アポロ行政書士事務所

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2013/07/18 21:59:45|研究
大人になるためのゲームのルール
私は今、「大人になるためのゲームのルール」を考案中です。

私は、このゲームに、「ひきこもり脱出ゲーム」という別名をつけています。

このゲームの構造は、とても単純です。

1.プレイヤーは自らルールを決め、自らそのルールを守ります。

2.プレイヤーはルールを守れたかどうかを自己申告します。

3.審判役がプレイヤーの自己申告をチェックします。

4.審判役は、プレイヤーがルールを守ったと、総合的に判断した場合に、プレイヤーに予定されているインセンティブを与えます。

5.1から4を繰り返します。

もう少しゲームのルールを具体化しましょう。

プレイヤー = 子供
審判役  = 後見人(親など)
繰り返しのサイクル = 3日間
ルールの数 = 3 〜 12個
インセンティブ = マネー
マネーの値 =(0円、500円、1,000円、1,500円、2,000円)

とします。

 まずは、このゲームのスタート時点で、「3つのルール」を子供に決めてもらいます。

 3日間をルールに従って子供に生活してもらいます。

 3日目に子供に自己申告をさせます。

 3つのルールを3日間継続して守れた場合にのみ、
 インセンティブとしての報酬 = マネーを与えます。

 最初は500円のマネーを与えます。

 そして、マネーを与えられた場合には、次のステージに進みます。

 更に新たに、3つのルールを子供に決めてもらいます。

 第2ステージでは、全部で6つのルールを守ることになります。

 第2ステージをクリアした場合には、報酬は1,000円になります。

 順に、第3ステージでは、報酬は1,500円で、
 守るべきルールは9つです。

 第4ステージでは、報酬は2,000円にします。
 守るべきルールは12個ですね。

 全てのステージのサイクルは3日間です。

 3日目に必ず審判役(=親)が自己申告の評価を軸に、
 ルールが守られたかどうかを総合的に判断します。

ただし、(ゲームの構造には書きませんでしたが、)

 子供がステージ4を連続して達成しつづけている場合には、

 審判役(=親)は、プレイヤーとの協議の上で、ルールを達成が困 難なものに置き換えることができます。

 ゲームの初期段階では、ルールは、達成が容易なものでかまいま せん。

 例えば、「毎日、朝と、夕方には飯をたべる。」とか、「起きているときには、少しの時間でいいので、親の手伝い(片付けなど)をする。」などのレベルでいいと思います。

 とりあえず、ここまでは、私が考えました。

 はっきりいって、多様なバグの多そうなプログラムではありますが、

 バグが出れば、そのたびにプログラムを修正し、最適なプログラム をカスタマイズすればいいと思います。

 小遣いを無条件に与えるのではなく、条件をつけているだけですが、ゲーム性を持たせることで、面白くなっているのではと感じます。

 無条件に無償で、なんでも子供に与えてしまうことが、子供を子供のままにして、大人への成長を阻害している、と考えるに至った場合には、このゲームの導入をしてみてください。

 ではまた!
 



 
 
















2013/07/12 17:09:05|蔵の街ライフデザイン
子供の可能性は無限大。
久しぶりの投稿です。

さて、今回のテーマは、「子供の可能性は無限大」です。

巷では、「個性」が大事だ、と少し「個性」を偏重する嫌いがあります。

そして、「集団教育が個性を殺すのだから、集団教育を撤廃しろ。」

等と軽薄なことを言っています。

「制服を廃止しろ。」などは、そうした主張から派生してきたものでしょう。

さて、日本では、個性を「その人のユニークな部分」であると理解されています。

ここでは、「ユニーク」は面白い人、ではなく、代替不可能性、「その人ならでは」、という意味です。

ところが、心理学を学ぶと、たちまち疑問が湧き出てきます。

ここでは、個性と個人を敢えて区別しないことにしましょう。

一つには、精神分析学者であるアドラーは、個人を「その人の全体性」という意味で使っており、個人を部分的に理解しようとはしていません。

それに、分析心理学者のユングは、「個性化」を中年の危機以降の発達課題として、位置づけています。

つまり、ユングに従う限り、明らかに中年以前にある子供達に「個性化」を強要することは、酷というものです。

そして、「標準から外れている部分」「変わっているところ」だけに着目した「個人」は、その個人の全体をつかもうとしていない面で、おかしいのです。

恐らく、憲法の原理に「個人の尊重」があるため、「個人」や「個性」が戦後、日本人は、ほとんど本質的な理解ができませんでした。

(だからといって、この憲法の原理を改正しようなどというのは言語道断であり、むしろ、本質的で正しい理解の下で、「個人の尊重」を語らなければならないのです!)

