アポロ行政書士事務所

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2015/05/02 18:24:17|研究
敵意と統合失調症。
また、久しぶりの投稿です。

突然ですが、「統合失調症」をテーマに取り上げます。

当行失調症者は、「敵意」という感情状態に常にさらされています。

敵意が具体的な人であったり、抽象的な「見えない組織」のような者であったとしても、

何らかの「敵」が存在していることに変わりありません。

ということは、統合失調症者は常に、戦闘状態、あるいは戦闘準備状態にあるといえます。

こうした「敵」に対して、「自分ではどうすることもできない」という感情に支配されてしまうと、

無力感や無気力に晒されてしまうのだと考えます。

同時に、敵の存在の裏に神を感じてしまっていると、宗教に溺れたり、

敵が悪魔の手下と判断されれば、「自分は神だ」という宗教妄想にとらわれたりするのでしょう。

単なる被害妄想であったものが、被害状況の態様によっては、誇大妄想に相転移することもあるでしょう。

統合失調症者は、常に、何者かによって、試されると感じるような出来事に満ちています。

統合失調症者は「自分の味方となる人」を探し出さなければならない。

しかし、味方を形成すること、そんなことでさえもを邪魔されることなどが多くあります。

そして、本人も味方になる人を味方であると認識できなくなっています。

敵か味方かを注意深く判断するにあたって基準が厳しすぎるために、すべての人が敵になってしまう。

したがって、とても孤独です。それは、「つまらなさ」や「さみしさ」とともにあります。


統合失調症者の世界観は、RPG(ロールプレイングゲーム)。

遊びとしてのゲーム性を帯びています。

さまざまな妄想、それは、意味の見いだせない人生に、意味あるいは価値を付与するための論理的に構築されたシステムのようなものです。

では、こうした異空間に住む人々をどのように理解すればいいのでしょうか。

統合失調症者は、おそらく、チャレンジドと称されるよりも、「勇者」と呼ばれたいのだと思います。

何らかの重い使命をもって生まれてきたはずの彼らに「敵意」ではなく「敬意」をもって接してみることが必要だと思います。

もちろん、妄想に巻き込まれては、社会的に困った事態になるかもしれませんので、注意が必要です。

「敵意」をどう扱うか。

これは、専門家と称する方々も、真剣に取り組むべき課題であり、敵意を御することができるようになることが、統合失調症者の病気の回復の一助になるはずです。

RPGのような世界観

これを明らかにすることも必要なんだろうと思います。

今回は、ここまで。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 







2015/04/12 18:02:32|研究
被選挙権もあるよ。
久しぶりの投稿です。

今日は、統一地方選挙の投票日です。

この辺りでは、県議会議員選挙が行われます。

そこで、選挙にちなんで、「政治」の話をしよう、と思います。

ところで、選挙権の行使では、私なんかは、常に悩みますね。

「今回は誰に投票しようか?」

候補者の選定にあたっては、自分なりの基準を設けています。

先ず、政治というのは自分事だということ。個人的なことは政治的なことなのです。

そこで、「今、困っていることは何か?」ということを明確にします。

私の場合、年齢的に転職は難しくなっております。

また、今の職業を続けていても生活に余裕があるとは言えない状況にもある、と感じています。

思い切って、自営業として独立開業をしたくとも、十分な開業資金を用意できる状況にもありません。

そのため、普通に働いていれば、独立開業を実現できる程度に貯蓄ができる職場が身近にあることを切望します。

公約のような言い方をすれば、企業誘致による雇用の創出と、賃金の上昇を実現することを掲げる候補者が望ましくなります。

ところが、すべての候補者が公約として掲げているので、形式的には絞り込むことができません。

そこで、実行力があるかどうか、ということを見極めることになります。

あとは、いろいろな情報を、そのまま鵜呑みにするようなことはせずに、

総合的な判断を下して、候補者を絞り込みます。

もちろん、だれも十分な実行力を持っていないことが判明した場合、

もっとも「まし」な候補者に投票をします。

棄権するという選択肢は、私にはありません。

なぜなら、私には、「被選挙権」もあるからです。

自分が被選挙権を行使しないのは、自分には実力がないから、に他ならないのです。

つまり、どの候補者も被選挙権を行使し、議席を争いうる存在だということです。

もちろん、議席を争いうるほどの実力をもたない者も立候補できます。

そういう候補者には、「投票をしない」か「議員として育てよう」という選択になるでしょう。

「非選挙権を行使しなかった私は、誰かに投票することで、政治を信託する責任がある。」

ここで、「責任」はもちろん、法的で義務的な責任のことではありません。

たぶん、権利の行使には、なんらかの形で責任が伴っているのでしょう。

裏を返せば、

「投票に行かない。」という選択は、

「日常的に政治にかかわることを表明する」ことに他ならない。

「私は投票にもいかないし日常的に政治とかかわることもしない。」、というのは、

単なる「子供のわがまま」だということです。

私は、自分の「幸福を追求」していくことが肝心だと思っていますので、

投票に行ってきましたよ!

