いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2008/04/22 0:06:28|聖書
発想転換――福音は
私は、ルカ18章25節で思考の限界を感じて、この先を見ていく気力さえ失せていた。

それで、昨年(2007年)10月20日から今日までの6ヶ月間、予告なしで、長期休暇を頂いた。

その、気分転換を通して、あたりまえのことに気付かせていただいた。

ここまでの内容は、 「福音が完了していないのだ」 ということだ。

福音は現われているのだが、完了していないのだから、
福音は予告されているが、実現していないのだから、
イエスさまの本当の姿が、朧げにしか見えていないのだから、

弟子達と同じように理解できなくて良いのだと思う事にした。
したがって弟子たちと同じように分からないまま先に進もう。

ルカの思いを少しでも知るために、ヨハネの福音書からの引用はここで行なうべきではないと思うから。

ゆっくり歩き出そう。







2007/10/20 17:31:02|聖書
裕福な者はむずかしい
自分の業績を大切に握り締めていたパリサイ人の例話を話されたあと、金持ちの役人がイエスに質問します。
ルカによる福音書 18章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(ある役人が、 「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」とイエスに質問した。)18節

(イエスは 「尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。戒め『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」」 と言われた)19〜20節

(その役人は 「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」 と応えた。)21節

(これを聞いたイエスは、 「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 と言われた。)22節

(役人はこれを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。)23節

(イエスは 「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 と言われた。)24〜25節

(人々は 「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 と言った。)26節

(またイエスは 「人にはできないことが、神にはできるのです。」 と言われた。)27節

(それでペテロは 「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」 と言った。)28節

(するとイエスは 「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」 と言われた。



(私が持つ聖書の補足欄から)
18節、ある役人 : ユダヤ教会の役員。 会堂の役員か、サンヘドリンの議員。

22節、一つだけ欠けたものがあります。 : 旧約聖書があかしするイエス(ヨハネ5:39)に従うために、兼ね仕えてきた富を放棄する決断に欠けていた。自己放棄がすべての弟子に必要とされる。

25節、針の穴 : (マタイ19:24) 金持ちは、貧しい人のように救いの必要を切実に感じることが少ないので、救われるのは困難であるとの意。

28,29節、自分の家 : 「妻、兄弟、両親、子ども」 という家族の意。


(私の思索)
前々回の投稿から、今回の投稿までについて、その要点を並べてみると次のようになる。
(前々回)
他の人を見下すほどに立派に行動していると思う人は神との良い関係が得られず、自分に失望していた取税人は神と良い関係を保証された。(9〜14節)
(前回)
知識も経験もある弟子たちの判断と行動は否定され、神の国に入るために幼子とその保護者の行動を推奨された。(15〜17節)
(今回)
行動が立派でお金持ちは神の国から離れて行き、神の国のために貧しくなった者は後の世で永遠のいのちを受けない者はない。(18〜30節)

これらのことは、神(イエス)の御性質の内の 「愛するお方」 だという事に強く関係している。
即ち、人間関係に失望していた取税人や幼子は、(神から)今愛されることを待ち望む者達であり、 「愛するお方」 との良い関係を保ち易く、立派に行動できると思う人や自分で判断する者はすでに満ち足りていて(神から)愛されることを、今必要だと感じにくいので 「愛するお方」 との関係を保つ事より、自立する魅力に惹かれるからではないか。

その上で、お金や財産やいろいろな能力があっても、生物的な“死”を超越できない存在であることを感じてしまう人間は、死後の世界を恐れることが残ってしまう。

金持ちの役人は、 「小さい時から守っております。」 という言葉にあるように、自分の努力、経験などによって“死”を超越できる可能性があるように考えていて、今の生活改善や心の慰めなどを求めず、 「私は何をしたら」 と質問している。
彼は、主(イエス)こそがその解決者であると感じ取ることもせずに、イエスから何かのヒントをもらって自分で解決したかったのだ。
だから、 「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 とたずねたのだろう。

ところが、イエスの回答が予想だにしない内容だった。
彼は、自分が保有しているお金を、死んだ後に自分で使えるとは考えなかっただろう。
たぶん“死”以前の生活を心配しないで過ごせるのは、お金が重要な役割を果たすと思っているので、手放せないでいる。
神の保護に頼るのでなく、自分の経験とお金の便利さに頼ろうとする。

即ち、過去の経験から、生きていくための難問を解決するのに、お金を利用するという魅力を手放せないと感じている役人は、イエスの回答を受け入れる事ができなかった。
だから、永遠のいのちの保証という命題を解決できずに悲しんだのだ。


