小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2011/06/20 7:34:38|先週の礼拝から
神の救いのご計画
有田貞一師のお話から   主要テキスト:創世記12章1〜9節

神の天地創造は、 みなすばらしいものでした。しかし、最初の人アダムとエバは、神の命令に背いて罪を犯しました。
その後の人類も罪を犯し続けました。罪人だから罪を犯し続けたのです。これに対し、それぞれの時代に、神の一方的な赦しと救いが現されてきました。
エペソ1章4節 「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」 とあるように、救いのご計画は天地創造の前にすでに立てられていた。

T.神の選び
神は、ウルの地にいたアブラハムを選んだ。ウルの地は偶像礼拝に満ちていました。
神は、神を否定する世界から彼を選ばれたのです。
偶像礼拝の世界は、神はいないとする世界でもあります。
偶像とは、創造主を失った人間が、自分のために作ったり仕立て上げたりした神の代用物です。
創造主なる神を否定するものです。
神はこれを最も嫌われます。(出エジプト20章3〜6節)

U.神の約束
アブラハムが召された時、75歳でした。神は、彼に二つの約束を与えました。
1)大いなる国民とする。子孫が与えられる。(このとき妻のサラは子供がなかった。創世記11章30節)
2)あなたの子孫にこの地を与える(創世記12:7)
ローマ4章18〜22節にアブラハムの信仰を見る。神の計画は環境や状況とは関係なく進められるのです。

V.救いの完成と宣教命令
神の救いのご計画は、イエス・キリストによって完成された。ローマ4章23〜25節
イエス・キリストによる救いは、アブラハムに与えられた預言の成就であり、救いの完成です。
だから神の壮大なるご計画と達成を、私たちは人々に証しし伝えていくのです。

まとめ
「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び・・・・」 とあるように、私たちに与えられたものは絶大なものであります。私たちは、これを携えて、伝えていく者であり続けましょう。









2011/06/15 6:42:46|先週の礼拝から
揺るがない土台
芳賀富子師のお話から  主要テキスト:マタイ7章24〜27節

T.二種類の土台
岩の上(24節)に自分の家を建てた人。その人は賢い人。
その賢さはわたしのことば(神のことば)を聞いてそれを行うのです。
岩の上とは地中の固い岩盤のことで、賢さは、地面を深く掘り下げて動かない岩盤を土台にしたのです。 (ルカ6章48節)。
砂の上(26節)に自分の家を建てた人。その人は愚かな人。
その愚かさはわたしのことば(神のことば)を聞いてもそれを行わないのです。
砂の上とは地表に見える土のことで、砂や土の土台です。 (ルカ6章49節)。
双方の家の外観は、さほど相違はなかったでしょう。
あるいは砂の上の家のほうが立派に見えたかもわかりません。

U.揺るがされた土台
この二種類の土台が試されるときがきました。
岩に上に建てられた家も、砂の上に建てられた家も同じ試練に見舞われました。
「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家をうちつけたが・・・・」 結果は大きく異なりました。
岩に上に建てた家は倒れませんでした。
しかし砂の上に建てた家はいっぺんに倒れてしまい、その倒れ方はひどいものとなりました(ルカ6章49節)。
この相違はなんでしょうか。
砂の上に家を建てた人は、せっかちで、早急に事を進めようとしてしまう。
慎重さを欠き、他の人の忠告に耳を向けようとはしないのです。
立ち止まって起こりうる可能性、不慮の出来事を想定して考えようとはしなかったのです。
また神のことばに心を向け、学ぶことに時間を使おうとしなかったとも言えましょう。
そこに愚かさをみます。
岩の上に建てた賢い人は、この人とは対照的だと言えます。
わたしのことばを聞いてそれを行う者とあるように、祈りつつみことばに聞き、神のみこころは何か、喜ばれることは何かと追求する人です。
示された時、信仰を持って従い行う人です。
雨や洪水、風とありますが、私たちの人生に起こりうる様々な挫折、失望,病、別れ、困窮…。
私たちの信仰をキリストから離そうとするこの世の誘惑、サタンの働きかけは、信仰の家を根底から揺るがそうとします。
大切なことは、どうしたらこのような事態に耐えることができるのか、備えることが出来るのか、という事ではないでしょうか。

V.揺るがない土台
Tコリント3章11節 「…土台とはイエス・キリストです」 土台がイエス・キリストであるとき、揺るがされるでしょうが、倒れないのです。
主のみ手の支えがあるからです(詩篇37篇23〜24節)。
周りの状況や出来事を見るとき不安になり恐れてしまうでしょう。
しかし土台がイエス・キリストであるなら主に信頼できます。(詩篇112篇6〜8節)
また、みことばであるイエス・キリストご自身が世に勝ってくださいましたから、私たちも勝利できるのです
(ヨハネ16章33節)。
みことばに聞き、祈りつつみことばを行うものとならせて頂きましょう。







