いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2008/07/15 15:52:26|聖書
やもめとレプタ銅貨
ルカによる福音書21章です。
お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(イエスが目を上げると、金持ち達が献金箱に献金を投げ入れていた。そこに、ある貧しいやもめが、レプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。それで、イエスは「私は、真実をあなた方に告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。皆は、有り余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」と言われた。)1〜4節



(私が持つ聖書の補足欄から)
1節、献金箱 : 神殿の婦人の庭でのこと。その庭の壁に、ラッパ状の受け口が、十三ついた献金箱があった。

生活費の全部 : やもめの献金は、すべてを神にゆだねた生き方が、現されている点に価値がある。


(私の思索)
レプタ銅貨は、当時の最小単位の銅貨。128レプタが、1デナリに相当する。1デナリは、通常の男性労務者が1日働いた時の収入。1レプタは、現代日本の感覚で、50円硬貨 程度のものだろうか。
マルコ12章41節には、「多くの金持ちが、大金を投げ入れていた。」と書かれているが、当時も、金持ちと極端に貧しい人々がいたのでしょう。手持ちの生活費が100円?であった。

この貧しいやもめは、4節から、女性だとわかる。当時も男性の収入よりかなり少ないのだろう。
仮に、100円が手元に残っていても、明日が心配になってくるだろうに。
神の護りを期待し、信じなければ生きていけない。
逆に、この女性は、神を信じて、平安のうちに、生きていたと言うべきか。
「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。(ルカ11章3節)」と祈る女性であったか。
手持ちの生活費全部を神に返しているのだ。

蛇足になるのだが、ここでいう金持ち達の献金を、イエスが、「あり余る中からの献金」と評されたのは、見栄や付き合いで、人に見せるために、投げ込んでいるものと見られるのか・・・・・。


(私の脳裏をかすめる言葉)
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 (マタイ5章3節)


(私の感想)
身近に存在する何かを指す時の代名詞に、あの・・・、その・・・、この・・・、etc があるが、ここは「この女」と訳されている。イエスは、貧しい女が、献金箱に近づく前から、女がしようとしていることを知っておられて、それが終わるのを見てすぐに、近づき「真実をあなたがたに告げます。この貧しい・・・・・」と語られたような感じを受ける。
女は、現代の私の前で、既に、イエスから栄誉を受けている。

この後、使徒達の伝道が活発になるまで、この女は弟子達と行動を共にするようになって、「あの時、イエス様は、こんな事を言われたので、驚きました。」等と言い、神を崇め、イエスを喜んでいたであろう。

主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。 (Tサムエル2章8節)







2008/07/14 10:39:44|聖書
なぜキリストをダビデの子と言うのか
祭司長たちの間者に対する回答も、サドカイ人の質問に対する回等も、その説明が素晴らしいので驚き、質問する勇気がなくなった。
それで、イエスが、人々に「ダビデの子」という言葉について、深く考えさせるための問題を出した。
ルカによる福音書20章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(彼らは、それ以上何も質問する勇気がなかった。)40節

(すると、イエスが彼らに 「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。 『主は私の主に言われた。 「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」 』 こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。」 と言われた。)41〜44節


(また、民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに 「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」 と言われた。)45〜47節


(私が持つ聖書の補足欄から)
42節、 : ダビデと詩篇とは、 「モーセ」 と 「律法」 のように、同義語(使徒四25、ヘブ四7)。

44節、どうしてキリストがダビデの子でしょう。 : ダビデの子であるキリストはダビデの主でもある。

46節、長い衣 : マタイ二三5 「衣のふさを長くし」 、マコ一二 特に学者や富者たちが威厳を示すために着た。

47節、やもめの家を食いつぶし : マタイ二三14 律法学者、パリサイ人たちは、専門の法律家の地位を利用して、富めるやもめの訴えを処理し、その財産をかすめていた。


(私の思索)
40節の 「質問する勇気がなかった」 とは、 「イエスに何かを問いかけて、困らせ、うまくいくなら民衆の反感や疑いを持たせるようにする勇気(蛮勇)すらなくなった」 という意味であろう。
イエスの説明の素晴らしさに、感心してしまったからであり、その辺りの感覚が、39節の律法学者の発言に現わされている。

