アポロ行政書士事務所

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2013/10/18 8:22:24|ライフデザイン
当事者研究してみた。
このブログをご覧になっていただき、ありがとうございます。

さて、今回のテーマは、「当事者研究してみた。」です。

夜中、頭が冴えていたので思いつくところをペンで殴り書きしていました。

それを、ここでまとめておきたい、と思います。

当事者研究には「自己病名」をつけるというのがお作法です。

自己病名とは、他人が名付けるのではなく自分で名付ける病名です。

私は、

「エリートペルソナに苦悩するアンダーアチーバー幸福感喪失タイプ」

としました。

自己病名は、症状の全体を簡潔に把握できるような名称が良いと思います。

自分独自の用語を使うことは許されますが、ちゃんと定義づけするのが礼儀でしょう。

では、定義づけをしてみます。

「エリートペルソナ」
 「エリート」と「ペルソナ」を合成した造語です。エリートとは、原義は「選ばれた人」というぐらいの意味ですし、ペルソナは「仮面」です。
 ここでは、ペルソナは、周囲の人に認知されている人格の特定部分を構成しているいわば表層・表面上の姿のことであり、すなわちこの仮面そのものがエリート属性を持っているということを端的にあらわすため「エリートペルソナ」という言葉を今回編み出しました。

「アンダーアチーバー」
 低達成ということですが、期待される達成度に対して著しく低い結果しか出せていない状態あるいは困難をさして用います。

「苦悩する」というのはどういうことでしょう。

「エリートペルソナ」という「仮面」とアンダーアチーバーの「素顔」との乖離に苦悩するということです。

乖離を解消するには2つの方法があります。

エリート(仮面)に近づき一致することによって解決する方法と、

アンダーアチーバー(素顔)にあわせて仮面を外すこと。

以上の2つですが、どちらも解決への道が困難であるため、いつまでも困難が解消しそうにない、ということです。

物理的な仮面は着脱が容易ですが、社会的な仮面というのは、外れなくなってしまうものですし、外すのは自分ではなく、むしろ周りの人達でしょう。

こうした葛藤のなかで、「幸福感を喪失している」結果を招いているのは、説明が必要とも思えません。

まとめると、「仮面と素顔との乖離を解消できずに幸福感を感じられない。」ということになりそうです。

結局、社会心理学を自分を事例として考察するにとどまりそうですが、とりあえず研究して結果を残したいと思います。

今回は以上です。







2013/09/30 20:01:43|蔵の街ライフデザイン
下山をはじめる。
こんばんは。

「蔵の街ライフデザイン」です。

本日のテーマは「下山をはじめる。」です。

人生は、始まりがあれば、終わりがあります。

それは、けして平坦な旅路ではなく、

一つの山を登って降りてくるような登山に例えることもできるでしょう。

私は、現在38歳ですが、図らずも登頂を果たしてしまったようです。

デッドラインあるいは、死の淵というものが、

まだ漠然とした予感であった若い頃と違って、

はっきりとそれを実感できる、あるいは遠くを見下ろせば見える位置に到達してしまったようです。

そして、既に、地平に向かって歩き始めているように感じています。

もう、自分に期待しても仕方がない、

という諦めの気持ちになりますが、

その一方で、「では、次の世代に何を継承できるのか?」

を、鋭く自分に問うことになりました。

恐らく、これがエリクソンのいう「世代継承性」(ジェネラビリティ)の問題なんだと感じています。

人間である限りは、肉体は老いていき、その先には確実に「死」が待ち受けているわけですが、人というものは、せめて生きてきた痕跡のようなものを次の時代に継承していく欲望を持っているはずです。

欲望というよりも「業」というほうがふさわしいでしょう。

私はこの旅路で失敗を重ねて来ただけのつまらぬ人に違いないのですが、他人が、私の失敗を「他山の石」とせず、同じことを繰り返してしまえば、結果、私と同じつまらぬ人となります。

つまらない私だからこそ、次の代に伝えなければならない、本当のことを語らなければならない、と感じています。

おそらく、若いうちは、耳に入らないような話なのでしょうが、

それは、はじめてで、一回きりで、さいごの人生では、間違えてしまっても仕方が無いので、

自分が間違えたことに気がついたときに、同時に自分の愚かさに気がつき恥じ入ることができれば、それは別の意味で幸いな人生だといえるでしょう。

もっとも、人は遅かれ早かれ同じ境地に辿りつくことになるのかも知れません。

なぜなら、本当の意味で人生が失敗であったといえることはないだろうし、、翻ってまた、人生がすべて成功であったと言い切れることもまた無いだろうと、考えるからです。

ところで、下山のほうが、事故が多いようですね。

これからも、より一層注意して、天寿を全うできるまで生きていければと思います。

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。



















2013/09/27 2:00:59|研究
「たこ焼き」について考察する。
「蔵の街ライフデザイン」です。

今回のテーマは「たこ焼き」です。

「たこ焼き」について考察します。

ところで、今時のコンビニエンスストアは、

昔は「屋台」で手に入れたような食べ物のほとんどに進出している

気がします。

「おでん」は代表例でしょう。

ほかに、具体例を数え上げるまでもないと思います。

そんなコンビニエンスストアであっても、これは味がいまいちではないか、と思われるものがあります。

「たこ焼き」です。

正直、力を入れていないと思われます。

ということは、裏を返せば、商機があるということではないですか!

