって、 “癒し主・きよめ主・慰め主” を無意識の状態でぼんやり感じ取り、助けを求めていたのではないだろうか。 だから、木の上から観察しようとしていたのに、イエスの呼びかけがあったとき、その優しさに圧倒され “急いで降りて来て、そして大喜びで” イエスを家に迎え、 「主よ。ご覧ください。」 (“Look, Lord, NKJ訳) と告白したのだろう。
ザアカイは、イエスの中に、旧約聖書に現された神を見出したので喜んだのだと思われる。 彼は、神の優しさによって、信仰が回復せられ、神を喜んで愛し、隣り人を愛するようになったのである。
ルカは10節に、このエピソードの結論と思われるイエスの言葉をおいた。 神の側から人を捜して近づいて下さるという。 「人の子は、失われた人を捜して救うために来た」
(私の脳裏をかすめる言葉) これを聞いた人々が言った。 「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 イエスは言われた。 「人にはできないことが、神にはできるのです。」 ルカ18章26〜27節
(私の感想) 神が人を愛して下さるから、人に神をあがめる心が生まれ、その神が 「隣り人を愛しなさい」 といわれるから人々に愛する力が生まれる。この順序は変わらない。
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