2011/06/09 18:40:02|先週の礼拝から
忠実な者
芳賀功師のお話から   主要テキスト:マタイ25章14〜30節
 
T.主人の喜び
「その主人は彼に言った『よくやった、良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんのものを任せよう、主人の喜びを共に喜んでくれ』。
今日の中心聖句ですが、生涯を終えて御国へ行ったときに、神様からこの様に言われてみたいものだと思います。
14節の冒頭に 「天の御国は、しもべたちを呼んで」 とありますから、すべての人が呼ばれて忠実かどうかを評価されるのだと思います。

U.主人からの委託
「良い忠実なしもべ」 と26節 「悪いなまけ者のしもべ」 との対比によって、忠実さとは何かを考えさせようとしています。
14節、 「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」 と前おきして 「彼はおのおの能力に応じて一人に5タラント、一人に2タラント、もう一人には1タラント渡して旅に出た」 とあります。 各人に預けられたものに差があるのはそれを管理運用する適性に差があるからでしょう。

V.モーセの財産
出エジプト4章2節をみると 「あなたの手にあるそれは何か。」 彼は答えた。 「杖です。」 とある。
モーセが持っていたものはたった一本の杖でした。
神様はその杖をもってモーセに不思議としるしを行わせました。
同じように、その人が生まれ持った才能も、主人(神様)が預けた財産(お金で表現した価値あるもの)も、また本人が努力して身につけた学力や技術も、神様から預かった物だと言っているのです。
自分の預かったもので少ないと思ってはならないのです。
それらのものを用いてキリストの働きをする者として召されているからです。
他の人の預かるタラントについてねたんではならないということです。
つまり、私の口も耳も目も神様からのタラントになり得るのです。
神が用いるならばものすごく大きな力を発揮させます。

W.忠実な者
忠実な者とはどのような人でしょうか。それは信用できるとか信頼できる者という意味で、預かった者がどのように運用し用いたかが、信用のバロメーターになっているという事です。
ですから、5タラントの人も、2タラントの人も、儲けた額に関係なく、21節と23節で 『よくやった。良い忠実なしもべだ。・・・・』 と、全く同じことばで褒められているのです。
現代の企業では全てにおいて成果主義で少なく儲けた人まで賞賛することはありません。

X.予行演習
しかし神の国では違うのです。
たとえ結果は微々たるものでも、イエス・キリストから託された自分の賜物を生かして、こつこつと一生懸命働く忠実さだけが喜ばれるのです。
21節 「あなたはわずかなものに忠実だったから、わたしはあなたにたくさんのものを任せよう」 と、多くのものがゆだねられます。
それは御国でゆだねられる財産です。
ですからこの地上でのタラントや財産は、御国で与えられる予行演習なのです。
ですから神様から地上で預かったタラントを忠実に活用する理由がここにあるのです。
神は、こんなつたない私のためにも、十字架にかかって死んでくださり、罪の赦しにあずかる者として救い出し、わがことのように喜んで用いてくださるのではないでしょうか。
一方の悪い怠惰なしもべはどうか。
25節 「タラントを地の中に隠しておきました」 と言い、神様から預かっていたものを返してしまったのです。
神様からせっかく預かったものを全て無にしてしまうようなことをしたために神はお怒りになります。

Y.喜びへの招待
良い忠実な者は、21節 『あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 と、神の喜びの中に招かれるのです。
神様から預かった能力や、自分のもっているもの、時間も含めて全ては神のものですから、神に喜んで用いて頂くことにかかっているのです。
だから、人間の生きる主たる目的は、神様から預かったタラントを忠実なしもべとして神の栄光のために用い、神と共に喜ぶことです。







2011/06/05 17:18:07|先週の礼拝から
狭い門から入りなさい
中島總一郎師   主要テキスト:マタイ7章13〜14節


 あなたは滅びを望みますか、いのちを望みますか。
聖書では 「いのちに至る道があり、滅びに至る道がある」 といいます。
滅びに至る門は大きく道は広い、いのちに至る門は小さく道は狭く見出す者は少ないとあります。
それはどんな門、どんな道なのでしょう。
狭くて細いのは、それが高貴で得がたいものだからです。

T.二通りの生き方
いろいろな生き方がありますが、その基底には二つの生き方があって、狭く細い道を行くか、広く太い道を行くかです。
狭いというのは自制、努力、犠牲が必要だからです。
広いと言うのは、気楽に安逸に暮らせばよいからです。

なぜいのちに至る道が細いのでしょうか。主イエスが勧めるものは、普通にどこにでもあるようなものではなく、そこから超え出た高価で特別なものだからです。
それは永遠のいのちや大いなる平安それに天の国籍などです。
いのちに至る道が細いのは、数(大小)に信仰を置かないからです。
イエスと共に行く道は、強い意志と勇敢さがないと歩めません。
大多数の意見とか常識を頼りにしている人には歩めません。
敢えて孤立とか非常識を受け入れる人でないと歩めません。