43節は、詩篇110篇1節の言葉だ。
主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」 
この詩篇は、ダビデの賛歌と呼ばれている。
「私の主」とは、 「ダビデの神」 と置き換えられる内容だ。
先頭の 「主は」 とは、NKJ訳によれば 「The Lord said to my Lord,」 と訳されているので、混乱するところだが、イエスの立場なら 「父なる神は、ひとり子なるキリストである私に」 仰せられると説明されている部分だ。なぜそうなのかは複雑なので、省略したいが、44節の補足欄を、そのまま受け取って頂ければ、全体として理解できるでしょう。
しかし、イエスの問いかけは、律法学者達の思考を混乱させたに違いない。

45節の、 「民衆がみな耳を傾けている時に」 とは、イエスが、ご自身の問いかけに対する、わかり易い説明をして下さるだろうと期待して、 「民衆がみな耳を傾けている時に」 であり、弟子達に向かって言われたのだが、民衆にも、律法学者達にも、聞こえるように言われたのであろう。

イエスは、律法学者達に、自分の心の醜さを気付かせ、悔改めの機会を与えたのに違いない。しかし、多くの指導者たちは、更に頑なになっていく。
彼らの中の “彼ら自身” は、苦々しい思いをしみながら、なおも生き続ける。

ここで、イエスの 「律法学者評」 を見ておこう。
そのキーワードが二つある。 「好きです」 と「見栄を飾るために」である。
これらを、少し誇張して書いてみよう。
@ 彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたり、会堂の上席や宴会の上座が好きです。即ち、人々の尊敬や、高い評価を受け、周りの者を見下すのが好きなのです。
A 彼らは、信仰深いように見せるため、人々が見ているところで、長い祈りをします。こうして得た信頼と、専門の法律家の地位を利用して、富めるやもめの訴えを処理する時、高額な費用を要求して、財産をかすめています。得た富は、見栄を飾るために用います。

律法学者達によって、 「あの方は、罪人のところに行って客となられた。(ルカ19章7節)」 と評価されたイエスと、全く反対の行動である。
イエスと律法学者評の言葉と行動から「隣人を愛する」とは、どのようであり、どのようでないか、見ることができる。


(私の脳裏をかすめる言葉)
イエスは、みなの者に言われた。 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。                         ルカ9章23,24


(私の感想)
「隣人を愛する」 力を、私の中の “私” は持っていない。
今のままなら、イエスについて行く事ができない。
でも、ついていきたい。







2008/07/07 23:19:00|聖書
第一の復活にあずかる者は幸い
納税先問答で、祭司長たちの間者たちが、お答えに驚いて、黙り込んでしまったのに、今度はサドカイ人が来て、質問を始めた。それも、復活があることを否定するサドカイ人が、復活後の夫婦について質問し、論戦しようと試みたという。
ルカによる福音書20章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(復活を否定するサドカイ人のある者達が、イエスのところに来て、 「先生。モーセは私達のために 『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子が無かった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のための子を設けなければならない。』 と書いています。
ところで、7人の兄弟がいました。
長男は妻をめとりましたが、子供が無くて死にました。
次男も三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子供を残さずに死にました。
あとでその女も死にました。
すると復活の際、その女は誰の妻になるのでしょうか。
七人ともその女を妻としたのですが。」 と言った。)27〜33節

(イエスは彼らに 「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、 次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。
彼らはもう死ぬことができないからです。
彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。
それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、 『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』 と呼んで、このことを示しました。
神は死んだ者の神ではありません。
生きている者の神です。
というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」 と言われた。
律法学者のうちのある者達が答えて、 「先生。りっぱなお答えです。」 と言った。)34〜39節



(私が持つ聖書の補足欄から)
36節、御使いのようであり : 復活の時には結婚状態は無くなる。復活した聖徒は、男も女もなく御使いのようになる。

37,38節、 : アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神という関係を持たれるなら、アブラハム、イサク、ヤコブは必ず生かされる(よみがえる)。すべての人は、このように、ただ神に対してだけ生きる。

