小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2011/05/18 23:22:14|先週の礼拝から
歓喜の再会
三浦喜代子先生のお話から  主要テキスト:創世記46章29節

T.ヨセフと父ヤコブの再会
『ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた』(創世記46章29節)
ヨセフは信仰の父アブラハムの孫ヤコブの11番目の息子です。
ヤコブはヨセフを溺愛しました。このことがヨセフに災いをもたらすことになりました。
ヨセフ物語は創世記の後半の大部分を占めており、神様がいかにヨセフを重要な人物として扱い、私たちにどんなにたくさんのことを教えたいかがわかります。
ヨセフは来るべきイエス様を表わしているといわれます。
ヨセフの生涯にイエス様の生涯を重ね合わせることができます。
ヨセフには神様からいただいた特別の能力がありました。
意味深長な夢を見ること、また人の夢の意味を説き明かす超能力がありました。
兄たちは 『あの夢見る者』 とヨセフをあざ笑い、また激しく憎みました。
ある時兄たちの計略でヨセフはエジプトに売られ奴隷にされました。さらに無実の罪で牢に投げ込まれ、あらゆる辛酸をなめ尽くしました。
しかしヨセフには一筋の信仰があり、また神の加護がありました。
時のパロの夢を説き明かしたことから信任を得て、飢餓対策の長として一躍宰相に任官されます。
飢饉の最中に10人の兄たちがヨセフのもとに食料を求めてやってきます。ヨセフの勧めでヤコブ一族はエジプトに移住することになり、こうして、ヨセフとヤコブは20年の歳月を経て奇跡的に歓喜の再会を果たします。
ヨセフは幼子のようにアッバ、父よ、と叫んで父の首に抱きついたことでしょう。

U.放蕩息子と父親との再会
『こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家まで遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(ルカ15章20節)
イエス様のたとえ話にあります放蕩息子は、父親からもらった財産を使い果たし、ついに乞食同然に落ちぶれ、豚の餌で餓えを凌ぐ有様でしたが、飢饉の最中に父の家を思いだし、帰郷していきます。
息子が家を出てからどのくらいの年月が経ったかわかりませんが、息子が家に近づくと遙か彼方から走り寄ってくる人影がありました。
それは父親だったのです。息子は父の前に跪いて「アッバ 父よ」と赦しを乞い、涙ながらに歓喜の再会を果たします。

V.昇天したイエス様と父なる神様の再会
 聖書にはありませんが霊想の中で思いますに、イエス様は父なる神様のもとを離れて地上に下り、ベツレヘムの家畜小屋に生まれ、33年間の苦難に満ちた生涯を送りました。
最後は、十字架にかかり、墓に葬られ、三日目に死人の中からよみがえり天に昇りました。
天に帰ったイエス様を父なる神様は、御国の門前で両手を広げて抱きしめられたのではないでしょうか。イエス様は『アッバ 父よ』と叫んで、父なる神様のみふとろに飛び込んだことでしょう。それは、涙と歓喜の再会ではなかったでしょうか。

W.私たちと神様との再会
 私たちにも再会があります。
やがて天に帰ったその時、顔と顔を合わせて栄光の主とお会いで
きるのです。その時、私たちはヨセフのように、放蕩息子のように、神様に抱きついて、『アッバ 父よ』と叫び、歓喜の涙に暮れるでしょう。神様もまた走り寄って抱きかかえてくださると信じます。
再会は希望の福音です。その日を待ち望みながら、雄々しく信仰生活を送っていこうではありませんか。
この約束を自分のものするためには、まず、イエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じて清められ、人生を神に明け渡すことです。