ということで、今回はここまで。

最後までお読みいただいありがとうございました。


 







2015/01/29 19:38:04|研究
変わった自己分析をしてみる。
お久しぶりです。

本日は、図書の分類法を、自己分析に使ってみたいと思います。

用いたのは、「日本十進分類法」です。

1次区分の各項目の中で、最も興味を引いた分野、あるいは過去に興味を持った分野を、

3次区分の名称をつかって一つだけ挙げるというルールで、いわゆる自己分析をします。

以下のような結果になりました。

0.読書、読書法         (総記:図書館・図書館学)
1.精神分析学          (哲学:心理学)
2.古代ギリシャ         (歴史:ヨーロッパ史・西洋史)
3.民法                         (社会科学:法律)
4.科学理論・科学哲学       (自然科学:自然科学)
5.情報工学                    (技術・工学:電気工学・電子工学)
6.郵便・郵政事業             (産業:通信事業)
7.芸術史・美術史             (芸術・美術:芸術史・美術史)
8.文法・語法                   (言語:英語)
9.箴言・アフォリズム・寸言   (文学:日本文学)

以下、検討結果です。

〇読書、読書法については、読書に多くの時間を費やしてきたことを理由にします。
 読書法ばかりでなく、効果的・効率的な勉強法には興味がありますね。

〇精神分析学については、結局、歴史を考古学者のように探究するところがあるので魅かれたのではないかと思う。

〇古代ギリシャは哲学の起源であり、ソクラテス・メソッドには、教育の本質があると思う。

〇民法はわかってくると楽しいね。

〇科学理論・科学哲学は、科学的知識を応用することよりも、要するに「科学とは何か」を知りたい人には興味がわくに違いない。

〇情報工学については、情報学を学んだために関心がある。

〇郵便・郵政事業については、情報工学に興味をもったせいで、興味をもった。

〇芸術史・美術史には、歴史の展開に必然性を感じることができる気がするので好き。

〇文法・語法は、大学受験時代にひたすら取り組んだ分野です。

〇箴言・アフォリズム・寸言は、昔から好きだし、ツイッターとの相性も良い。


自己分析の結果

結局、「本質」や「普遍性」に魅かれ、「単純」であることを好み、
「時系列」で記憶に留めることが得意なのではないかと推察されます。
 







2014/11/23 0:14:09|研究
問題が問題なのだ。
「その人が問題なのではなく、問題が問題なのである。」

という言葉は、ナラティブ・セラピーの本には、たいてい記してある。

このフレーズを私なりに解釈しなおすと、以下の様になる。

「その人の心理が問題なのではなく、歴史的問題・社会的問題・文化的問題・政治的問題・経済的問題などのもろもろの問題が、解決すべき問題(課題)なのである。」

これを逆にすると、自己責任論になる。確認のために逆の解釈にしてみよう。

「その人の心理だけが問題であり、歴史的問題・社会的問題・文化的問題。・政治的問題・経済的問題などの諸々の問題は、(その人にとって)解決すべき問題ではない。」

これは、まさに権力的な言説であると言わざるを得ない。

例えば、NEETの問題も、イギリスでは社会的・経済的な問題として把握するのに対して、日本では、若者の心理の問題として片付けられ、ひきこもりと同様に、犯罪者予備軍のレッテルを貼ることで、社会問題化されました。

もし、「問題が問題なのだ。」という言葉を知識として持っていたならば、「自己責任論」という、本当は、株の運用で損失を出したことについてその責任は投資をした自分で引き受けるべきだぐらいの意味合いだけで使っていればいい言葉を、社会のあらゆる領域に適用する愚行を犯すことはなかったに違いないのです。

文句を言っているだけでは埒があかないので、NEET(若年無業者)の問題を、心理という内在の問題から心理以外の外在の問題へと再設定しましょう。

(この試みは単なる責任転嫁として評価されるべきではありません。

自己責任論は、他の主体の「無責任論」であることに注意してください。

つまり、権力側の無責任と責任転嫁が既に存在していることを、まず認識してください。

もちろん、個人にも責任は分有されるでしょうが、その責任は、限定され明確にされる必要があるでしょう。)

若年無業者はどうして生じるのでしょうか?

