マルコ11章11、19節によると、イエスたちは夕方になると都を出て、ベタニヤに行って宿泊した様だ。 そして、商売人たちを追い出したのは、エルサレムに着いた翌日として記述されている。 ルカはこうした時間の流れを省略しているので、そのつもりで読まねばならない。 ルカによる福音書20章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。
(イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、イエスに言った。 「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」)1〜2節
(そこで、 「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」 )3〜4節 (すると彼らは、 「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」 と言って、互いに論じ合った。)5〜6節
(それで、 「どこからか知りません。」 と答えた。 するとイエスは、 「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」 と言われた。)7〜8節
(私が持つ聖書の補足欄から) 1〜20節、 : ルカは、イエスの権威についてのサンヘドリンとの問答を、宮清めと一組に扱い、両者を区切る日付の境(マタイ21章18節、 マルコ11章19節)を省いている。
(私の思索) 何の権威によって、これらのことをするのか、という問答が始まったのだが、ここでは二つの問題がある。 言葉通り 「何の権威」 という事と、 「これらの事」 とは何かという事であろう。
先ず、 「何の権威」 についてだが、祭司長、律法学者、長老たちは、旧約聖書を熱心に調べており、イザヤ56章7節の言葉も熟知していたであろうから、神からの権威と感じ取っていたであろう。 イエスは、父とわたしは、1つだと意識しておられるから、神の権威によっているのだ。
一見、何の問題もなさそうに見えるのだが、祭司長たちは、民衆の前で 「神の権威」 という発言をさせ、神に対する冒とく罪という名目で、民衆による“石打の刑”にしたいのだ。(ルカ22章70節参照)
次に 「これらの事」 とは、 「商売人たちを追い出した事」 と 「宮で民衆を教えている事」 だろう。 特に、 「商売人たちを追い出した事」 は、その活動を祭司長達が容認してきた事柄なので、それを否定する行動は、彼らのプライドを激しく傷つけ、彼ら自身が非難の対象になっている事を、感じ取ってていたことであろう。 また、 「宮で民衆を教えている事」 は、自分達の指導より、民衆が熱心に聞きたくなるような内容であったので、いまいましい思いをしていたのではなかろうか。
(私の脳裏をかすめる言葉) 「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、 『悔い改めます。』 と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 ルカ17章4節
(私の感想) この時のイエスは、何を考えておられただろうか。
イエスは、彼らが自分達の誤りを認めて、本来の信仰に戻るように、願っておられたのではなかろうか。
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