小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2011/04/12 15:53:11|先週の礼拝から
イエスはいのちのパン
芳賀 功 師のお話から  主要テキスト:ヨハネ6章35〜40節

1.震災の意味
東日本大震災はニュースでもご存知のように、日本中を震撼させました。
自然災害ではありますが、信仰者にとっても内面を探られる出来事でした。
神は意味のないことはなさらないからです。
このような中で、主ご自身が直接語られるメッセージを考えさせられました。
ヨハネ6章35節、 「イエスは言われた。 『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。・・・・』 」 イエスはご自分を“いのちのパン”であると、不思議なことを言われました。
パンは、日本的にいうと米のご飯であり、主食であります。
主食であるパンやご飯は、日常生活で欠くことができないものです。
同じようにイエスは、私たちの“いのちのパン”ですから、いつも食べなければならないと言われたのです。
いのちのパンであるイエスこそ、飢えることがなく、渇くことのない、いのちの主食なのです。

U.受け入れる
この主食を食べるとは、35節 「・・・・わたしに来る者・・・・わたしを信じる者・・・・」 とあるように、いのちのパンであるイエスを信じて“自分のうちに受け入れる”ということです。
イエスは、5つのパンと2匹の魚で5000人を養われた奇跡の場におり、パンを食べた人たちに対して、27節では、 「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」 と語り、36節では、 「しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしない・・・・」 と答えています。
みことばを聞いたのですが、自分の事として結びつけようとしなかったのです。これが不信仰です。
イエスを信じるということは、みことばを自分に語りかけていると受け取る、みことばを受け入れる、これが信じるということの意味です。37節、 「・・・・そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」 という約束は“わたしといういのちのパン”を食べに来る者を、決して天国から外へは締め出さず、必ず救って下さり、永遠のみ国に迎えいれるということです。なぜなら38節、 「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」 と言われています。
神のみこころは、第一に“主を信じる者がみな永遠のいのちを持つ”ということ。
第二に“信じた者の一人ひとりを終わりの日によみがえらせる”ということです。
なんのとりえもない小さな自分ですが、救いの恵みを頂いた者を終わりまで守ってくださるというのです。

V.いのち
父なる神は、こんな者のためにひとり子であるイエスを十字架につけて、わたしたちの罪を赦してくださいました。
よく考えれば、本当に恐れおおいことであります。
イエスを救い主として信じた者がいただいているいのちは、永遠につながっており、喜びに満ちたいのちなのです。
また、イエスは、まことのいのちであるご自身を与えるため、私たちを救うため、愛するために、天から下ってこられたたお方です。
神に与えられたいのちを大切にし、その信仰を堅く保つものでありたいと願う者です。







2011/04/04 4:54:34|先週の礼拝から
さあ、再建に取りかかろう
中林篤朗師のお話から   主要テキスト:ネヘミヤ記 2章17、18節

主の民、祈りの人、ペルシヤ王の重鎮、ネヘミヤ。
彼が主からいただいた使命は、バビロンにより破壊されたエルサレムの再建。
彼は町の現状をつぶさに確認、人々を集めて語りかけます。
2章17節、 「・・・・エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。」 神殿は再建されたが町はまだ廃墟。
「エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」 
城壁がなければ町を略奪者から守れない。
しかし町の再建は大変困難。

途方に呉れる人々、外から反対者の妨害、資材と資金不足。
地震、津波、続く原発事故による放射能汚染。
大勢の犠牲者と避難者、大規模な電力不足と経済ダメージ。
大震災からの再建、現実は厳しい。
また震災だけでなく私たち自身、沢山の課題、問題を抱えています。
厳しい現状の中でネヘミヤが熱く語ったのは、2章18節 「私に恵みを下さった私の神の御手・・・・」。
昔、人々を導き、救われた主は今も働かれる。
主が力を与え、再建を成し遂げられる。
主を信頼し、困難な再建に取り組もう。
人々はどうしたか。
「そこで彼らは、 『さあ、再建に取りかかろう。』 と言って、この良い仕事に着手した。」 
人々は、ネヘミヤを通し主の御声を聞いた。
主が共にあり、力を与え、助けてくださる。

それから500年後
ヨハネ11章17節、 「それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。」
全ては終わり希望は消えたようで、悲しむ人々。
35節、 「イエスは涙を流された。」 しかし、主はラザロを蘇らせてくださった。
イエスにとって手遅れはない。
どんな状況からでも再建される。

「さあ、再建に取りかかろう。」
震災復旧に命がけで働く人々のため祈りましょう。
再建していただきましょう、主に喜ばれるきよい者へ。
再建の良い働きに携わりましょう。
救い主イエスを証していきましょう。
主の民、子、キリストの弟子として。







