アポロ行政書士事務所

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2013/04/30 16:47:04|研究
ひきこもりは親のせいではない。
お久しぶりです。

今回のテーマは、

「ひきこもりは親のせいではない。」

です。

もちろん、明らかに親に責任があるケースもあるでしょう。

親が子供の幼少期に、虐待のための暴力を振るってしまったケースは、親に直接的な責任がありそうです。

しかし、この場合でさえ、その親が虐待家庭で育ったのであれば、本当は、その前の世代の親に問題があったというべきです。

いわゆる虐待の連鎖が起きてしまっている場合は、責任を追及すべき人が既に、弱っていたり、亡くなっていたりするのですから、不毛な責任追及になります。

余談が過ぎましたが、では、

なぜ、「ひきこもりは親のせいではない。」のか。

実は、一見、親のせいに見えるのは、単に支配的なだけで根拠が薄弱な理論のもとにおいて、問題を観てしまっているからです。

ひきこもりの本人が「こうなったのは親のせいだ。」と主張する限り、だから「ひきこもりは親の責任である。」と、真面目な親はどうしても感じてしまいます。

しかしながら、こと心理的な側面だけに着目すれば、責任があるのは厳しい言い方をすれば、ひきこもりの本人だけです。

本人は、無限に親の責任を追及しようとする傾向にありますが、

恐らく、いつの時代であっても、自分の親に無限の責任を負わせるのは極端な考えに過ぎません。

真面目な親は、無限の責任を負おうとするため、ひきこもりの状態はたいていの場合、長期化します。

しかし、これが「(長期化の)ひきこもりの親」のスタンダードでしょう。

ここまで言われてきたら、気がついてください。

ひきこもりの親は、しっかり親をやってきています。

普通の親以上に、親として機能しています。

だから、先ず、ひきこもりの親に対しては、私は先ずは激励します。

「よくぞここまで、真面目に親の役目を果たしてきましたね。」

ひきこもりの親であるという後ろめたさのためか、

「あなたは立派な親ですね。」

という社会的承認をいつまでも得られないことに、

多くの普通のひきこもりの親は病んでしまっているようです。

「親と子供の関係であろうと、互いに別の人格であること。」

をすっかり忘れていないでしょうか。

互いに別人格なんですから、

どうにもできないことは、どうにもならないし、
なるようにしかなりません。

「子供に振り回されずに、ご自身の人生をしっかり歩んでください。」

結局、くっついたり離れたりを繰り返しながらも、徐々に離れていくのが親子関係です。寂しくても仕方ないのです。

それでも、若干の責任を感じるのであれば、一度、責任を明確化してみてください。

その中に、どれだけ合理的なものがあるのか検討してみましょう。

恐らく、多くの場合、ひきこもりの原因の帰属も、ひきこもりを正当化する根拠にも客観的な合理性はないでしょう。

だから、世間の風潮でしかない、「子供のしたことは親の責任だ。」

という短絡的な責任論に、負けないで、くじけないで下さい。


















2013/04/10 8:09:40|学習塾を起業
学習塾は存続できるか?
いつもブログをご覧頂きありがとうございます。

蔵の街ライフデザインの小林宙です。

さて、今回のテーマは、「(従来型の)学習塾は存続できるか?」です。

従来型の学習塾は、知識を授けることを生業としていました。

しかし、現在の世界的な価格競争とインターネットの普及によって、

授業自体はそのプライスを大幅にダウンもしくは無償で提供せざるを得ない状況になってきています。

学校には、本質的に「資格付与機能」が付されていますから、

単位修得の認定に適度な価格を設定できますが、

営利企業たる私塾には、そうした機能がありません。

つまり、知識を授けるだけのサービスには、プライスがつけられなくなりました。

しかし、こんなことは、全くの想定内の出来事でした。

そのため、未来適応型の塾経営というのも、既に存在しています。

ただ知識を授けるのではなく、

知識を効果的・効率的に獲得することを支援したり、

学習させるのではなく、自発的な学習を促すようにコーチングしたり、

目標による管理を学ぶものに徹底し、そのマネジメントを運営担当が担ったり、

メンタルヘルスを維持するために、カウンセリングを導入したり、

生活にメリハリをつけるためにイベントを開催したり、

大人の手も交えて、理科実験教室を開催したり、

