ザアカイのエピソードに続く 「ミナ」 の例え話です。マタイのよる福音書25章に書かれているタラントの例え話を思い出しましたが、ここでは別の話として対象外にします。 イエスは、ご自身がエルサレムに近づいているのを見ている人々の心の中に、政治的開放を伴う神の国が、間もなく実現すると期待しているのを知って、例え話を始める。しかし、その例え話は、人々に理解できるようで、理解できない内容である。 ルカによる福音書19章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。
(イエスは、失われた人の救いの話に続けて、例え話をされた。それは、人々が神の国がすぐにでも現われると思っていたからである。)11節
(イエスは「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。)12節
(彼は十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、 『私が帰るまで、これで商売しなさい』 と言った。)13節
(しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、 『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』 と言った。)14節
(身分の高い人が王位を受けて帰ってきたとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。)15節
(最初に来たものは 『一ミナで、十ミナを儲けました。』 と言った。これに対し主人は 『良いしもべだ。あなたは小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい』 と言った。)16、17節
(二番目に来たものは 『一ミナで五ミナを儲けました』 と言った。主人はこの者にも 『あなたも五つの町を治めなさい』 と言った。)18,19節 (次に来たものは『ここにあなたの一ミナがあります。風呂敷に包んでしまって置きました。)20節 (あなたは計算の細かい、厳しい方ですから、恐れていました。預けなかった物も取り立て、蒔かなかったものも刈り取る方ですから。)21節
(それで主人は、 『預けなかった物も取り立て、蒔かなかったものを刈り取る厳しい人間だと知っていたと言うのか。だとしたら、なぜ金を銀行に預けておかななかったのか。そうすればそれを利子といっしょに受け取れたはずだ。』 と言った。)22、23節
(そして、そばに立っていた者たちに 『その一ミナを彼から取り上げて十ミナ持っている人にやりなさい』 と言った)24節
(すると彼らは、 『その人は十ミナも持っています。』 と言った)25節 (すると主人は 『あなたがたに言うが、誰でも持っている者は、更に与えられ、持たない者からは、持っている物まで取り上げられるのです。ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』 と言った。)26、27節
(私が持つ聖書の補足欄から) 13節、1ミナ : →百デナリ相当(筆者補足、マタイ20章2節参照 : 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。→当時、最低賃金法などの法律はないので、かなり貧しいものであったろう。) 17節、ほんの小さな事にも忠実だった : 「小さい事」への忠実さが「大きい事」への忠実さのテストになるという、不正な管理人の例え(16章10節)の結論的教訓が繰り返される。 20節、風呂敷に包んで : 「地の中に隠しておく」(マタイ25章25節)よりずさんな管理。主の恵みを軽んじた証拠とみなされる。
(私の思索) この例話を聞いた時、即ち、福音が完全に現わされていなかったこの時点で、イエスの真意を理解できた人は、一人もいなかっただろう。 ここには、 「小さい事にも忠実でありなさい。」 というメッセージが込められていると思いますが、それだけではなく、十人に一様に与えられる一ミナとは何か、商売とは何か、王位を受けて帰るとは何か、 「十ミナを儲け」 が 「十の町を支配」 に価値の置き換えがあるのは何か等、多くの疑問が残る。
更に、この身分の高い人は、その国民たちに憎まれていたが、殺される危険はなさそうであり、十字架の死を考慮する内容ではない。 おそらく、再臨というテーマ、死後の裁きというテーマ、永遠のいのちというテーマ等と合わせて考える事柄であろう。 ここでは、問題が大きくなってしまうので、理解できない事柄として言及しない。
しかし、1ミナ(日雇い労務者が百日働いて得る賃金総額)で商売するとは何だろう。 風呂敷に包んで置いた人は、資金を必要としない別の仕事をしながら、衣食住の必要を満たしていたので、1ミナが残っていると考えると、浪費しなかった彼の生活態度は、品行方正なのだが、主人のために、1ミナを銀行に預けるという行動さえしなかったので、主人から叱られ、1ミナを失う。 この主人は、“商売しなさい”に相当する何らかの行動を、十人のしもべに要求されているのではないか。
仮に、 「十人のしもべ」 を、 「イエスについていった人々」 と置き換えると、1ミナとは、各自に与えられた平安や喜びであり、商売とは、喜びを伝えていく行動になる。 その行動は、福音によって与えられるものが、5倍・10倍に膨らむ性質のものだと推察されるからである。
聖書記者のルカは、この例話を書きながら、何を思っていたのだろう。
(私の脳裏をかすめる言葉) 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネ 3章 16節
(私の感想) 私自身に、行動できないという課題があった。このブログ投稿という課題を自分自身に与えて、半歩でも前に歩み出したいと願っていた。 その結果なのかどうかは別なのですが、最近、生活の、他の領域で、少し歩みだした自分に気付くようになっています。 このページに立ち寄って下さった皆様のお陰かなと思っています。今後も、立ち寄って下さる方の後押しによって、私も前進できることでしょう。
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