私は他人の心を直接覗き知ることはできない。 コミュニケーションを通して、間接的に推測するだけだ。 だから、的中することもあれば外れることもある。
この意思疎通の不完全性はなぜ必要なのか? 我々の心が未熟で不完全であるためだ。
我々の心が成熟していて完全であるならば、 意思疏通がテレパシーのような直接性を持っていても 社会は成り立つだろう。
もちろん、愛で結ばれている関係なら、直接性は望ましい。 そして、相互に直接的でありたいとも思うだろう。
しかし、心の中を一方的に直接に覗き知るということは 単なる暴力であり、許されるべきことではない。
ところで
私は敵意を持つ人間に対して敵意を持つ。 私は好意を持つ人間に対して好意を持つ。
私の心は鏡のようなもの。
私の心が醜いのではなく、 醜い心を持つあなたの心が私の心に映っているだけである。
私の心が美しいのではなく 美しい心を持つあなたの心が、私の心に映っているだけである。
だから、私を悪く言う人は、心が醜いのである。 そして、私を良く言う人は、心が美しいのである。
ただそれだけのことだ。 他人とは自分を映している鏡のことである。
ゆえに、原理的に、人は他人の心は知ることができない。 己が他人の心の状態と思ってはいても、それは己の心の状態のことである。
心の中には自分しかいないのだ。 この理を知るべし。
ではまた。 |