ペテロは、自分たちの前に祭司達の一団が来たのを知って、すぐに戦闘態勢に入ったであろう。 「剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。」 とマルコは伝えている。 ルカは、イエスが 「やめなさい。それまで。」 と言って制止したと伝えた。 弟子達には、イエスと祭司長達の一団を交互に見つめる以外に、何もなすすべがなく、少しずつ一団から離れたであろう。 ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で確認しながらお読み下さい。
そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。(52節) あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」 (53節) 彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。(54節)
(私の思索) ルカは、ユダ以外の押しかけてきた人達を、“祭司長、宮の守衛長、長老たち”と記録した。他の福音書も確認しておこう。
マタイ:26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
マルコ:14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。
ヨハネ:18:3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。
以上の記録から、次のような人達が押しかけてきた、というのが実態ではなかったか。これは、私の推論に過ぎないので、別の考え方があると思います。 @ 祭司長から差し向けられた“役人たち”、祭司たちかもしれない。 A 宮の守衛長から差し向けられた“一隊の兵士達” B 長老たち、律法学者たち、パリサイ人たち、から差し向けられた“群衆”
このように整理してみると、ルカは実態を把握出来なかったのかという疑問が残る。しかし、私は、意思の発動者を記録したと考えられるので、問題にならない。即ち“祭司長、宮の守衛長、長老たち”の意思がイエスを捕らえに来たと言いたいのである。
少しばかり脱線するが、ルカがマルコの福音書などを既に読んでいたと考えると、ルカの皮肉とも受け取れる。 この福音書は、ルカがパウロと共に、伝道旅行をしている過程で記述したと考えられているので、1つ1つの出来事を、彼の経験と信仰によって自分のものに消化いたでしょう。
例えば次の通りである。 祭司長たちはイエスを捕らえる確かな理由がないばかりか、多くの人々がイエスの不思議な力や言葉の威厳に驚いて、イエスについていってしまうので、自分たちのイエスに対する嫉妬が抑えきれなかったし、今後、自分たちのところに集まる民衆がいなくなることを考えると、社会的立場が危うくなってくる. これを感じていたので、イエス抹殺を推進したかったのだ。 こうした自分たちの心と意思は、彼ら自身が最も良く知っていて、イエスの噂を聞き、イエスの話を間接的にでも聞いてみると、自分たちは神の律法の本質からみると間違っていると彼らも感じ始めていた。 にもかかわらず、彼らは自分たちの計画を変えようとしなかった。 自分たちの計画は、神の目からみると罪かもしれない。 自分は罪の行動に参加したくないけれども、イエス抹殺を推進したい。 後になって後ろ指を差されたくないから、イエス捕縛の現場には行きたくない。 だからルカは、“祭司長、宮の守衛長、長老たち”の――意思がイエス捕縛に向かったと記述した――という皮肉である。
私の考え過ぎかもしれないが、Tコリント12章8節 「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、」 とパウロが言っているように、表現が異なるといって、ことさらに騒ぎ立てることではないのでしょう。
(私の脳裏をかすめる言葉) イエスは答えて言われた。 「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」 ヨハネ6章29節 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、・・・・Tコリント12章8節
(私の感想) ユダヤの宗教指導者の立場にいる人達の思いは、複雑だったのでしょう。イエスという新興宗教指導者が現れ、人々の思いを従来と異なる(と感じる)方向へ導き始めたのを見ていて、自分たちの指導力の弱さを感じながら、自分たちの存在意義を確認したかったでしょう。 こうしたジレンマは、個人であれ、1つの団体であれ、国家であれ、歴史の波という形で受ける時がある。その時に、何を基準にして、新しい時代を迎えるのか、新しい準備をするのか、あるいは、一過性の現象に過ぎないとして見守る程度にすべきなのか、大変難しい。 この日は、キリスト教界で言い古された言葉を使うなら、律法の時代から福音の時代に移ろうとする起爆装置のスイッチが、祭司長に代表されるユダヤの宗教指導者によって押された瞬間である。 このスイッチについて神の立場から見れば、イエス降誕の予告であり、イエス降誕であろう。人によってはイエスの復活にあるという方もおられよう。又、イエスの立場から表面的に考察すれば、以前述べたゲッセマネの園における苦闘の祈りであろうか。
少しくどくなるが、ついでにお付合い願おう。弟子達にとってはどうか。 イエスによって初めて声をかけられた時か、使徒の働きの聖霊降臨の時と言うべきか。更に現代の私にとって、私達にとって、律法によって生きる日々から、福音によって生きる日々への転換スイッチは、いつ押されるだろう。個人の内的経験の問題であるが、私の場合は福音を受け入れる側のスイッチが既に押されている。
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