U.聖書が示す細い道
イエスに従ったペテロなどの弟子たちは、すべてを捨てて従いました。
職業、財産、親族、慣習、知識、権利などです。
自分の命までも捨てて従った結果、得たものは何だったのでしょう。
欠乏と困窮,飢えと寒さ、将来の不安だけです。
彼らが得たものはイエス・キリストだけでした。
でもそれで十分でした。
山上の垂訓(マタイ5章)で求められていることは、このような完全な自己否定、完全な愛、完全な真実、無暴力、完全な純潔、そして輝く光です。

V.いのちに至る道
門とか道とはキリストのことです。
右の頬を打つ者がいるならば左をも向けてあげるのは細い道です。
自分を迫害する者のために祈ってあげるのは狭い門です。
自分で復讐しないで善をもって悪に勝つことは細い道です。
どうしたらこの細い道を通り抜けられるのでしょうか。
イエスを見つめることです。
足元(状況、環境)を見てはいけません。
イエスが弟子たちに聞きました。
「何も持たずに行けと遣わしたが、困ったことがあったか。」 その答えは 『いいえ、何もありませんでした」(ルカ22章35節)。
これはイエスと共に歩んだ者だけが言える実感です。
何がこのように弟子たちに言わせるのでしょうか。
キリストの愛です。
愛されていることを知っている者は、愛されている以外のものは欲しません。
飢えて貧しくても、愛さえあればもうそれで豊かなのです。
パウロは言います、 「どんなものも…私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできない」 (ローマ8章39節)。
それが狭い門、細い道であってもです。
(イエスから目を離さないで、)狭い門を通り、細い道を行って、御国にたどり着き、永遠のいのちをいただく者となろうではありませんか。

関連する聖句一覧
マタイ5章(山上の垂訓)、マタイ7章13〜14節、ルカ22章35節、ヨハネ14章6節、
ローマ8章39節、ローマ12章19〜21節、ピリピ3章16、20節、ヘブル12章2節







2011/06/01 7:11:56|先週の礼拝から
恐れてはならない
芳賀富子師のお話から   主要テキスト:申命記7章18〜19節

T.恐れているものは何
奴隷の民としてエジプトにいたイスラエル人は、神の憐れみによってエジプトから脱出することができました。
彼らの不信仰によって、荒野の旅路は40年にも及びました。
民は、神と指導者モーセに、荒野の不自由な生活を幾度となくつぶやいたのに、その間、神は、彼らが生きて行くのに必要なものを備え、危険から守られたのです。
7章16〜17節では 「・・・・彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。あなたが心のうちで、・・・・異邦の民は私よりも多い・・・・彼らを追い払うことができよう・・・・」 と偶像礼拝について警告しています。

モーセは、かつて約束の地カナンに12人の偵察隊を送り、その地を調査させた。
そこは乳と蜜が流れているすばらしい地でした。
しかし、偵察から帰ってきた人たちは、 「その地に住む民は力強く・・・・私たちより強い・・・・」 から自分たちは追い返されてしまう、そこはよい地ではないと悪く報告した。
けれどもカレブは占領できる、攻め取ろうと信仰的に受け取っている。
神でないものを恐れる時、目に見えるもの、数や目先のことに捉われ神ご自身から目をそらしてしまう。
前進しなければならないのに、立ち止まって、座り込んでしまう。

U.恐れなくても良い理由
恐れなくてもよい理由は何でしょうか。
それは神が共におられるからです。
そのお方はどのような方でしょうか、7章19節 「…あなたの神、主はあなたを連れ出された…」 神の力強いみ手で、不思議と災いによって、エジプトを脱出させ、紅海に道を開き、イスラエルの民を導いたのです。
これから占領しようとするカナンの先住民を恐れている民に 「主は同じようにされる」 と約束される。
それには7章9〜13節 「主の命令を守る」 ということが条件です。
主は夜中の海で、向かい風に悩む弟子たちに、マタイ14章27節 「わたしだ、恐れることはない」 と声をかけ助けられ、十字架を目前にして、ヨハネ14章1節、16節、 「神を信じなさい・・・・、助け主がともにおられる・・・・」 と励まされている。

V.恐れるべきお方
申命記8章6〜7節 「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい・・・・主があなたを良い地に導き・・・・」 主こそ信頼すべきかたであることを示す。
イエスもマタイ10章28〜31節、恐れるべき方は私たちのすべてをよく知っておられて、私たちに必要なことを語られる。
私たちが他のものを恐れても、心配しても、解決の糸口は何もないのです。
そして恐れの悪循環は、すぐ側におられる主ご自身まで見失ってしまいます。
そこに感謝ではなく、不平不満とつぶやきしか生まれません。
主を恐れて、主にのみ信頼しましょう。
主はいつも私たちに最善をされるのです。