2011/05/08 22:10:13|先週の礼拝から
よみがえりの真実
芳賀 功師のお話から   主要テキスト:ヨハネ11章22〜27節 
 
T.復活信仰
ヨハネ11章25節、 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」 イースター(復活節)は4月24日、先週でした。しかしイースターは年一回廻ってくる特別な日ではなく、復活されたイエス・キリストと今日も、来週も次の週もお会いしているという事を信じて生きているとメッセージ致しました。これが私たちの真実の復活信仰です。でもこのみことばを信じていない方の中には、そんなことを言うから信じられないという人もいるでしょう。それならば、神が死人を生き返らせることも出来ず、イエスをよみがえらせることもできないなら、信じてやるとでもいうのでしょうか。私にはわかりません。

U.救い主であることを示すため
ヨハネ11章14節、 「イエスは・・・・はっきりと彼らに言われた。 『ラザロは死んだのです。』 」  しかし23節、イエスはマルタに 「…あなたの兄弟はよみがえります」 と言われています。
44節で、イエスはご自分の予告どおり、ラザロを墓の中から生き返らせなさったのです。
マルタはこの事実が起こる前には、全く信じていませんでした。
つまりこのマルタの不信仰は私たちの不信そのものです。
でも全く信じていないわけではなく、イエスご自身を頼りにしていただけでした。
6節で、イエスは、ラザロが死にそうだという知らせを受けてもすぐに行かずに、ラザロが完全に死んだ状態になる時間を経てから墓にこられました。
ご自分が死人をよみがえらせることが出来る神であり、救い主であることを示すためでした。
マルタはイエスが時間も何も全て超越し、不思議な働きをする方であるとは信じきれなかったのです。
ラザロをよみがえらせるといったのは、世の終わりの日の事だと思ったからです。
神を信じるなら、徹底的に100%信じて従いたいと思うのです。
主は信じきる私たちの人生において驚くべき奇蹟をなさるのではないでしょうか。
使徒4章20節、ペテロは 「自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」 と言っています。
また、使徒4章2〜4節、ペテロとヨハネが死者の復活を宣べ伝え、信じた人たちが5000人にもなったことの中に、主のみ業が現れています。

V.体験し見たので
ジョン・T・シーモンズは、著書 「使徒たちの信仰と祈り」 の中で、 「みことばが持つ力の最終的な最大の証明はイエスが何をなしうるかを、現実に見ることである」 という。
つまり彼は、2000年前の弟子たちが実際に体験し見たので、変えられてしまったと言いたかったからです。
墓の中からよみがえったイエスが女性たちの前に姿を現された頃、ペテロもヨハネも人々を恐れて逃げ回っていたのです。
しかし、恐れの心、不信の心があっても、よみがえりのイエスに出会って真実の確信者になり、愛の人に変えられていったのです。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」 このみことばは文字通り、神を離れ、罪の中で死んだ人をよみがえらせ、新しい霊のいのちを与えて人を造り変えることができるという事実です。

W.価値
霊的に死んで、腐って、臭くなっている人々が古今東西数えきれないほど、主を信じることによって新しいいのちを頂いて復活していることは否定できません。
だからこそ、神を信じ、神にゆだねる価値があると、私は信じるのです。  「このかた以外にはだれによっても救いはありません。天の下ではこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は、人に与えられていないからです。」 使徒4章12節







2011/05/02 7:55:30|先週の礼拝から
絶望から復活
芳賀 功師のお話から    主要テキスト:Uコリント4章8〜16節

T.イエスのいのち
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。
途方にくれていますが、行きづまることはありません。
迫害されていますが、見捨てられることはありません。
倒されますが、滅びません。
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」

U.絶望
私たちはこの朝イースターを迎え、2000年前の絶望と喜びを確認したいのであります。
あの時、イエス・キリストは何の罪も犯していないのに、十字架に釘付けられて苦しまれ、死んだのです。
それは私が付くべき十字架なのに、イエスは私たちの身代わりとして付けられ、死んでくださいました。
そうして墓に葬られ、その入り口は巨大な石で塞がれました。
これで “万事休す”。絶望的状態です。

