これから、支援する者の資質というものを、実践の現場から考察したい。
そもそも「支援する」ということは何を意味するのか?
それを探るために、「支援」とは似ているが異なる概念を提示したい。
〇「支援」は「教育」の概念とは異なる。
教育は、教える側の価値観を教育を受ける者に押し付ける意味合いがある。
支援は支援する側の価値観の押し付けであってはならないのであれば、
必要なことは、支援する側は、価値中立的でなければならない、ということだ。
では、
〇支援を実践する者にとって、価値中立的であることは可能か?
そもそも人が人を支援又は援助することを、価値中立的に行うことは不可能に近い。
おそらく、「支援する」ことに、「支援しないこと」は含まれているし、ひょっとすると、「支援しない」ということは、「もっとも支援的な振る舞い」になるかもしれない。
〇支援者は情熱的であるべきか、冷静であるべきか?
おそらく、情熱的であったかいことが、だれかを支援することにとっては、逆効果にしかならないということは多い。
もっといえば、冷静で、冷たい印象を与える人格のほうが、支援にとって効果的である
ことのほうが多い。
〇頼りがいのある人間が、支援者になるべきか。頼りにならない人が支援者になるべきか?
頼りがいのある人が支援者になると、必ず依存の人間関係が生まれる。したがって、頼りがいのない人間が支援をしたほうが、支援としては効果的なことが多い。
したがって、価値中立的で、頼りがいがなく、冷静沈着で冷たい人が支援者に向いていると思われる。
ところで、こうした資質を豊富に持っている人達とはどういう人たちか?
私は、「当事者」であると考える。
実際、当事者が別の当事者と支援と被支援の関係を持ったほうが、専門職としての支援者を置くよりも効果的なことが多い
つまり、究極的には、支援の専門職など要らない。
もし、それでも支援の専門職が必要であるとすれば、当事者が専門職として働けば十分である。(資格免許状の有無はまた別の話である。)
当事者活動を直接的に支援するほうが、いろいろな意味で、効果的な福祉であるだろう。
職業的支援者などという存在は、その職業が消滅するように活動することを目的としていなければ、本来はおかしい。
当事者は、職業的支援者の餌食になっていてはならない。一体、どちらが本当の支援者だか分からない。支援者と称する彼らに働いて稼ぐための口実を与えてはならない。
以上の意見は、長期的に観れば正しい。
しかしながら、短期的に、暫定的に支援者が存在することは必要である。
それでもなお、支援される側が支援する側を支援している状況は看過することはできないだろう。
かくも、支援することには、哲学的な難問が横たわっていると言えるのだ。
したがって、支援を諦めるという態度は、もっとも支援的な振る舞いなのである。