小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2010/01/12 11:05:15|先週の礼拝から
新しい年の戦い
芳賀 功師のお話から   主要テキスト: 詩篇144篇1~4節

Ⅰ.新年の指針
私たちの教会も2010年を迎えて、詩篇37篇5節 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」 という指針をもってスタートさせていただきました。
そして、今年も救霊のための戦いの年ではないかと感じながら、詩篇144篇1節が心に留まりました。
ダビデは 「ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。」 と歌っています。
ここに“戦いのために”とありますが、何と戦うのでしょう。
私たちの人生、また生きること自体が戦いであると言う人もあるでしょう。

Ⅱ.二つの戦い 
戦うという事であれば、その敵とは何でしょう。
エペソ6章によれば 「もろもろの悪霊」 との戦いですが、偶像、悲しみ、苦しみ、自分自身の罪との戦いでしょう。
ダビデはこの全ての戦いを経験した男であります。
実際は、見える戦いと見えない霊的な戦いがあります。
最初の戦いはペリシテ人、即ちゴリアテとの戦いであり、後の大きな戦いは、王の立場を得たダビデに、高慢という罪が生まれ、姦淫の罪となって現れました。
この罪との戦いです。

Ⅲ.最初の戦い
最初の戦いは、Ⅰサムエル16章~17章の大男ゴリアテが相手です。
ダビデは羊飼いにすぎませんでしたが、神を全面的に信頼して戦う者とされた時、その信仰を前述の1節で告白しています。
つまり、ゴリアテと戦う準備のため、羊飼いの仕事を通して神が鍛えさせたと理解したのでしょう。
その戦いはⅠサムエル17章34~37までに示されているとおり、 「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」 ということばと、羊飼いとして身につけた石投げです。
常識ではとても考えられない方法でありますが、ダビデはそれを神からの賜物であると確信し、武器にするのです。
こうしたダビデの神様体験が、2節 「主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。」 という信仰告白につながったのでありましょう。

Ⅳ.罪との戦い
次に、すさまじい罪との戦いです。
Ⅱサムエル11章~12章において、ダビデの信仰をもってしても、有名な姦淫の罪を犯し、人生の中で最大の悔い改めをするのであります。
11章を読むと、本当に人生は罪との戦いであることが分かります。
人間は戦わないで楽な方へ楽な方へと行き、戦わないで自分の欲望や野心など(自己中心性)から、誘惑に陥るのです(マタイ26章41節参照)。
だからイエス様は 「誘惑に陥らないように目を覚ましていなさい」 と一人のために血の汗を流しながら祈ったのです。
十字架上のイエスに向かって 「もし神の子なら自分を救え」 (マタイ27章40節) と叫んだ人々の罪と悪の力に対し、イエス様は、贖いの完成という勝利を成し遂げられました。
私たちはダビデの石より貧しい賜物であっても、与えられているもの、福音を運ぶ足を、何倍にもまして用いたまえと祈る者でありたいのです。

Ⅴ.ダビデの発見と私たち
ダビデは3節で 「人とは何者なのでしょう」 と言い、詩篇51篇5節では 「咎ある者、罪ある者として生まれた」 とまで告白して、自分が醜く罪深い小さな者であると、自分の弱さを発見しますが、それにもかかわらず、神は彼を赦し受け入れて下さいました。
「私の目にはあなたは高価で尊い(イザヤ43章4節)。」 とまで神は言って下さるのです。
罪深い人間を面倒見てくださるのは、イエスの十字架以外にありません。
贖われた私たちは 「良いことの知らせを伝える足」 として、今年一年の戦いに勝利の生活を歩ませていただきたいと願っています。




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コメント御礼
“イエス・キリストのいのち”という代価を払って買い取られたのは、実に聖書の神いがいに、類似した例がありませんもの。
貴重なコメント有難うございます。

N・K  (2011/07/07 22:00:19) [コメント削除]

聖書にある戦いの歴史
聖書には、幾つもの戦争の記事があります。モーセもダビデも戦いに際して、いかなる時でも神様に伺い、決定しています。人の戦いではなく、神様の戦いと言っても良いでしょう。私たちが偶像に目を向けたとき、また罪を犯し神様に悔い改めをせずに傲慢になっている時に神様は、私たちに敵を送ります。聖書の歴史を見ると皆そうなっています。その敵とは、自分自身の欲望、自己との戦いです。それが聖書が示す聖戦です。主イエスの贖いは、イエス・キリストでなければ出来ない事でした。出エジプト記には、傷のない一歳の雄の羊とありますが、人間は生まれながらに罪を持って生まれているため、贖いの生け贄には誰もなることはできません。ゆえに、主イエス・キリストだけが贖い主になれるのです。万軍の主といわれるように、戦いはいつも私たちと密接な関係にあります。聖霊様の御声に心を傾けて生きる必要があります。神様は、贖いという方法をとられました。聖書の神様のみが執られるやり方です。他には例を見ません。今も生きて私たちと共におられる主の御名を賛美致します。
坂本秀男  (2010/01/12 12:34:53) [コメント削除]

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