では、成長過程にある個人に対して、教育に携わる者(教師、親、地域の人)のまなざしは、どうあるべきなのでしょうか?

私は、子供に「無限大の可能性」を見出すことこそ、真の教育だろうと考えます。

子供の可能性への着眼と、その可能性が無限大であることへの畏敬の念こそが、必要な大人の心構えなのです。

「個性」などというのは、選択肢や可能性が十分に狭まってから、後付で認知されることでしかないでしょう。

個人と集団の対立軸だけで、個人を理解することはできません。

概して、子供や若者のほうが、潜在的な能力を多分に持っているものです。

可能性の芽を十分に植えつけてから、それぞれの芽を涵養することを学ぶのが、教育の現場であってほしいですね。

このような視点があったからこそ、経済上の日本人の強み(ストレングス)は確かなものでした。

それが、バブル崩壊以降、忘れ去られているような気がします。

残念ながら、日本人の「強み」を忘れたり、否定することが流行してしまいました。

日本経済は、まるで、「弱み」を気にしすぎて、なにもできなくなってしまった人のように不活発です。

景気をよくするためには、教育への大胆な投資こそが、求められます。

大胆な投資をしても、十分なリターンが帰ってくるインフラストラクチャーは、十分に整いつつあるのです。

「エデュケーション!エデュケーション!エデュケーション!」

子供の可能性を引き出す教育への投資こそが、今の日本に必要な政治的決断なのです。

ということで、参議院選挙が近いので、選挙演説のような文章になりましたが、私は立候補していませんので、あしからず。

以上、マニフェストなどに載せる場合は連絡ください。(冗談です。)

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。












2013/06/25 3:39:18|研究
ファミレスの飯が美味い!
 お久しぶりです。

 ここ最近になって、いろいろと身の回りに不幸な出来事が起きてしまっていて、すっかりブログを更新することが躊躇われていたのですが、ようやく投稿する気分になりました。

 今回のテーマは「ファミレスの飯が美味い!」です。

 宇都宮のオリオンスクエアでの催しものを拝見した後の、帰りの車の中で、滝谷町の交差点を左に曲がりながら、栃木街道は、宇都宮から栃木に向かっていく道沿いに、飲食店が左側のロードサイドに少なく、あったとしても、ラーメン屋やファーストフード店だよな、という考えが頭をよぎり、仕方が無いから、中華系のファミリーレストランにでもよってみるか、と駐車場に入るためにハンドルを左に斬りました。

 中に入ってみると、お昼時であったために大変混雑していました。待合室の椅子は満席でした。はじめは喫煙席を避けていましたが、順番を大幅に繰り上げることができたため、喫煙席を利用しました。

 餃子と半チャーハンとメインディッシュとなるものを注文いたしました。

 先ず、ギョーザが5つ出てきました。程なく半チャーハンとメインディッシュが運ばれてきました。

 「おいしい」の一言に尽きました。どういう風に美味しかったかご自由に想像してください。

 実は、この記事を書くことで考えたいことはほかにあります。

 さて、「個人の店が、ファミリーレストラン並みの美味しさのクオリティーを出しながら、低価格でお客様に提供するにはどうしたらよいか?」
 この問題に真向から挑もうとすると、かなり困難だろうと思います。

 高品質(美味しさ)かつ低価格という路線は、私が思うには、ファミリーレストランがダントツであり、他の追随を許さないほどに洗練されています。

 したがって、私が個人の飲食業の経営者であったら、ファミリーレストランのフランチャイズ店のオーナーになるという選択をすることはあるかもしれませんが、あえてそのオプションを保留にして、ファミレスを更に観察することにしましょう。

 すると、ファミリーレストランの高品質かつ低価格の軸になっているのは、客席回転率が大きいことにあるのではないかと感じます。

 このことは、お店が忙しいときには、料理が運ばれてきてから、10分や15分で食べることをなんだかお客様は急かされている気分に陥るのではないでしょうか。私は、長居してはお店に迷惑であり、後のお客さんにとっても迷惑だという後ろめたさを感じることがあります。(もっとも客が少ないときにはまったり過ごすことができているかもしれません。)