御使い : 天使のこと。神に仕えるために、神によって造られた霊的人格を持った存在。彼らにも自由意志が与えられていたので、堕落した者もおり、それが悪魔となったと考えられる。御使いには階級があり、またそれぞれの職能があった。


(私の思索)
非常に難しい部分です。なぜ難しいのか。
経験が無く、哲学などと異なり、考える手がかりも無いからである。
更に、イエスが語る事柄は、古い時代の事柄を引用し、未来に起る事柄を含めて、今を説明するからでしょう。(神と信仰の世界だから当然と言えば当然?)
後になって、 「あの時、話された意味は、こういう事だったのか。」 という具合に理解させていくことが多い。
また、今回の課題は、復活という事であり、死んだ後の事だから、確認されるのは未来である。

誰かが、JR山手線に乗車して、停車駅で降りなければ、乗車した駅に戻ってくる。
乗っている車両が、同じ方向にだけ走るので、戻れないかもしれないと心配する人は、稀である。
朝、目覚めたとき、昼、夕、夜と経過したあと、朝が来ないかもしれないと考える人も、稀少価値がある。
日常的経験・繰り返し起きる経験が、そうさせている。
思考の中で見落とされていることは、非常に少ない確率で起きる事柄と、一回しか起きない事柄を、いちいち細かく取り上げて考える必要を感じないからだ。
ところが、銀行の統合システムが、うまく動かないで、「トラブルがおきた」と報道されている事件の、殆んどの原因は、非常に少ない確率で起きる事柄と、一回しか起きない事柄等を、システム設計者が見落としてしまった場合であろう。
人間が見ると、極めて稀なケースだが、コンピュータは機会にすぎないから、先に進めなくなるからだ。

2000年前に、イエスが、サドカイ人の質問に対して、 「復活があり、めとることも、とつぐこともない世界」 と話されたのですが、聞いているのは、サドカイ人だけでなく、民衆、律法学者、パリサイ人、外国からの旅人、弟子達、そして現代の私、などがいる。
現代で、この事を真剣に考える人はどの程度、おられるのでしょう。
私自身も、難しいので、考えようともしませんでしたし、キリストの教会でさえ、語られる事が少ないように思う。

思考を聖書の世界に戻そう。
先ず、 「復活があることを否定するサドカイ人」 という文章が出てくる。
これは、その当時から 「復活があることを肯定する誰か」 がいることを示している。
イエスを別にして、39節では、律法学者がイエスの答えを肯定し、ほめている。

ではなぜ彼らは、何を根拠に 「復活があると考えたのだろうか。」
私が、気付いたのではないが、詩篇16章10節に 「私のたましいをよみに捨ておかず」 というダビデの予言がある。
即ち、聖者の魂と体を、よみ(ここでは墓と理解する)に捨てたままにしない、という信仰が生まれ、継承されたらしい。ユダヤ人の中に、復活を信じない人達がいても不思議ではなかろう。

ただ、 「復活は無い」 と主張している人が、 「復活の時はどうなの」 と質問するのでは、・・・・・ですねエ。
イエスは、その・・・・・に対しても、丁寧に説明されているのは、遺言を語るような真剣さがあったのだろうか。
ただ、サドカイ人達が、神の前に真剣に生きようとするなら、彼らにとっても重大な教えである。
イエスは、彼らが神の前を意識して生きることを、暗に促している。

イエスの言葉から、復活に関する手がかりを見つけたい。
34節に 「この世」 という言葉があり、35節に 「次の世」 と言う言葉が使われている。
また、パウロは、Tコリント7章31節で、 「この世の有様は過ぎ去る」 と表現している。
これらを統一して読み直すと、 「この世は過ぎ去って、次の世が来る」 という、聖書の超歴史観が見えてきます。

次に、ヘブル9章27節の 「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」 という言葉を、更に加味して考えると、 「この世に生きる人間は、いつしか必ず死ぬ。そして、生涯をどのように生きていたのか、というさばきを受ける時まで、永い眠りにつく」 のでしょう。
ここで、ルカ20章35節を読むと、全体がつながりそうです。いかがでしょうか。
(要約する)その日、第一の復活にあずかり、彼らはもう死ぬことができず、御使いのようであり、復活の子として神の子どもです。
神に対しては、みなが生きているからです。

