芳賀富子師のお話から 主要テキスト:ヨハネ12章20~26節
Ⅰ.ギリシヤ人の来訪 20節、過ぎ越しの祭りのために多くの人々がエルサレムに集まってきています。 ここからヨハネは 「・・・・人々の中に、ギリシヤ人が幾人か・・・・イエスにお目にかかりたい・・・・弟子がイエスに伝えた。」 という状況があって、23節イエスは 「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」 ということばを伝えています。 これまで、何回も 「・・・・わたしの時はまだ来ていません。」 (ヨハネ2章4節、7章6節)と言っておられたのに、四日後に迫っているこの時、十字架の死を意識して、遂にその時が、神の栄光を現す時がきたことを告げられたのです。 ギリシヤ人の来訪は、イエスがご自分の時を意識し、自覚する時となったのでしょう。
Ⅱ.一粒の麦が地に落ちて 24節、 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 イエスがどのような方法で栄光を受けられるかを告げられたのです。 死ぬとは十字架の死です。 それは神のみ心であること。 27節、 「わたしはこの時に至った・・・・」 と確認しているように、十字架の死はイエスの自発的な決断でした。 28節、 「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」 という確かな父なる神のみ声による裏付けのある十字架の死であり、信じる者に永遠のいのちを与えるという豊かな実となられました。
Ⅲ.わたしに仕える者 25節、 「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者は・・・・永遠のいのちに至る・・・・。」 麦に譬えられるように、外側の固い殻は 「自分のいのち」 で、内側のいのちは永遠のいのちです。 主からいのちを頂いた人に2種類あります。 固い殻が砕かれることなく、いのちが閉じ込められ、制限され出にくい状態の人。 もう一方は、主にゆだねて、明け渡すことによって、いのちが流れ出る人です。 私たちが砕かれることは祝福の道です。 主の香りを放つ道、豊かな実を結ぶ道です。 砕かれた私たちを 「仕える者」 と変え続けてくれます。 主に仕えるとは、私たちの周りにいる人々に仕えるということです。 できれば避けたい人、係りたくない人であっても、自分の思いではなく、主の愛と知恵と助けを頂いてのぞむとき、主がわざをなさるのです。 一粒の麦となられた主にどんなときにも信頼し、その足跡にならう者とさせて頂きましょう。
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