いっぽう弟子たちは,十字架で苦しむイエスを見て逃げ出し、十字架の主を見つめることも、亡くなられたイエスを葬ることも出来ませんでした。 
一人の人間として完全に挫折し、絶望のどん底に沈みました。
私たちの人生の中でもこの様なことが起こるのではないでしょうか。

V.パウロの証言
でも聖書の中にはすごいみことばがあります。
今朝のみことばの9節 「迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」 とあります。
「倒されますが」 とあるのはノックダウンされるような事であっても絶対にノックアウトされるような事はないという意味です。
それはノックアウト宣言されるまでは何回でも立ち上がることが出来るし、望みは失われないのです。

もう1つ、ローマ5章5〜6節、 「この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」 これが十字架によって現わされた神の愛なのです。
もう一度言いましょう。
イエス・キリストは十字架にかけられ、死んで墓に葬られ、その入り口が大きな石で塞がれ、完全に望みは絶たれました。
しかし、その絶望という墓の石を破って、イエスは復活されました。
私もこれを信じています。

W.マルコの証言
マルコ16章6〜7節 「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。
あの方はよみがえられました。ここにはおられません。
ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
・・・・『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。・・・・』
イエスは、絶望している弟子たちを新しいスタートに招かれました。
それがガリラヤへの招きだったのです。
それは聖書が約束する新しい始まりでありました。
それは単なる再出発や、やり直しではなく、神が人を造り変え、よみがえらせることができる。イエスのことばによって罪の中に死んでいた人に、新しい霊的ないのちに生かしてくださる以上の意味があるのではないでしょうか。

X.主のあわれみ
神には不可能がないのです。
それがどんな事柄であろうとも、そこに道が開かれる事を信じたいと思います。
焦ったり、失望したりしなくてよいのです。
死に勝利された、よみがえりの主が共におられ、仰ぎみるとき祈りに導いてくださり、励ましてくださるのです。
ですから、イースターは年一回めぐって来る記念日ですが、特別な日ではありません。
主のあわれみによって、毎週日曜日の礼拝で、日常の祈りの中で、復活されたイエスと出会うのです。







2011/04/27 7:58:19|先週の礼拝から
楽しい心のデイケア
尾山謙仁師のお話から   主要テキスト:ガラテヤ2章20節

T.私は・・・・信仰によっている
ガラテヤ2章20節、 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは(口語訳→肉にあって生きているのは)、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

U.ガラテヤ書の背景
来週は、イエス・キリストが私の身代わりになって死んで、よみがえって下さったことを記念するイースターです。
ガラテヤ書の背景は、現代のトルコ共和国辺りに、イエス・キリストの十字架と復活のメッセージが、使徒パウロによってユダヤ人以外の異邦人に伝えられた背景があります。
生きる希望を証しする人々が起こされ、福音を信じる方が次から次へと起こりました。
そこに新しい教会が生まれたのです。
その生まれたばかりのガラテヤの教会で、律法主義という問題が起きたのです。
ユダヤ人が命をかけて守ってきた教えで、それを行えば救われるという古い契約です。
ところで、ガラテヤ教会の人たちは福音によって救われたはずなのに、律法の世界にもどってしまったというのです。
人間の行いによって救われるという教えが非常に強かったからです。

V.イスラエル人の事情とガラテヤ教会
イスラエルの民は、アッスリヤやバビロンに亡ばされた事がありました。
彼らは失敗を二度としないようにとの思いが根強く残っていました。
さて、旧約最後の預言者マラキから、バプテスマのヨハネまでは、神からのお叱りも励ましもない空白の時代、なんの応答もないという状況でした。
彼らは不安になり、律法もますます細かい規定をつくって、律法によって生きようとしたのです。
その影響を強く受けたのが、ガラテヤの教会のクリスチャンです。