もう1つ難問がありました。
恥ずかしい程に、浅い知識しかない私に、理解できるはずがないので、誤解することを覚悟しながら、書き進めているのです。

この部分のイエスの言葉は、死人の中から復活するのに 「ふさわしくない」 人について、何も述べていないのです。
さばきがあり、 「ふさわしい」 人の様子だけが述べられています。
これから、福音を完成させようと、前進し続けるイエスにとって、全ての人々が、福音によって 「ふさわしくされなければならない」 と、感じているからでしょうか。

神に対して生きていない存在者、即ち、神を信じない人々、あるいは、神の警告を無視する人について、聖書は、何と言っているか調べてみた。

次の文章は、福音が現わされてから、およそ60年のちに、キリストの御使いが、使徒ヨハネに告げた予言の言葉として書かれた黙示録の一部である。

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間、王となる。    黙示録20章6節

しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」  黙示録21章8節


(私の脳裏をかすめる言葉)
兄弟たちよ。
私は次のことを言いたいのです。
時は縮まっています。
今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。
泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。
世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。
この世の有様は過ぎ去るからです。      (Tコリント7章29〜31)


(私の感想)
第一の復活にあずかる者と、第一の復活にあずからずに第二の死に至る者がある。
この世における生涯を、神の前に生きた人には、第一の復活にあずかる希望がもてる。
その希望がない場合と比べると、想像を絶する違いがある。
すでに、これらのことが、分かり易く整理された単行本が、あるのではないか。
私が、見落としている聖書の言葉も、たくさんあると思う。

これらの事は、別の機会に再度、整理しなければならないが、この世で生きている今の生き方が、来るべき時に問われるようです。

私の生活も、再点検が必要です。







2008/07/07 5:24:00|聖書
礎の石――感想部に追加
イエスは、律法学者等に自分が何の権威によって、 「商売人たちを追い出した事」 や 「宮で民衆を教えている事」 をしているのか回答しないと宣言したあと、民衆に例えによって話された。
ルカによる福音書20章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(イエスは、民衆に例え話を始められた。 「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長期間の旅に出た。)9節

(収穫の季節になったので、ぶどう園の収穫の分け前を受け取るために、一人のしもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋叩きにしたうえに、何も持たせないで送り帰した。)10節

(そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋叩きにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。)11節

(彼は、さらに三人目のしもべを遣わしたが、このしもべにも傷を負わせて追い出した。)12節

(ぶどう園の主人は 『どうしようか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう』 と言った)13節

(ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。 『あれは跡取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。 そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。)14〜15節

(彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園を他の人達に与えてしまいます。」 これを聞いた民衆は、 「そんなことがあってはなりません。」 と言った。)16節

(イエスは、彼らを見つめて言われた。 「では、 『家を建てる者達の見捨てた石、それが礎の石となった。』 と書いてあるのは、何のことでしょう。)17節

(この石の上に落ちれば、誰でも粉々に砕け、またこの石が人も上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。)18節

(律法学者、祭司長たちは、イエスが自分達を指してこの例えを話されたと気付いたので、この際イエスに手をかけて捉えようとしたが、やはり民衆を恐れた。)19節



(私が持つ聖書の補足欄から)
9〜19節、悪い農夫たちの例え : 強情なユダヤ教の指導者たちに、イスラエルに対する、神の取扱を示しながら、暗に彼らの罪を指摘する。
ぶどう園 : イスラエル
悪い農夫たち : ユダヤ教の指導者たち

10〜12節、しもべ : 旧約時代の預言者及びバプテスマのヨハネ
13節、 息子    : イエス
14節、あれを殺そう : イエスの受難と死を暗示する。
16節、農夫どもを打ち滅ぼし : 紀元70年のエルサレム滅亡の時に成就した。
17節、見捨てた石、礎の石 : イエスの死と復活を暗示する


