思春期にある子供の心の成長にとって、 秘密を持つということは、とても大事なことである。
お互いが、お互いの秘密を持ちあい、お互いにその秘密を守ることは、 お互いが仲間であることを認識するための必要条件だとも言えよう。
秘密とは、常に取り扱いに注意が必要なのである。 秘密が粗雑に扱われたときには、驚きあきれるしかない。
誰しも過去の過ちが何かの拍子に表に出ることはあるし、 そのときに当事者が責任を持つことは当然である。
また、誰かを中傷した言葉がそのうち本人に伝わってしまい 本人の機嫌を損ねたなら、そのことに責任を持つことは当然である。
この二つのことは、すでに言動として行動として既に実現している行為である という点で、責任を問うことができるはずだ。
では、未だ実現していない行為はどう扱われるべきか。 私は、行為主体が実現させていないことに対しては、責任を問われるすじあいはないと考える。
つまり、 発言されていない言葉に対して責任を持つことはなく 行動として現れていないことに対して責任をもつことない。
もっとも、このとき責任がないとして、権利もないとすることはできない。 責任を負うことなく自由を行使することができるということだ。
通常、自由には責任をともなう。 しかし、常識的な日常を越えた領域では、人権的な保護に欠けるのである。
さて、この理論的考察に実益があるのか?
ある。
異常な事態はあるのだ。 そして、私は、その異常な事態をまさに経験したのである。
精神異常のための妄想にすぎない、と切って捨てるのはもちろん簡単だが、 誰が根拠がない話であると確認できたのだろうか。
これにて中学時代の序章を終える。 ではまた。
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