アポロ行政書士事務所

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2017/06/30 21:34:33|研究
当事者研究してみる。
本日、2つ目の投稿です。

突然ですが、当事者研究をしてみます。

というのも、

明日、当事者研究をデモンストレーションしてくれ、

という依頼がありましたので、応じることにしました。

当事者研究の紹介はこの投稿ではしません。

では、早速、当事者研究を始めたいと思います。

さて、現在、抱えている問題は何か?

などと、問われて、即答できる人は少ないと思います。

それは、単に幸福だからという場合は多くないでしょう。

多くの場合、問題が見えていないだけなのではないでしょうか?

こういう場合、不愉快だが人に指摘されたことがあるか、

思いだしてみることが必要です。

私は、職場の上司に「人に興味を持て」と言われたことを思い出しました。

その時は、派遣会社で、派遣さんを管理する上司の補佐という立場でした。

なので、人に興味を持つことが高度に求められる仕事ではあります。

しかし、私は、そうした要求に十分に応えることができず、

その職場を去ることになりました。

さて、人の悩みのすべては人間関係の悩みである、

などと主張する精神分析家がいますが、

確かに、

人間関係が少なければ、それだけ心を煩わせることは少ないでしょう。

「人にあまり関心を抱かない」ことは、

心の平穏を保つにはメリットが見いだせるということです。

しかし、それは俗に塗れない生き方をしていることと同じです。

出家している僧侶なら、そんなあり方も許されるかもしれません。

が、俗に塗れてもなお心の平穏が保たれる人でなければ、

多くの人に認められる存在にはなれないのではないでしょうか。

人間関係からの逃避するのではなく、

より良い人間関係を築くことを諦めないこと、

そのほうが、ポジティブな生き方だと思います。

つまり、人間関係を最低限に抑えることで心を安定させるのではなく、

十分に満足できる人間関係を築きながらも心の安定を築くことこそ、

問題解決の状態像だろうと、考えます。

これまでは、人間関係を極力避けることで、こころの平安を保ってきました。

もっとも、お金を得なければ生きていくことはできませんから、

職場の人間関係を上手く保つことぐらいのことは、できていました。

(直近の職場では、通用しませんでしたが、ここでは例外扱いします。)

友達を持つこと、恋人を持つことについてはどうか?

こうした課題はただ惰性で生きている人間にとっては必要ありません。

私は、惰性で生きてきていますから、課題として認識していません。

しかし、より良く生きようとするなら、今後は課題であるはずです。

もっとも、現在でも友達がいないわけではありません。

しかし、今の友人関係には満足できないところがあります。

現実の友達関係というのは、対等であることは少なく、

とかく支配従属関係に陥りやすい気がします。

こうした支配従属関係に満足する人たちは実際は多い。

なぜなら、共通の敵を叩くという目的でまとまることができれば、

直接的に敵と対峙することは避けられるからです。

こうした集まりは、多く見られますが、お互いを手段とみなし、

決して目的としていない関係です。

味方かもしれませんが、友達ではないでしょう。

味方は裏切ることもあるし、そもそも敵の手下であるかもしれません。

結局、周りは敵だらけなのではないか、という不安に陥りかねません。

こんな状態であれば、味方を見出すことができません。

より良く生きることを実践することができず、当然、経験値を増やすことが

できないでしょう。いつまでも未熟なままです。

このような罠に落ちた実存について、適切な名前(自己病名)を考えます。

「周りは敵だらけ不安症候群パーティを組めないRPG勇者タイプ」

ここまでで、ようやく自己病名をつけるところまでたどり着きました。

次の投稿では、RPG勇者タイプの実存が辿りがちな人生シナリオを

検討してみたいと思います。

ではまた。


















 