2011/03/30 18:41:53|先週の礼拝から
罪ゆるす方
芳賀功牧師のお話から   主要テキスト:ヨハネ8章1〜12節

東北関東大震災と名付けられた災害は、未曾有な被害をもたらし、大きな祈りの課題となりました。
それは今まで誰も経験したことのない、聞いたことのない、見たことのないような震災で、多くの人々に多大な不安を与えました。
それによって苦しんでいる人や困っている人がいることを思わず、食品や災害時の消耗品買占めにおちいったのは大変残念です。
人間の自己中心性の一端を垣間見る思いです。

T.最後の絵
さて、2回にわたって私の父の絵のあかしをしました。
今日はその最後の絵、姦淫の現場で、女だけが捕らえられた出来事の絵です。
それで、中心のみことばは、ヨハネ8章11節 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」 です。
これは父が信仰をもったときに描いたもので、記念としていただきました。
そしてこの絵は、羞恥心を乗り越えて描いた絵であると話していました。

U.父・祖父の時代背景
父は、お妾さんを抱えており、祖父にいたってはお妾さんと本妻を同居させるというような生活をしていました。
そのころ、妾を抱えることに関して“男の甲斐性”という言葉がまかり通っていて、たいしたもんだと言われる時代でしたから、罪意識がないばかりでなく、妻(私の母)に苦労を強いていたようです。
私は今でも、よく母が泣いていたのを覚えていますが、父は自分の行動が罪であるとは夢にも思わなかったそうです。

V.父の回心
その父は、先に信仰を持っていた母が天に召されると、母が使っていた聖書を読むようになりました。
そして、この姦淫の現場で捕らえられ、殺されようとしている女性を見て、本当に悪いのはこの俺だったのではないかと、大変申し訳なかったと、妻への謝罪として教会に行き、悔い改めたそうです。
それからの父は、周りも驚くように変えられたのです。
この絵を受け取った折 「この絵の女は自分だ」 と言っていました。

W.罪のない者が最初に
聖書は、律法学者達がこの女をイエスの目の前に連れてきて、イエスが石打ちの刑にするのかどうか試すためだったと書いています。
律法学者達は、イエスがもしモーセの律法どおり処刑に賛同したなら、愛のない男としておとしいれ、女の姦淫の罪をゆるせというなら、律法を無視する危険人物として(6節)イエスを告発する意図があったのです。
しかし、イエスは沈黙して答えませんでした。
なぜなら律法学者達は、イエスに対する反抗心やねたみから、その告発理由を見つける魂胆であることを知っていたからです。
また人々の冷ややかな視線と、自分の上に起ころうとする怖さに振るえている女の悲しみや弱さを知っていたので、裁くことをしませんでした。
7節、 「・・・・彼らが問い続けてやめなかったので、・・・・“あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。”」 とイエスは言われました。
そこで年長者から始めて一人ひとり出て行ったのです。
父はこの箇所が一番気になったようです。
何しろ、父も80才を過ぎてからの信仰でしたから、老人である父から見ますと、過去に思い当たる節がいろいろあり、人ごととは思えなかったのでしょう。
9節 「イエスがひとり残された。」 とあり、11節イエスは 「わたしもあなたを罪に定めない」 と宣言されています。
神は真実な裁き主であります。
神から遣わされたイエスが 「罪に定めない」 といってくださる。
これが福音ではないでしょうか。
80才の父はこの福音の恵みにあずかり、99才までの生涯を感謝と平安のうちに過ごすことができました。

X.罪人を招くため
イエスは、私たちの罪を罰するために来られたのではありません。
イエスは私たちの罪を十字架上で身代わりに死んでくださることにより罪ゆるされ、新しく生まれ変わるよう、招くために来られたのです。
マルコ2章17節、 「・・・・わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」







2011/03/22 20:53:19|先週の礼拝から
多くの実を結ぶために
芳賀富子師のお話から   ヨハネの福音書15章1〜10節

多くの実を結ぶために、私たちはどのようにあるべきなのでしょうか。

T.キリストにとどまる
ヨハネ15章1〜10節では、イエス・キリストがぶどうの木に、天の父なる神が農夫に、主を信じるキリスト者がぶどうの枝にたとえられています。
4〜5節を見よう。
枝とぶどうの木は結合する(つながる)ことによって、いのちの関係が始まり、ぶどうの木のいのち(樹液)が枝まで届けられ、実を結ぶのです、と説いておられます。
つながることは必須条件です。
つながる枝に豊かな栄養の供給と結実を約束されています。
まことのぶどうの木であるイエス・キリストにとどまり続けつる者に、豊かな霊的栄養分を与え、必要なものを供給してくださり、彼を信頼し彼に従っていくなら、私たちを成長させ豊かな実を結ばせてくださるのです。