(私の思索)
先ず、ストーリーにかなりひどい無理があるのだが、補足欄を参照しながら、この例え話を読み直して見る。

神は、エジプトの奴隷生活の中で苦しんでいたイスラエルの子孫達を、モーセを用いて、ご自分の民として呼び出した。
彼らに律法を与え、カナンの地に導き、神に従わない異邦の民との戦いを教え、イスラエルという大集団(ぶどう園)を形成させた。
また神は、祭司や部族長など(農夫達)による、信仰を軸にした自主運営形態にして、御自身が直接関与することを控えるようにした。(長い旅に出た。)

信仰集団の成長を確認するため、預言者(しもべ1)を遣わしたが、エルサレムの指導者たち(農夫達)は、預言者を捕らえて牢獄に入れ、虐待した後で町の外に放り出した。

別の預言者(しもべ2)を遣わしたが、エルサレムの指導者たち(農夫達)は、預言者の言葉をあざ笑って、相手にしなかった。
三人目の預言者(しもべ3)を遣わしたが、エルサレムの指導者たち(農夫達)は、預言者に危害を加えて追放した。

私(息子=イエス)を遣わしたが、エルサレムの指導者たち(農夫達)は、殺そうと相談している。そして、私を十字架につけて殺してしまう。

すると、私の父はどうするだろう。
父は戻ってきて、この指導者たちを滅ぼし、エルサレムを他国人に渡してしまう。
これを聞いた、エルサレムの民衆は、 「そんなことがあってはなりません。」 と言った。

そこで、イエスは、彼らを見つめて言われた。 「では、 『家を建てる者達の見捨てた石、それが礎の石となった。』 と書いてあるのは、何のことでしょう。」 と言われたのである。

私も全く分からなかったが、そのままにしていたので、時間を使って調べてみた。

『家を建てる者達の見捨てた石、それが礎の石となった』 という文は、詩篇118篇22節の句であり、その後に続く24節には、 「これは、主が設けられた日である。」 と歌われている。

暗示に満ちた言葉なのでわかりにくい。
「見捨てた石」 が、補足欄に記されているように、イエスの死を意味するとすれば、 「家を建てる者達」 をエルサレム(イスラエルの代表)の指導者たち、又は、ユダの指導者たちと置き換えることが出来よう。

19節には、 「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分達を指してこの例えを話されたと気付いた。」 と書いていることからも、前述の理解でよいのであろう。

即ち、イエスが民衆に問いかけた時、イエスの心の内には、律法学者達に捨てられ、死ぬことになるが、それが信仰者集団(神の家)を支える大切な事実(礎の石)となるために、私の父が、私の死を設けられた(計画した)のだという回答があったと考えることが出来るでしょう。

続き。
私(イエス)の父は、直接手を出すことにして(戻って来て)、エルサレムの指導者たち(農夫ども)を打ち滅ぼし、エルサレム(ぶどう園)を他の人達に与えてしまいます。」

民衆の意見は、 「そんなことがあってはなりません。」 なのだが、現実は、イエスは十字架に付かれ、紀元70年にエルサレムは、ローマ軍によって破壊され、例えで話された通りに、イエスが確信している通りに推移する。

このように考えてくると、先の 「祈りの家であるべきなのに」 の投稿記事の、通称 「宮きよめ」 といわれるイエスの行動は、父の計画通りに進めるために、イエスは、ユダヤ教指導者の反感を積極的に煽ったという側面を感じる。

しかし、律法学者、祭司長たちが気付いたなら、悔改めてほしいという配慮は、継続しているでしょう。(それが、礎の石、福音を完成させる計画だから。)

イエスと対立する律法学者、祭司長たちは、民衆を恐れたため、何も出来ないでいる。
イエスは、舞台裏で虐殺されることを許さなかった。
誰の目にも見える形で、過越しの子羊の様に、殺される必要があったからでしょう。

(私の脳裏をかすめる言葉)
弟子たちは、 「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」 と書いてあるのを思い起こした。ヨハネ2章17節(詩篇69篇9節参照)


(私の感想)
イエスは、聖書の専門家である律法学者や、祭司長たちが気付くように、話をされている。
彼らが、神の救いに入れられる事を、絶えず望んでおられたのだろう。