V.そのままの姿で信じる
この事は今の時代のクリスチャンにも言えるのではないでしょうか。
イエスを信じるのに、そのままの姿で信ずればよいのです。
これが福音のメッセージなのですから。
第二コリント5章17節、 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 ということが自分の身のうえに起こります。
私は17歳のときにイエス様を信じ、今は55歳です。
クリスチャンとして17歳から今の55歳までに罪をおかしたことがあるでしょうか。
残念ですがあります。
仮に私が80歳まで生きたとしても何回でも罪をおかすでしょう。

W.信仰の原点(スタートライン)
ではなぜ、聖書はできないことを書いているのか。
それは私たちに聖書から教えられる高い律法水準に、どれひとつとして守れない存在であるという原点(スタートライン)を気付かせ、そこに立たせるためのものだったということです。
私は罪人です。
イエス様の救いが必要なのです。
それがなければだめなんだというスタートラインに立つ必要があったのです。
そのために書かれているのです。
何かを頑張って守り、その結果として天国に入れるというものではないのです。
ガラテヤの人はそこが間違ったのです。
律法を守ることによって救われるのではなく、無条件で信じて救いを頂いたはずなのに、元にもどってしまったのです。

X.御子を信じる信仰
しかし神は不思議な方です。
自分の実績とか関係なく、私たちは無条件で神の祝福を頂いたのです。
それは、イエス様が二千年前に十字架で死んでくださったことによって、全ての罪は処理済みなのです。
ですから、私が罪をおかしたから、私を嫌いになるなんてことはないのです。
いつも私たちのことを愛して、導いてくださっているのがイエス様です。
この世に天変地異が起こったとしても、イエスは信じて頼る者を見捨てないという約束なのです。







2011/04/19 18:12:12|先週の礼拝から
一粒の麦地に落ちて
芳賀富子師のお話から   主要テキスト:ヨハネ12章20〜26節

T.ギリシヤ人の来訪
20節、過ぎ越しの祭りのために多くの人々がエルサレムに集まってきています。
ここからヨハネは 「・・・・人々の中に、ギリシヤ人が幾人か・・・・イエスにお目にかかりたい・・・・弟子がイエスに伝えた。」 という状況があって、23節イエスは 「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」 ということばを伝えています。
これまで、何回も 「・・・・わたしの時はまだ来ていません。」  (ヨハネ2章4節、7章6節)と言っておられたのに、四日後に迫っているこの時、十字架の死を意識して、遂にその時が、神の栄光を現す時がきたことを告げられたのです。
ギリシヤ人の来訪は、イエスがご自分の時を意識し、自覚する時となったのでしょう。

U.一粒の麦が地に落ちて
24節、 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
イエスがどのような方法で栄光を受けられるかを告げられたのです。
死ぬとは十字架の死です。
それは神のみ心であること。
27節、 「わたしはこの時に至った・・・・」 と確認しているように、十字架の死はイエスの自発的な決断でした。
28節、 「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」 という確かな父なる神のみ声による裏付けのある十字架の死であり、信じる者に永遠のいのちを与えるという豊かな実となられました。

V.わたしに仕える者
25節、 「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者は・・・・永遠のいのちに至る・・・・。」 
麦に譬えられるように、外側の固い殻は 「自分のいのち」 で、内側のいのちは永遠のいのちです。
主からいのちを頂いた人に2種類あります。
固い殻が砕かれることなく、いのちが閉じ込められ、制限され出にくい状態の人。
もう一方は、主にゆだねて、明け渡すことによって、いのちが流れ出る人です。
私たちが砕かれることは祝福の道です。
主の香りを放つ道、豊かな実を結ぶ道です。
砕かれた私たちを 「仕える者」 と変え続けてくれます。
主に仕えるとは、私たちの周りにいる人々に仕えるということです。
できれば避けたい人、係りたくない人であっても、自分の思いではなく、主の愛と知恵と助けを頂いてのぞむとき、主がわざをなさるのです。
一粒の麦となられた主にどんなときにも信頼し、その足跡にならう者とさせて頂きましょう。