ロボット工作を通じて、楽しみながら知識を習得させたり、

と様々な取り組み既存の塾の間でもなされてきました。

それは、こうした教育コンテンツのプライスフリー、

あるいは、教育の機会均等が成立した世界が現実化することに、

塾業界の方は確信を持っていたからに違いないのですが、

顧客の意識の変化はとても遅かったので、対応が後手後手に回ってしまったことは否めないところだと思います。

私は、日本の塾業界は、緩慢な変化を望むため、あと10年かけて、こうした世界へと変革していくと思っていましたが、

もう既に未来は、はじまってしまっているのです。

ゆえに、お客様には、

従来の常識は通用しなくなりましたから、これからは、我々の役割は大幅に変えていく必要があります、と宣言しなければなりません。

それが、ソーシャルな学習塾のあるべき姿になるだろうと、私は、確信しています。

学習塾が存続できるかどうかは、この劇的な変化に見事に対応できるか否かにかかっていることは、説明するまでもないですね。










2013/04/09 23:53:39|蔵の街ライフデザイン
第6回栃木・蔵の街かど映画祭
第6回目の本年(平成25年)は

5月18日(土)、5月19日(日)の二日間に渡って開催されるそうです。

今回、このブログでは、「栃木・蔵の街かど映画祭」を話題にしてみます。

以前、映画祭には、主に当日ボランティアで参加したことがありますが、現在は、一市民として、お金を使う日にしています。

「消費者の視点でこの映画祭を捉えたときに、そこには、どのような魅力があるのか?」に、今回は焦点を当ててみたいと思います。

先ず、扱っている「商品」は何でしょうか?

祭りであるからには、「非日常的な体験」が商品であるはずです。

「消費者は非日常的な体験から何を得ることを期待しているのか?」

というと、

「明日からはじまる日常を生きていくための活力を得ること。」

が目的だと思います。

言い換えると、リフレッシュすること、癒しを得ること、パワーをチャージすることが目的です。

この目的に資するのであれば、現代的なお祭りの基準は満たしていると思います。

蔵の街かど映画祭が、この基準をクリアしているかどうかは、

私が「満たしている。」と宣言するだけではもちろん不十分ですから、

「・・・おなじ阿呆なら踊らにゃソンソン」の精神で、先ずは、参加してみましょう。

少し視点をずらして、旅には、非日常性&ストーリーが必要だといわれます。

多分、傍観者のストーリーはこうです。

「映画?蔵の中で見るの?だから何?」

恐らく傍観者は好奇心を失くしています。

少しでも好奇心のある人なら、おなじ情報を与えられたら、違った反応をするのではないでしょうか?

多分、「物語性」を発揮できないと、好奇心をそそられないのです。

集客力を強めるには、ある程度、物語を提供する必要があるようです。

しかし、蔵の街かど映画祭の良さは、

「規定の物語を用意していないところ」にあるかもしれず、

少し、悩みます。

逆に、百人百様の楽しみ方があり、百人百様の物語を紡ぐことができるところに、私なんかは、魅力を感じますね。

ところで、インターネットで「蔵の街かど映画祭」を検索しても、ほとんど情報を得ることができません。

情報を得ることができても、アクセス数が伸び悩んでいるように見えます。

個人のブログやツイッターなどで話題になっているかといえば、

正直、少ない気がします。

蔵の街かど映画祭について、語る人が少ない気がします。

ということもあり、

多くの方がこの映画祭を語れるようになるといいなと思って、

当ブログを書いているわけです。

是非、皆さんは、<私が観た>「蔵の街かど映画祭」を、

個人的な物語として編んでみてください。

私も、いずれは、映画祭にちなんだ個人的な物語を紡いでみます。

では、また。











2013/02/22 21:45:12|その他
40歳まで、あと2年!
久しぶりの投稿です。

本日、私は38歳になりました。

ツイッター、フェイスブック、携帯メールなどで、

「誕生日おめでとう。」と、つながりのある方から祝福を頂き、

最近、仕事で疲れ気味だった私は、とても感激しています。

皆さん、「ありがとうございます!」

37歳の最後の日の昨日は、眠気と疲れのため、ATMの周辺で、現金3千円を財布に入れたつもりが、コンビニで買い物をしていたときに財布を手にして、お札が入っていないことに気がつき、何とか小銭で会計が間に合ったので、何とかその場をやり過ごしたのでした。