2017/06/30 16:08:42|蔵の街ライフデザイン
明日から7月です。
久しぶりの投稿です。

今日は6月30日です。明日から7月です。

蒸し暑い梅雨が目下続いていますね。

今年も、半年が過ぎていきます。

これから3カ月ぐらいは暑い日が続くのでしょうか。

汗っかきの自分には大変な季節に突入しようとしています。

さて、時候の挨拶めいたものはさておいて、

お知らせがあります。

私ごとではありますが、行政書士を開業することになりました。

行政書士業自体は8年ぶり2回目の開業になります。

前回は、リーマンショックで意気消沈し、思わずやめてしまったのですが、

今回は、不惑の年齢も通り過ぎましたので、

生涯にわたって継続していければと思います。

振り返れば、私にとって30代から40代の今までは、激動の時代でした。

あえてここで披歴しようとは思いませんが、

そうした経験を事業運営に活かすことができればと思っています。

現在は、開業のための諸々の手続きに入ろうとしているところでして、

本格的に開業するのは8月も半ばを過ぎた頃になるのではないか、

と、思われます。

夏場の一番暑い時期で周りは盆休みかもしれませんが、

そのころにぼちぼち仕事を始めていくことになりそうです。

まあ、10年前よりだいぶ自営業者としてやっていけるだけの力は

蓄えられたと思います。

行政書士業界も、もちろん甘い業界ではありません。

ですが、商売のやり方はあるようです。

実効性のある作戦を立て、着実に実行しながら、

なかなか負けることのない、しぶとい商売をしていこうと思います。

それでは、

これまで応援していただいた沢山の皆様へ

今後とも変わらぬお付き合いをしてください。

そして、

これから応援してくださる沢山の皆様へ

よろしくお願いいたします。










 







2017/05/11 17:46:53|その他
才能論と努力論
久しぶりの投稿です。

エジソンは99%の努力は1%のひらめきに勝てない、と言いました。

その通りだと思います。

日本人は、努力すれば、なんでもできるようになると思いがちです。

こうした信念は、単なる間違いであるばかりでなく、危険でもあります。

才能も努力もベクトルで表現できるとするならば、

自分の才能の方向に合わせて、努力する方向を合わせることが、

まずは、肝心です。

ベクトルの方向が合っていればこそ、才能を伸ばすことができ、

努力すればするだけ早く、社会的有用性を獲得できるのです。

ベクトルが真逆の努力をしていれば、才能が開花するのが遅れるだけ。

では、

どうしたらその分野の才能があるかないかを推し量ることができるのか?

おそらく、それは「どの分野で探求心を発揮できるか?」に尽きるでしょう。

以下の例示は、最高レベルの才能です。

解釈の指針と条文を与えられさえすれば、ある程度、妥当な規範定立

ができてしまうような人なら、難関な司法試験でも楽勝なはずです。

基本的な仕分けのルールを知っていて、個別の会計的な事象を与えられたなら

独力で適切な仕分けを考案できるなら、会計の分野では、才能がありますね。

定義だけを与えられれば、成り立つ定理を次から次へと見つけ出せてしまう

なら、それは、数学の才能があるといえます。

駒の動かし方を覚えただけで、対戦を楽しめてしまうなら、

それは、将棋の天才です。

基本的なルールだけを覚えただけで、

その分野で成り立つ法則を次々と発見できるような人は、天才です。

学んで天才と肩を並べるくらいのことができるようになったら、秀才です。

天才は努力を必要としません。

秀才は、わずかな努力しか必要としません。

秀才は、天才を模倣してなんとか天才に近づきます。

ただ、それだけのことです。

このように独力で探求することができる分野であれば、

その分野では才能があるのです。

努力しても身につかないから、その分野では、全く才能がないのです。

あらゆる分野で才能を発揮できる人もいるかもしれませんが、

おそらく、ある程度、才能のある分野で努力をした人は、その成果を

分野横断的に発揮できる可能性があります。

であれば、才能のない分野では決して努力せず、

才能がある分野で努力したほうが、良いのです。

結論としては、短所は諦めて受容し、長所を伸ばすことに専心すること。

これに尽きる気がします。

以上です。



























 







