なぜ、日本には天才が現れないのか? こんな疑問が提示されている。
そこで、天才である私が説明したい。
私が天才であることは自明である。 ゆえに証明は必要ない。 しかし、周囲の人たちはなかなか納得しないのだろう。 特に、私と関わりの薄い人は、私を天才だと思わない。
私は典型的な天才である。 天才としては平凡な性格である。 天才として平凡であることは、 日本では「変人」あるいは「宇宙人」ということになる。
確かに、私は権威主義的なところがほとんどないため、 多くの「空気を読んで行動する」日本人とは折り合いが悪い。 日本人は集団的・組織的に行動することを規範としているため、 近代的な規範のもとに個人的な行動をする人間を理解できない。
したがって、経済的に成功することはかなり難しくなる。 経済的に成功するには知能指数が高すぎるのである。 おそらく、経済的に成功するのに妥当な知能指数は120程度である。 これは、凡人の知能指数が100なので、ギリギリ理解できる人に入る。
ところが、知能指数は140以上から天才と言われる。 私は、この条件を満たす。 知能指数が120の人が、ギリギリ理解できる人から天才になる。
知能指数は20違うと会話が成立しないとされる。 知能指数140というのは1000人に一人程度の頭脳である。 つまり、希少性が高いのだが、同じレベルの頭脳にあうためには、 メンサなりのサロンに入会しないと難しい。
なぜ、メンサのような組織が必要なのか。
正直、凡人と40も違うと、 会話時のフラストレーションが高くなるため 話したくなくなるのである。 だから、ほったらかすと無口になることが多くなる。
私は、無口にならないように意識しているし、 なるべく相手のレベルに合わせて話しているので、 更に、すこし馬鹿になって話しているので、気が付かないのだろう。
常に孤独を感じているため 孤独になれすぎている。 したがって、群れるという発想がそもそもない。 しかし、群れないと、その集団の中で天才を認知されることもない。 ゆえに、天才だが発見されないし、 発見されないので、天才と遇されることもない。
それに、天才的な日本人は私は天才だとなかなか言わない。 内心は、天才だと思っていたとしても。 それに、頭が悪い人間ほど、天才のフリをして傲慢になる。 そうした振る舞いが多いため、同類と思われたくないのである。
更に、教育システムがある。 日本の教育システムは秀才選抜システムである。 そして、秀才は変化が緩慢な社会を好む。 天才は、もっと知識が汎用化されているので、 変化が大きい社会のほうが自分を活かせるのである。
むしろ天才が多いということもいえる。 天才がありふれているために、比較を間違える。 凡人と比較すれば天才だとわかるのだが、 天才同士で比較をするから、劣る方も天才だということを失念する。
天才に対する誤解も多いのである。 天才なら何でもできると思われている。 でも、本当は、興味のある分野でしか天才を発揮できない。 だから、かなり凸凹な発達をしているものである。
どんなかんたんなことでも、興味を向けないために、 全くできないことがあるものだ。 あるいは、特殊能力が、諸刃の剣となって、 長所であるとともに短所にもなってしまうのである。
これができるから、あれもできるだろう、と思われても、 意外とあれはできない。 これができないから、あれもできないだろう、と思われても 意外とあれはできたりする。
最後に最大の問題。 天才と判断する基準が明確でない。
さて、なぜ私は天才といえるのか。 それは、未来から息子が来ているからである。 おそらくタイムマシンで移動してきたのだろう。
その未来から来た息子は、私を天才であるとした。 ゆえに、私は天才である。 だが、天才が多い時代だから、目立ちはしないらしい、と言っていた。
以上は証明だとは言えない。 しかし、証明できないが、真実はあるのだ。 そして、証明は必ず存在するとは限らない。
私は天才である。 それは、私にとっては自明の真理である。 そのこと自体は、人畜無害なので、社会的に許されることだ。
これからは、私は天才であるとアピールしていくことにしよう。 そのほうが、世の中は面白くなるに違いない。
本日はここまで。 ではまた。 |