19節で、「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」と結論のような言い方をされたが、イエスの話が続きます。 ルカによる福音書21章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。
(しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。 贖いが近づいたのです。」)20〜28節
(私が持つ聖書の補足欄から) → 「脚注」 の紹介を中止することに致しました。御了解下さい。
(私の思索) 今回、取り扱う最初の言葉は、 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」 である。この部分は、エルサレム滅亡の預言である。紀元70年に起きたことが思い当たるのだが、27節には、キリストの再臨と思われる文章があり、28節には、 「贖いが近づいた」 と書かれている。読み流す程度では、理解できない。 筆者は、西洋史はもちろん、イスラエルの歴史をほとんど知らない。自慢にならないのにも程があるのに、勉強嫌いです。されど、手元にインターネットという図書室があるので、検索した。 見つけたのが、以下のページと内容である。
無神論者が見る聖地と紛争地の今!→ http://homepage2.nifty.com/hashim/israel/index.htm この中の, イスラエル/パレスチナ年表→ http://homepage2.nifty.com/hashim/israel/israelhistory.htm この年表から、エルサレムに関する主要事件をピックアップした。 紀元70 エルサレムのユダヤ人反乱、ローマ軍ティトスにより鎮圧される。第二神殿破壊される。 紀元614 ペルシア軍がエルサレムを蹂躙。 紀元1099 十字軍、エルサレムを攻略。キリスト教の「エルサレム王国」を建国。 ・・・・・ユダヤ教徒やイスラム教徒、カトリック以外のキリスト教徒の大規模殺戮が行われる。 紀元1831 エジプトのムハンマド・アリーがエルサレムを支配(〜1840)。 紀元1917 12月9日、オスマン帝国軍エルサレム守備隊、イギリスに降伏。
以上の記事から見ても、エルサレムの滅亡に類する事件が、複数回起きている。 これはどこまで続くのだろうか。
私の思考は、9節の 「終わりは、すぐには来ません。」 という言葉に戻ってしまうのだが、27節に、 「 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」 と書かれていて、永遠に続く事ではないから諦めるな、と宣言している。
ここでも 「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」 (ヘブル10章36節)と心に囁かれる。 「忍耐」 が繰り返し説かれねばならないほど、困難が厳しいものであり、 「忍耐」 を失うと、信仰まで失う可能性が高いのだろう。
さて少し、サービス精神を発揮して、重要でない様な気付きを書いておこう。 24節に、 「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」 と書いてあるが、この事はすでに起きている。 そして、25、26節には、天文学的領域の異常現象や、地球温暖化現象などをはるかに越える超異常気象現象と思わせるような記述があるが、私が知る限り、まだ現実問題として報告されていない。 仮に、この世の歴史が、24節から26節の記述に全て書かれていると仮定すると、現在は、 「異邦人の時」 である。
いずれにしても、27節や28節を期待しながら、 「忍耐しなさい」 という事を教えている。
(私の脳裏をかすめる言葉) この希望は失望に終わることがありません。 (ローマ5章5節)
(私の感想) 福音の完成を知らされ、福音に預かる信仰をいただく人々は、幸いだ。 「終わりは、すぐには来ません」 と言われても、手元に確かな希望があるからだ。 28節に 「贖いが近づいたのです。」 と書かれているのは、パウロが説く、福音信仰による贖いではなく、再臨に伴う贖いであろう。私にとって、全くの未開地である。
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