2017/05/07 14:48:17|研究
「寄り添い」を省察する。
省察とは、反省ぐらいの意味ですが、

世の中には反省することができない人の方が多いので、

そういう人たちに立ち替わって、省察をしてみますね。

特に、福祉業界では、「寄り添い」という言葉がもてはやされますね。

いかにも福祉的行為の本質を言い表した言葉だな、と思います。

しかし、私の知る限り、この「寄り添う」という作法を

満足に身に着けている福祉従事者はいません。

人それぞれに勝手に「寄り添う」を理解している状態だ、

という認識すら乏しいから、共通了解を図るためのコミュニケーションすら

全くできていません。

各自が勝手なイメージを持って、独善的に行動しているのですから、

支援を必要とする人に非組織的にしか対応できません。

お題目を唱えれば、共通了解が生じるとでも勘違いしているかのようです。

そのためもあり、

「寄り添われた」という体験を彼らの行為から経験したことはありません。

そして、第三者として、確かに「寄り添っている」と思わせる対応を

観たことがありません。

そして、彼らは十分に省察していませんから、

支援を必要とする人への対応は失敗の繰り返しで、成長が見られません

これでは、いくら福祉業務に従事しようが作法として身につきません。

彼らは「寄り添う」とは、どういうことですか?

ということを明確に答えることができません。

応答できないということはなんの責任を果たしていないことです。

彼らは具体的にどうすることなのか、応答する義務があるのです。

それが、プロフェッショナルの道を歩み始めるということなのです。

応答できないことが職業人としての地位の低さの一端を作っています。

それは、とても残念なことです。

改めて、「寄り添う」について、必要な能力は何だろうか?

それは「人を愛する能力」にほかなりません。

したがって、

資格を取得するための知識からはそうした能力は涵養されません。

人に愛されることばかり考えている人こそ、適性がないのです。

さらに、ただ依存させることは、愛がある行為とは言えません。

愛することは技術が必要なことなのです。

だから、「寄り添い」というのは、

まず、支援が必要な人と支援する人の間に成立する「愛のある関係」であり、

それは、愛する技術が適切に応用されている人間関係の一つである。

とは少なくとも言えるのです。

もちろん、これだけでは何のことかまだ分からない。

だから、共通了解を広く深くするために、

福祉従事者は必要なコミュニケーションをとる必要があるのです。

本当に独善的な人が多くてうんざりします。

まず、「私は寄り添えていたのか?」を周りの人に確認するべきであり、

他人を寄り添えていないと中傷・批判することをやめたらどうですか?

前者は、謙虚な態度の表れであり、後者は傲慢の極みでしかありません。

スタッフは対等な関係で相互に理解できているんですか?

これらを、よく省察して実践に生かしてください。

ではまた。

















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2017/05/02 22:34:44|蔵の街ライフデザイン
生業と賑わい。
久しぶりの投稿です。

栃木市の市民活動推進センターに行ってきました。

そこで、利用者向けのアンケート用紙を渡されたので、

記入しようと思いましたが、うまく意見を出せませんでした。

そこで、副センター長と話をしました。

栃木市は「ボランティア推進」センターではなく、

「市民活動推進」センターと名乗っているが、

それなりに意味を込めているはずだ、というところから話が入っていき、

市民活動はなかなか定義が難しい、ということを確認し、

結局、特定の政治団体や宗教団体・営利団体の活動を除いた活動だ、

としか言えないのかもしれない、という結論から、

でも、一般的な経済活動は市民活動の外延を構成するだろう、

みたいな話になりました。

帰り際、地域活動が停滞したのは、自営業者が減ったことが大きな要因だろう

という考えから、生業づくりが大事だろう、という話になり、

第二ラウンドは「生業」についてだね、

ということで一旦、話は終わりになりました。

大体、高校を卒業したら、都会で働いて、親が倒れるまでは田舎に戻らないこ

とが多い地域だから、有権者としては20代、30代、40代が数として

絶対数が少なく、50代より上で地域の人口が構成されているのは、

田舎で仕事を持つことが非常に難しいからなんだよな、と思いつつ、

では、どうしたら、生業を持てるのかを考えてみたらいいんだな、

と感じつつ、「需要の見える化」で起業リスクを低減したらいい、とも

思ったね。

そして、「多様な生業」を担う多くの人たちが、「街の賑わい」を

創出するはずだ、という思いに行き着きました。

言い換えれば、

「賑わいのある街づくりは、多様な生業の担い手を育てることから」

ということが結論です。

ではまた。