U.神の刈り込みのわざ
2節、 「・・・・実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」 (新共同訳)実を結ばないものは・・・・取り除く(刈り込む,切り除かれる)。
ぶどうの木が豊かに実を結ぶか否かはこの 「刈り込む」 ということにかかっています。
美しい飾りとなる枝もあります。
しかし実を結ばない枝は、栄養分を分散させ、日光の妨げをし、収穫に影響がでます。
刈り込みは痛みを伴います。ヘブル12章6節には、 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」 とある。
天の父の刈り込みは、神の愛からでていることを忘れてはなりません。多くの実を結ばせるという目的が、はっきりしている刈り込みなのです。
ですから神のみ手に委ねるとき、苦痛が伴うかもしれません。
しかし神は多くの実を結ばせてくださいます。(詩篇37章5節、55章22節、119章71節)

V.実を結ぶ生活
ヨハネ15章7節は、ぶどうの木であるキリストにとどまり続ける者に対する、驚くべき約束をみます。
@ 「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」 とは、みことばを固く握ること、手放さないことです。
みことばに対する信頼です。
A 「あなたがたのほしいものを求めなさい」 とは、祈りへの促しです。
キリストにとどまるとは、祈りの答えがあたえられるところに自分を置くことです。
キリストは、いのちの供給源そのものであります。
イエスのみ名による祈りはクリスチャンの特権です(ヨハネ14章13〜14節、16章24節)。
ですからその恵みを信仰によって働かせることが大切です。
B10節、キリストの愛のなかにとどまり続けるということです。
それは自分の益を得ようとする者ではありません。自分ではなく相手に益を与えようとする愛なのです。
キリストにとどまっているとき、その愛を与えて頂けます。
ガラテヤ5章22〜23節に、御霊の実を見ます。
これは愛の実です。
愛は豊かな実を御霊によって結ぶことができるのです。
このような実がひとつまたひとつ加えられていくときに、私たちの信仰生活、人との関係も豊かにされていくのではないでしょうか。

終わりに
私たちの信仰の歩みが、多くの実を結ぶ生活・生涯とされるため、キリストにつながり続けましょう。
ことあるごとにみことばに心を向け、みことばを握って、祈りのときを持ちましょう。
御霊の声に耳を傾けつつ導きを仰いでいきましょう。







2011/03/15 18:14:36|先週の礼拝から
ナルドの香油
芳賀 功師のお話から  主要テキスト:ヨハネ12章1〜11節

T.香油注ぎの絵
今日は、父のかいた絵の第二弾 「ナルドの香油」 にまつわるメッセージです。
この絵は、ヨハネ12章3節 「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」 この出来事をテーマにした1992年の作品です。
息子(私)が負った巨額の負債を、すべて肩代わりして下さった方、東京のS兄という方に、どうしてもお礼をしたい、贈呈したいと願って、描いたそうです。
その父が信仰をもって召され、その後S兄も召されて、その奥様がわたしのもとに、会堂建築記念品として返却され、展示致しました。

U.描けない背景

聖書の物語としては有名な所です。ヨハネ11章57節をみると、宗教指導者たちは、イエスを殺そうとしており、お尋ね者として所在通知命令を出していました。
十字架の死を目前にして、イエスはエルサレム近くのベタニヤというまちのある家にいましたが、そこでナルドの香油注ぎが行なわれたのです。
このナルドの香油は、非常に高価なもので、外国では、化粧品、薬品、葬儀や王の就任式などにも用いられ、日本でも輸入されておりますが貴重品です。

V.批判と真の献身
12章4〜5節で、イスカリオテのユダが 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 と批判しました。
著者ヨハネは、ユダがマリヤの心を理解できず、金入れを預かるほど金銭的知識を持っていて、物の価値を知っており、その誘惑に負けていたからだと記している。
これに対し、イエスは 「・・・・わたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていた・・・・」 と擁護して、マリヤの真実と愛の行為を受け入れました。
当時の女性は、自分の髪を命のように大切にしていました。だからその髪をといて、髪で足をぬぐう行為は、考えられないほど徹底して自分が低くなっていないと、思いつかない行為であったでしょう。

W.今がその時
三百デナリで売れるほどの量は、少しずつ購入して貯めたものかもしれない。
マリヤがどのように考えたかも分からない。
しかし、晩餐の用意が進められており、マリヤの目の前でイエスが休んでおられる。
だから、いま捧げようと決心し、全力投球したのだろう。
それが、イエスにとって葬りになり、前述のことばが語られたと考える事ができる。
その香りは、家全体を満たすほど豊かでした。
父は、この絵の中でこうしたマリヤの行動を、S兄の行動に重ね合わせ、いま自分にできる精一杯のことがらを込めて描いたそうです。

X.警告と宝物
Uコリント10章7節、 「・・・・あなたがたは、うわべのことだけを見ています。」 これがユダに対する反論です。
私たちは常にイエスの十字架による救いを、最も高価な替えがたい私たちの宝物として誇る事ができる者となりますように祈りたいと思います。