ということで、「たこ焼きを売ること」を考察してみます。

関西では、家で作ることが当たり前であり、買って食べることは控えているはずですが、関東では、まず「たこ焼き」を焼く鉄板を持っている家庭自体が少ないので、「買って食べるもの」という意識があります。

裏を返せば、消費量は関西に軍配が上がるでしょうが、購買量では、差は少ないのかもしれません。

ここで、宇都宮の餃子の売り方にスポットを当ててみましょう。

宇都宮の餃子は有名ですが、日本一なのは、その消費量です。

ということは、「たこ焼き」に話を戻すと、日本一を取るのは難しいでしょうが、関東一であれば、その称号を得られるかもしれない。

それは、栃木県でたこ焼き消費量が突出して多い市町村であっても、面白いのではないか。

つまり、「たこ焼き」で「まちおこし」ができるのかもしれません。

それはさておき、たこ焼きを焼く技術は、自分で鉄板を買ってきて、自分で焼いてみて、周りの人の反応をみて、ゴーサインが出ればOKなはず。

しかし、「たこ焼き」の認知度は高くても、

「たこ焼きを専業で売っている店」という認知はなかなか得られるものではありません。

だから、自営業としてはじめるなら、「移動販売」という形式で、エリアを限定しいろいろなところで売るのがよい、と思います。

初期投資を極力抑えるのです。

なぜなら、「たこ焼き屋」がこけたら自分の人生もこけるほどの大きな投資をすべきではないからです。

先ずは、テスト・マーケティングをしてみたい。

しろうとでも参入できるイベントに「たこ焼き屋」として店を出してみるというのが、いいと思います。

そこで、ノウハウも手に入れるのがベストでしょう。

安易に、フランチャイズに加盟するのはここでは論外です。

長くなりましたので、今回はここまでとします。

何かのサジェスチョン(示唆)になれば幸いです。

では、また。















2013/09/22 9:34:31|研究
良い格差・悪い格差と貧困
こんにちは。

「蔵の街ライフデザイン」です。

本日のテーマは「格差と貧困」の問題をどう捉えるか、です。

この議題で議論が混乱する理由は、

格差を容認するかしないかで対立するからです。

そこで、私は、「良い格差」と「悪い格差」に先ずは仕分けることを提案します。

「悪い格差」とは、大雑把に言えば、「貧困を帰結する格差」のことです。

反対に「貧困を帰結しない格差」を「良い格差」あるいは「容認できる格差」であると仕分けます。

貧困については単純に社会の悪であるため、善悪を判断しない立場であり、貧困については、日本社会の場合には「相対的貧困」を意味します。

資本主義が徹底され何よりも優先される社会の帰結は、1パーセントの資本家と99パーセントの貧困層が形成され、その階級社会が固定されることです。

俗に、中世的な社会が実現してしまうという話です。

貧困が連鎖し貧困層が固定される社会というのは、

「頑張った・努力したことが、経済的に報われない社会」です。

それは、頑張った・努力したことが軽く扱われることを意味します。

良い格差というのは、

「頑張った・努力したことが経済的に報われる社会」のことでしょう。

付け足すならば、階級を上っていく意思があり、上るだけの努力ができる人であれば、上っていける社会でしょう。

とりあえず、ここまで仕訳ましたが、人によって理想とする社会像が違いますので、敢えてこれ以上のことを言うつもりはありません。

何れにせよ、議論をするためは、話者間で前提となる共通認識を持つということが大事で、このような議論の端緒になることには時間をかけることが本来必要です。

従って、今回の提案も、議論の端緒としてご活用ください。

では、よろしくお願いします。















2013/09/17 20:54:51|蔵の街ライフデザイン
年間1000時間の勉強時間は確保できるか?@
お久しぶりです。

「蔵の街ライフデザイン」です。

本日は、「年間1000時間勉強すること」を考えることがテーマです。

1年間は365日で計算した時は、8760時間あるわけです。

つまり、生活の11.4パーセントを、

例えば、自分の目指す資格取得に費やすということです。

もし、一日の3分の1である8時間を睡眠に当てるとすると、

一日の起きているの時間は16時間ですから、年間5840時間は、目が覚めているわけです。

起きている時間の17.1%を費やさなければ、1000時間に到達しません。

ちなみに、1日コンスタントに3時間の勉強をするとなると、18.75%を費やすことになります。

もし、片道2時間の通勤をしているとするならば、毎日の残業を3時間程度していて、週休2日であると仮定するならば、通勤時間でしか勉強できそうにありません。

実質、英語のリスニングぐらいしか勉強できないでしょう。

土曜日と10時間、日曜日に10時間ずつ勉強できる人も中にはいらっしゃるかもしれませんが、そういう方は想定していません。

睡眠時間を削るということも想定していません。

ということは、一日3時間も勉強できる人は、かなり時間的には恵まれていると考えることができます。

やはり、収入を犠牲にするしか方法が無いんでしょうかね。

しかし、既婚者は収入を犠牲にすることを想定できません。

こうなると、正社員で働けているのであれば、仕事に専念すればいいのであり、好きな勉強は諦めるのが普通でしょう。

身体が持たないと思います。

ちなみに、月の残業時間を平均60時間と置いています。

こういう方は、今の仕事に打ち込むべきであって、転職のための保険のような勉強をするべきではないでしょう。

ということで、年間1000時間勉強する必要は無い方ですね。