(私の脳裏をかすめる言葉)
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネ3:3)
人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。(ヨハネ3:5)
私は終わりの日にその人をよみがえらせます。(ヨハネ6:44)


(私の感想)
生きていくための難問を解決するのに、お金を利用するという魅力は私も知っている。
しかし、私の貯えは僅かだ。
生きている間に想定し得る人生のリスクや医療費などを考慮する資金としてはすでに足りない。
生きるにしても死んだ後についても、イエスに頼りたいものだ。







2007/09/29 9:44:10|聖書
幼子とその保護者の行動
自分の業績を大切に握り締め、神に対し、心を(霊を)開放しない(できない?)ままでいる例話の中のパリサイ人は、神とのつながりを得ることができなかった。

聖書の記者、またはイエスは、その原因を幼子とその保護者の行動によって解説しようと試みている。
ルカによる福音書 18章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(人々がその幼子たちを、連れて来たが、弟子たちがそれを見てしかった。)15節

(イエスは、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。神の国は、このような者たちのものです。」と言われた。)16節

(子どものように神の国を受け入れる者でなければ、はいることはできません。)17節



(私が持つ聖書の補足欄から)
15節、さわっていただこう : 祈ってもらうこと、抱いて祝福してもらうこと。
その幼子たちを、みもとに連れて来た : 親は、子供が神から受ける宗教的祝福を信じ、宗教教育の義務を負うべきである。(エペソ6:4参照

17節、子どものように・・を受け入れる : 子供じみた態度ではなく、親を信頼して、当然のように贈り物を受け、平然と家に帰ってくる子供の態度に見習うことが求められる。


(私の思索)
昨日、一人の身障者を訪問した。その方は怪我によって、首から下の自由を失った重度の障害と格闘されている方だが、頭脳明晰で聖書や信仰書を読んでおられる。
その方が、 「子供のように素直になるのは、俺にできない。」 とおっしゃっておられた。
実に素直に心境を吐露されたと思う。


(私の脳裏をかすめる言葉)
イエスは言われた。 「人にはできないことが、神にはできるのです。」 ルカ18:27


(私の感想)
自分にできないことに気付くからこそ、聖霊による本物の信仰が生まれるのだろうと感じている。







2007/09/24 7:27:14|聖書
パリサイ人の祈りと取税人の祈り(一部見直し)
パリサイ人による 「神の国はいつ来るのか」 という質問に対するイエスの回答が終り、神の最終的復讐という裁きが 「すみやかに」 なされると話された後の例え話である。

ルカによる福音書 18章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(義人だと自任し、他の人々を見下しているような人への例えを話)9節

(例え話 : パリサイ人と取税人が、祈るために宮に上った。)10節

(例えの続き : パリサイ人の祈り―→神さま、私が、ほかの人々のように、ゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。週に二度断食し、受けるものはみな、その十分の一をささげております。)11〜12節

(例えの続き : 取税人の祈り―→遠く離れてたち 『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 )13節

(イエスの解説 : 取税人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。)14節



(私が持つ聖書の補足欄から)
9〜14節 : 前の例えと組合された祈りに関するルカ独特の例話。義人と取税人の対比鮮やかな描写で、人の子の日に 「義と認められる」 のはどの様な人かを明らかにする、この二人の相違は祈りが真に祈りになっているか否かにある。

11節 : 独白に終わる祈りは、他人を意識するせりふに過ぎない。

13節 こんな罪人の私 : それ以外の何ものも目に入らぬほど、自己を内面化したことを示す告白。

14節 義と認められ : 最もパウロ的な思想が明確に打ち出されている、四福音書中でも珍しい箇所。
むしろ、パウロの義認論がイエスの教えに根ざしているというべきである。


(私の思索)
「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」 との意味は理解しにくい。
「高く」 とは何か。
「低く」 とは何かがわからないからだろう。
学校の成績やオリンピックの成績、会社の勤務評定、給与評価、山の高さ、建物の高さ、札束の高さ、学歴、地位・権力、などの 「高い低い」 という感覚が強いため、イエスの心が伝わって来なかった。

「義と認め・・」 がキーワードでしょう。
イエスは 「神」 との関係が正しい(義)と評価されたのは、取税人であったと言われた。
なぜ、パリサイ人のように、不正を行なわず、行なうべき事をきちんと行なっているように見える人を正しい関係にあると言わなかったのか。
これは当然、 「自分を高くする者」 という言葉がキーワードになる。
だから、自分ですべて正しく行なっていると評価するところに問題があると見るべきだ。