経済的には、需要と供給という言葉で考えることになります。

求人という需要が旺盛であれば、そもそも問題になりません。一つには景気が良くなかった。

そして、採用する側が設けた条件が厳しすぎた。

即戦力となる人たちを若年者からは見付けられません。

そもそも若年層は潜在能力で評価されるべき対象でした。それを顕在している能力だけで判断しようとしてしまった。

まとめると、学生に対する求人需要が弱く、採用条件が厳しすぎた。また、企業側に未経験者としての若者を雇用するほどの経済的な余力がなかった、あるいは投資環境になかった。

ということができます。

次に、政治的な問題を見ていきましょう。

政治は、主として雇用者と被雇用者の間に定めるルールを定める場です。

ここでは、労働者派遣法というのを考えなければなりません。

必要なときに必要なだけ必要な間雇用できるようにすることを隠れた目的としているこの法律は、若者に安定した生活を保障しないという犠牲を若者に要求します。

このような労働環境は、労働市場への新規参入者である若者を中心に広がっています。

もちろん、投票に行かない若者が悪いのだ、という言説があります。

しかし、この言説は、地方では、若者が都会を目指して働きにでてしまう傾向が顕著であり、少子化と共に、上の世代には、絶対的に数で敵わないことを見落としています。


長くなりましたので、続きは後で。




 







2014/11/02 21:49:04|研究
クライエントの怒りとカウンセラーの仕事
お久しぶりです。

本日の研究テーマは「クライエントの怒りとカウンセラーの仕事」です。

さて、怒りはネガティブな感情として理解されており、単純に悪者扱いされています。

最近は、職場にある感情も「やさしさ」を基調としており、上に立つ者が下に配慮することが当たり前になってきているようです。

そのため、職場で怒れる人というのは、絶対数が少なくなり、珍しい存在となりました。

それは、確かに良い側面ではありますが、一方、困ったことに、怒ること自体は一種の「私秘性」を帯びてしまい、人によっては、怒ることは恥ずかしい行為だと感じるようになっています。

でも、人というのは当然生きている限り不完全なものですし、守りたいものや大事にしているものが当然あるので、「怒り」が絶滅するようなことはありません。

言い換えれば、今の社会では、怒りが「伏在」し、見えずらくなってしまっています。

怒りを攻撃性の別名とするならば、外に向かわない攻撃性は、必ず自分に向かってきます。

これが、攻撃性が内向するという状態であり、精神を病む原因にさえなるのです。

そうした状態から開放されるには、何らかの方法で、外に負のエネルギーを放出しなければなりません。

しかし、他人を傷つけたくないばかりに、自分の感情を犠牲にすることを習い性にしてしまっていては、相手も守り、なおかつ自分も守る方法を実践することは難しいです。

つまり、人間関係を練習する場が必要なわけです。

でも、自分の感情に蓋をしてしまった人は、自分が何を大切にしているのかすら分からなくなってしまっていますから、何を主張すれば自分を守ることになるのかすら、分からなくなっています。

ところが、怒ることで、自分は何を大切にしているのか気が付くことができるのです。

傾聴によるカウンセリングは、精神病に対して有効でないどころか有害ですが、

もしあなたが、カウンセラーの立場にいるならば、クライエントを怒らせることは、意味があるはずです。

ペーパーによる自己診断よりも、怒らせることによって人格の輪郭をはっきりさせるほうが、クライエントの自己理解は進むはず。

つまり、わざと怒らせて、相手の本音(大事にしていること)を引き出すのです。

カウンセラーはクライエントをとことん怒らせて、とことん怒られましょう。

報酬を得るために甘んじて罵倒され、蔑まされ、呆れられ、飽きられ、馬鹿にされるのが、仕事です。

これまで、心理職はきれいごとでない出来事をきれいごとの振る舞いでごまかしすぎていたきらいがあります。

2人の関係には、遠慮のない感情的な言葉の応酬がなければならない。

そして、敬語や社交辞令をオフにできる近しい関係だが、性的な結びつきを持たない存在でなければならない。

つまり、クライエントがカウンセリングを受ける行為とは、

「一時的に報酬を支払うことで、一時的な親友を得る行為」に他ならないはずなのです。

それは、もちろん一時的な利用であるからこそ社会的に許される存在なのです。

つまり、本来は、とてもかっこ悪いし辛い仕事のはずなのです。

以上の考察から、うつ病患者に対してカウンセラーが無力かつ有害であるのは、

彼らが、傾聴・共感・自己一致を金科玉条を掲げて、思考停止に陥り、

クライエントに対して本当に何が有効な方法であり手段なのかを考えていない結果だと思います。

自分の仕事が本当は何なのか分からないのは、専門家として失格であり、

恐らく社会人としても失格です。

以上は、私の個人的な考察ですので、社会一般の常識・通説とは異なる点があります。

従って、真に受けることも、批判的に受け止めることも、どうぞご自由になのですが、

是非、ご自分の頭で考えてみてください。