 これは、「ファースト(迅速さ)」を売りにしていることの宿命的な弱点であるとみると、これと反対のサービスを考えることができるでしょう。

 つまり、「スロー」を考えるということです。

 「スロー」であることに価値を見出すことが大切です。

 記事が長くなりましたので、次回以降の記事にまわしますが、

 「スロー」について研究をしてみたいと思います。

 今回の記事は以上です。ここまでお読み頂きありがとうございました。

 


 







2013/05/15 18:22:27|研究
みんなはひとりのために。
久しぶりの投稿です。

自民党憲法草案を読みました。

感想を申し上げます。

「ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために。」

から

「みんなはひとりのために。」

が抹消され、

「ひとりはみんなのために。」

だけが残ったのか、という残念な印象です。

「ドラえもんのポケット」は「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に

置き換えたことによって、

四次元ポケットから三次元のポケットに変質してしまいました。

憲法13条をはじめ、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と

置き換えられた条文は、すべてもとに戻すべきと考えます。

草案では、司法の存在が危うくなると考えます。

「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、全て憲法をもつものではない。」

つまり、近代以降の憲法ではありません。

国民が国家を道具にする憲法から180度転換し、

国家が国民を道具にする憲法への変質してしまいます。

私は、憲法ではないものを憲法と呼びたくありません。

あしからず。












2013/04/30 16:47:04|研究
ひきこもりは親のせいではない。
お久しぶりです。

今回のテーマは、

「ひきこもりは親のせいではない。」

です。

もちろん、明らかに親に責任があるケースもあるでしょう。

親が子供の幼少期に、虐待のための暴力を振るってしまったケースは、親に直接的な責任がありそうです。

しかし、この場合でさえ、その親が虐待家庭で育ったのであれば、本当は、その前の世代の親に問題があったというべきです。

いわゆる虐待の連鎖が起きてしまっている場合は、責任を追及すべき人が既に、弱っていたり、亡くなっていたりするのですから、不毛な責任追及になります。

余談が過ぎましたが、では、

なぜ、「ひきこもりは親のせいではない。」のか。

実は、一見、親のせいに見えるのは、単に支配的なだけで根拠が薄弱な理論のもとにおいて、問題を観てしまっているからです。

ひきこもりの本人が「こうなったのは親のせいだ。」と主張する限り、だから「ひきこもりは親の責任である。」と、真面目な親はどうしても感じてしまいます。

しかしながら、こと心理的な側面だけに着目すれば、責任があるのは厳しい言い方をすれば、ひきこもりの本人だけです。

本人は、無限に親の責任を追及しようとする傾向にありますが、

恐らく、いつの時代であっても、自分の親に無限の責任を負わせるのは極端な考えに過ぎません。

真面目な親は、無限の責任を負おうとするため、ひきこもりの状態はたいていの場合、長期化します。

しかし、これが「(長期化の)ひきこもりの親」のスタンダードでしょう。

ここまで言われてきたら、気がついてください。

ひきこもりの親は、しっかり親をやってきています。

普通の親以上に、親として機能しています。

だから、先ず、ひきこもりの親に対しては、私は先ずは激励します。

「よくぞここまで、真面目に親の役目を果たしてきましたね。」

ひきこもりの親であるという後ろめたさのためか、

「あなたは立派な親ですね。」

という社会的承認をいつまでも得られないことに、

多くの普通のひきこもりの親は病んでしまっているようです。

「親と子供の関係であろうと、互いに別の人格であること。」

をすっかり忘れていないでしょうか。

互いに別人格なんですから、

どうにもできないことは、どうにもならないし、
なるようにしかなりません。

「子供に振り回されずに、ご自身の人生をしっかり歩んでください。」

結局、くっついたり離れたりを繰り返しながらも、徐々に離れていくのが親子関係です。寂しくても仕方ないのです。

それでも、若干の責任を感じるのであれば、一度、責任を明確化してみてください。

その中に、どれだけ合理的なものがあるのか検討してみましょう。

恐らく、多くの場合、ひきこもりの原因の帰属も、ひきこもりを正当化する根拠にも客観的な合理性はないでしょう。

だから、世間の風潮でしかない、「子供のしたことは親の責任だ。」

という短絡的な責任論に、負けないで、くじけないで下さい。