パリサイ人の祈りを読み返してみると、 「ほかの人々のように」 とか 「この取税人のように」 と、評価基準を人間に置いていて、 自分を 「正しい」 と評価しているのだ。
神の基準が、もっと別なところにあったならどうだろう。

パリサイ派の人なら、ルカ10章27節で 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 と求められていることを当然知っていたろう。
だが、例話の中のパリサイ人は取税人を見下していて、 「取税人のような者でないことを感謝します。」と言っている。
「見下されるような者でないことを感謝します。」と言っているようだ。

他の人から見下されている立場を、パリサイ人自身が“良し”としていない。
これは、取税人の様な立場に立ちたくないのだ。
取税人の隣に立っていながら、自分自身のように愛そうとしないからでしょう。
神に祈っているのではなく、自己満足のひとり言のようだと言われてしまう。

独り言なら神への祈りで無い。
神を求めていない。
神に語りかけるのでもない。
神との関係は成立しない。
自己満足のひとり言では、神との関係が正常だと言えない。

例話のパリサイ人が、このことに気付き、 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 と言われているお方を意識するなら、例えば 「隣の取税人を愛する力がありません。こんな私を哀れんでください。」 と祈るのだろう。

だから、他の人を見下すのは、自分を高くするということで、高ぶりという戒めの言葉を思い出す。

比較された取税人は、自分の足りなさを“罪人”だとして認め、ただ神が赦してくださる愛の方だとして信じ、神からの一方的なあわれみに寄りすがったのだ。

イエスは、人々がそのような態度で神に近づくことを待っておられる。


(脳裏をかすめる言葉)
何をしているのか自分でわからないのです。


(私の感想)
この例えに関する説教を数回聞いたような感覚が残っているが、説教の内容は記憶に無い。
神の臨在、イエスの臨在を見失った信仰者?の祈りは、ひとり言に陥る可能性がある。

祈りの本質は、何かを求める、お礼をする(捧げる)などより、臨在する方を崇め近づくことにあるように感じる。
ルカ23:34 にてイエスが 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 といっておられるが、私も、例話のパリサイ人も、彼らの中に含まれているだろう。

そして、神の御前にて自分を低くする者は、神の御前にて高くされると読み替えると、理解しやすいのかもしれない。

“聖霊” の助けをいつも頂きたい。








2007/09/14 14:09:50|聖書
傲慢で怠惰な裁判官の判断
悪に苦しみながらも耐え忍び、裁きを待ち望んでいる聖徒達のために、主がもう一度来られる。
しかし、更に失望しないためにいつも祈ることを教えられる。

ルカによる福音書 18章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(失望してはならないことを教えるたとえを話された。)1節

(例え話 : 傲慢で怠惰な裁判官のところに、やもめが 『私の相手を裁くように』 としばしば願い出た。)2〜3節

(例え続き : その裁判官は取り合わなかったが、 「ひっきりなしにやって来てうるさいから、裁判をしてやることにしよう。」 といった。)4〜5節

(怠惰な裁判官でさえ、あきらめないやもめの願いを聞き入れるではないか。まして神は、夜昼求める者に必要なさばきをつけないで、ほったらかしにするだろうか。)6〜7節

(神は、すみやかに正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。)8節



(私が持つ聖書の補足欄から)
失望しないため祈り求めるべき内容は、神の最終的報復であることがわかる。

8節後半 人の子が来たとき : 17章20〜37節との関連を示唆する。
8節後半 信仰が見られるでしょうか : 失望し信仰を失う者が多く出る事への警告。


(私の思索)
この世の裁判官でさえ、熱心に繰り返し訴える人に対して、裁判をしてくれると言う。
今の日本なら、専門家(弁護士?)に依頼して、告訴の手続きを済ませておけば、1年以内に審理が始まるだろう。
しかし、イエスは8節で 「神は、すみやかに正しいさばきをして・・」 と言われた。
「すみやかに」 と言われるからには、決して遅くないのだ。


(私の脳裏をかすめる言葉)
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります。(マルコ11章24節)

神の最終的報復に関する言葉ではないが、8節の 「すみやかに正しいさばきをして」 にイメージが類似している。


(私の感想)
「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」 とは、信仰を持ち続ける事が困難だという意味だろうか。
あるいは、人間のおごりが著しいので、現状の日本のように、福音無視が一般化するからだろうか。
どちらであっても、原因は人々(私を含むか)の愛の行動が無くなるからだろう。
聖書から聞いて、行動することを求められている。
行動を起こしてみるともっと深く理解できることがらかも知れない。