神の計画は、私の理性を破壊しそうだ。
18節は、“私”という魂の破壊を指すのだろうか。判らないが、激しい言葉だ。




以下2008年7月7日追加
Tペテロ2章6〜8節に、次のような文章があるのを見つけた。

6節、なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

7節、 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、

8節 「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。

従って、ルカ20章18節の言葉は、律法学者や祭司長達を対象とする「つまずきの石、妨げの岩。」ということだ。

私は、イエスの優しさに、引き寄せられている。

イザヤ28章16節も引用されている。
だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。







2008/06/30 12:47:47|聖書
納税先問答
聖書記者ルカは、イエスが、ユダヤ教の単なる預言者ではなく、新しい信仰集団(キリスト教)における 「礎の石」 である事を記述した後、ユダヤ教指導者との、納税問答を記事にしている。
ルカによる福音書20章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(機会を狙っていた彼らは、信仰者を装った間者を送り、イエスの言葉尻を取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。)20節

(その間者達は、イエスに 「先生。私たちは、あなたのお話しや、あなたの教えは正しく、また、あなたは分け隔てをせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。」 という言葉で質問を始めた。)21節

(ところで、私たちが、カイザルに税金を納める事は、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。)22節

(イエスは、そのたくらみを見抜いて、 「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」 と言われ、彼らが 「カイザルのです。」 と言うと、彼らに 「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」 と答えられた。)23〜25節

(彼らは、民衆の前でイエスの言葉尻をつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。)26節



(私が持つ聖書の補足欄から)
20〜26節 : 税金問答の記事で、ルカは、体制側の 「ヘロデ党の者」 (マタイ22:16、マルコ12:13に出てくる)を登場させず、専ら当時のキリスト教が嫌疑をかけられ易かった、熱心党的反体制的な動きへの誘惑として書いている。ルカの意図は、 「イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしている」 (使徒17:7参照)との嫌疑をかけられたキリスト教を弁償することにある。

24節、デナリ銀貨 : パレスチナで用いられていたローマの基本通貨。表にはローマ皇帝テベリオの胸像が、裏にはその母リヴィアの像が刻まれていた。

25節、税金の納め先 : イエスの主張は、カイザルにも神にも、である。これには、カイザルへの体制的忠節では神のものを返したことにはならない、という警告が含まれる。神は国家に対立する者でも保護するものでもなく、超越的主権者であられる。


(私の思索)
補足欄に 「熱心党」 という言葉が出てくるが、その意味するところを確認する手段がない。補足欄には、反体制的な動きへの誘惑という文章が続くので、多分次のような事であろう。
<私の推定内容>
カイザルに税金を納める事は、律法にかなっているかどうか、という問答を提示したのは、当時、 「神への熱心」 という立場を取り、 「税金は律法の通り、 全て神に納めるものであって、カイザルには納めるものではない。」 と主張する政治活動グループが存在したのであろう。

イエスが、 「その通りだ。律法には、カイザルに納めろとは書いてない。」 と答えるなら、政治的な反体制グループとして、20節 「総督の支配と権威にイエスを引き渡そう」 、 「そうでない。カイザルに納めなさい」 と答えるなら、律法に反すると言って、民衆に訴える。どちらにしても、26節 「民衆の前でイエスの言葉尻をつかむ」 ことが出来ると考えたのだ。
21節の、イエスを敬うかのような言葉を前置きして、罠となる問いを提示したのだ。

ルカによる福音書が書かれたのは、紀元57〜60年頃らしいが、その頃は、使徒17章7節に記述されている問題が起きた時期より後なのでしょう。補足欄で、ルカの意図について触れているが、ルカにとって、緊急事項が 「反体制」 と批判されることに対する弁償だったのでしょう。
キリスト教の神は、国家に対立する者でも保護するものでもなく、超越的主権者であられる。


(私の脳裏をかすめる言葉)
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13章1節)


(私の感想)
税金問題は、いつの時代でも人々を悩ますのでしょうか。所得税、都市計画税、固定資産税、介護保険負担金、健康保険負担金、年金、消費税(一般、ガソリン、自動車重量、酒、煙草、etc)etc。
私たちの日常生活に、直接影響しますから、敏感にならざるをえないのでしょうか。