職場の方から、「就職活動しないんですか?」という声を頂き、本日は、たまたま休日になった金曜日で、誕生日でしたがハローワークにいって、仕事を探してみました。

都合のいい求人がありましたので、応募してみたいといったら、とりあえず拒否はされなかったので、紹介状をもらってきました。

応募するのに400字以上の作文を書かなければなりませんが、それはこのブログを書いた後に何とかします。

本日は、いろいろなところに相談のために出向いたり、電話をかけたりの多忙な一日になりました。

日ごろの仕事や職場のことをすっかり忘れることができ、よい気晴らしになりました。

この歳になっても、バースデーには母親はケーキを買ってくれるのでした。自分の運転する車で、洋菓子店までいき、ケーキを適当に選んで帰りました。

全く、いくつになっても息子に愛情を注ぐ親なので、少し困ります。

今夜は、国産の牛肉でした。お金も録に無いのに、ささやかでも祝福したい親なのです。

私は、そんなささやかな幸せを沢山感じられような人格でありたいと思います。

そして、もっと、周囲の方々に気を配ることができるようにもなりたいです。

現在の職場の直属の上司は女性なのですが、とても気配り上手で、その意識の高さには、いつも敬服していますが、それくらい私も気が配れるようになれればと思いつつも、まだ、その方の猿真似ができるぐらいにしかなっていないことに愕然としています。

現在の職場で、「仕事とは何か?」ということが、体験的に理解できるようになり、とても感謝しています。

ずばり、「仕事とは、相手への気配り」です。

そのことを、とてもよく具現化している職場に通うことになり、毎日がとても充実しています。

一日が過ぎ去るのがとても長いのです。

3月末の契約期間満了まであと、一ヶ月とちょっとだけありますが、

無事に勤めが果たせるよう、今のひと時を充電しています。

とてもささやかな幸福が当たり前のように存在しているのですが、

そのことを当たり前のこととして受け止めずに、とても新鮮な驚きを

もって受容することを、これからも大事にしていきたいです。

明日の自分が今日の自分よりも幾分か成長できているならば、それは人生が上手く回っている証拠なんでしょう。

さて、明日は出かける予定がありますので、この辺で今日は店じまいと致しましょう。

本日も、ブログをご覧頂き、ありがとうございました。
























2013/01/31 0:35:02|研究
「体罰」を斬る!
久しぶりの投稿です。

最近、やたらと話題の「体罰」について、斬らせていただきます。

「体罰」の定義とはなんでしょうか?

字義通りに解釈すると、「罰として身体に危害を加えること」だといえそうです。

先ず、「罰として身体に危害を加えること」が許されるでしょうか?

日本の法体系では、死刑を除いては、身体に危害を加えることは許されていません。

つまり、おおやけには、「罰として身体に危害を加えること」はできないのです。

すなわち、体罰は広い意味での私刑(リンチ)の一種だといえます。

さて、私刑などというものは、存在はしていても、その存在が許されるべきものではありません。

そもそも、社会契約論から言えば、国家に暴力を独占させることが建前なのですから、当然の帰結ですね。

更に、国家という名の暴力装置を発動させることも、適正な手続きを経てからではないと許されるものではないのです。

なんびとたりとも、恣意的に他者に対して罰を与えることはできないのです。

少し視点を変えて、罰であるからには罪がなければならない。

罪は明確である必要があり、民主主義によって合意されたものでなくてはならないはずです。

また、三権分立を前提とした適正な手続きを得なければ罰を執行することはできません。

裁判を受ける権利が保障されているのでなければなりません。

以上のような前提に立つとき、現在の日本の教育は、前近代的であると断じるしかありません。

多くの大人が、体罰の是非について争っていますが、以上で見て来たようなベーシックな部分での知識が欠けているため、情緒的・経験的な意見表明に留まっています。

日本の教育現場における体罰は、その制度的な保障が十分でないからには、全く持って、単なる教師による恣意的な暴力に過ぎません。

教育自体が、贈与の性格を帯びているため、暴力の一種であることは否めないところではありますが、そういう危険な作用については、教育を受ける側の同意が必要なはずです。また、体罰の様な暴力は同意が合っても無効な契約とすべきです。

私は、教師の暴力は、教育者として力量のなさを露呈するものに他ならず教師の生徒に対する敗北宣言に等しい、と以前も断じました。

以上で、法律を多少はかじったことのある人間の視野の狭い話は、一旦終わりにさせていただきます。

ここまで、お読み頂き、ありがとうございました。