アポロ行政書士事務所

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2026/02/27 19:21:05|その他
第10話 予言された職業
私のスピリチュアル体験談第10話です。

我々の日常的な判断においては、
未来は不確定的であるもの。
時には確率的ですらあるもの。

そして、
自分の将来は、自らの選択によって自分で決めるもの

こんな意識で過ごしていることが多いと思います。

ところが、
私の場合は、将来の選択枝がほぼありませんでした。

将来、どのような職業についているのか?
中学生の私は知ることを欲してはいませんでした。
むしろ、知りたくなかったです。

おそらく、知ることによって、可能性がひどく狭められるという
不利益を被ることとなりました。

その告げられ方がまず粗雑でした。
まずこのことに怒りを禁じ得ません。
当然の如く長年の恨みを抱くことになりました。

郵便局の配達の仕事に就く。
色々な職業に就く。
複数の仕事をしている。
司法書士みたいな仕事をしている。
車庫証明を扱うことになるから警察官だろう。
公務員には筆記は通るが面接でおとされる。
小説家になる。
コミュニティFMのパーソナリティになる。

いろいろ職業については予言されていました。
そして、小説家以外は既に実現しています。

いつごろ誰が何をどのような意図をもって言ったのか
いまだに記憶しています。
(トラブルを回避するために書き記すことは控えます。)

ところで、最終的には、私はどうなるのか?

このことは職業から離れますが
書き記しておくことにしましょう。

ユートピアで生きることになる。

この最後の予言があるため、生きてこられた側面もあります。

しかし最近は、こう考えています。

死ぬまで生きないと、人生を繰り返すことになりそうだが、
それはとても退屈そうだから死ねないな、と。

しかし、
私について詳細な予言があるのは、
この私の人生が何回か繰り返されていることを示唆しているようで、
不気味でなりません。

もっとも、神様は、
私に、最高の未来も最低の未来も、その間のいくつかの未来も用意していて、
どのシナリオを私が駆動させる行動をするのか、お試しになられているとも
感じるようになりました。

だから、これからはもっと気楽に生きることにしましょう。

第10話はこれでおしまい。
ではまた。







2026/02/26 21:03:02|その他
昨日と今日と明日も。
2月も末。

3月がとても忙しいので
今月中に終わらせることは
今月中に済ませてしまおうと、
昨日と今日とよく動いた。

もっとも仕事だけで忙しいわけではない。

昨日は、スマホで確定申告を済ませた。
ところが、減価償却計算書を別途出さなければならない。
今日、税務署に持参して提出してきた。
確定申告終了。

昨日の午前中は、精密検査のために下都賀病院へ。
急激に悪くなっているわけではないのでCTなどの検査は控えた。
来年、一定の数値を越えていたら、検査することになる。
午前中が終わり。

昨日の午後は、母のスマホをauからUQへ変更した。
30分とか1時間で終了した、午後4時になっていた。

夕方以降は、FPの継続研修講座を購入し、2科目を終了した。
ということで、昨日は終了。

今日は、FPの継続研修講座を午前中に2科目終了。
税務署にいってから、本を2冊購入し帰宅。
昼間は、少しゆっくりして、帰宅。
帰宅後、FP研修を終わらせた。
FP継続研修の単位取得申請まで終わらせることができた。

いくつかの連絡業務をこなしました。

在留許可申請関係が一件
農地転用関係の連絡が一件。
支部会の研修の申し込みが一件。
その他の連絡は明日以降にします。

そして、明日。
土地家屋調査士へ連絡
法人成年後見人の職員としてさくら市へ施設訪問
在留許可申請のための書類受け取りのためのお客様訪問。
午後はおそらく、申請作業になるでしょう。

明日の夕方以降は、
他の仕事のための予習と準備ができればいいですね。

暇があったら
土曜日は百条委員会の報告会に行き
日曜日は、プライベートに使いたい。
翌月曜日は、行政書士以外の仕事です。

その後は、怒濤の3月に突入です。

本日の報告は以上。
ではまた。







2026/02/23 21:37:52|その他
第9話 聖域。
思春期の心は何かと不安定だ。

ホルモンバランスが悪いなどと
ひと括りにされて説明されることもある。

中学時代は、何かと、精神的なストレスがあった。

チックの症状は運動で能力を発揮するには大きなブレーキとなったし
表舞台に立つような目立つことをすることからも、私を遠ざけた。

中学時代は、常に暴力を振るわれることを、意識していなければならなかった。

教師からの暴力もあるし、先輩からの暴力もある。
同級生からのいじめもあるし、突発的なケンカもある。
そして、言葉の暴力は常に存在していた。

こんな状況の中で、暴力を受けずに、暴力を振るわないためには、
私に手を出したら大変なことになりそうだ、というイメージが必要だった。

今では、この戦術が最適ではないことはわかるが、
他の政治的な動きをすることは今でも苦手なので仕方がない。

結果的に、誰も殴らずに済んだ。
私が、誰かを殴ったことがあると記憶していても、
それは事実ではない。イメージである。

そして、幸いにもいじめに合わずに済んでいる。

私の味方になる人はほとんどいなかったものの
いじめに対して、中立的な立場をとる人が圧倒的に多く、
嫌がらせをしてくるのは実質的には一人しかおらず、
そいつが広く支持を集めることはできなかったからだ。

ただ、教師から暴力を受けたことはある。
ひとつだけよく覚えている。
濡れ衣を着たことがあったのだが、そのときに思いきり殴られたのだった。

ただ、教師に殴られたことががきっかけで、
私の知能指数が天才水準にあることが一部に知られるようになった。

話を戻す。
嫌がらせをしてくる人間の私への粘着は酷かった。
次第に私の心は壊されていった。

私には心が壊された人の症状が出ていた。
と、言うなら、おとなしい表現だが、本当は違う。

されたことは症状による了解できないことではなく、単なる事実である。
何らかの方法があったはずだが、私にはわからない。

この辺で話を切ることにしよう。
ではまた、







2026/02/20 19:40:00|その他
第8話 鏡の心
私は他人の心を直接覗き知ることはできない。
コミュニケーションを通して、間接的に推測するだけだ。
だから、的中することもあれば外れることもある。

この意思疎通の不完全性はなぜ必要なのか?
我々の心が未熟で不完全であるためだ。

我々の心が成熟していて完全であるならば、
意思疏通がテレパシーのような直接性を持っていても
社会は成り立つだろう。

もちろん、愛で結ばれている関係なら、直接性は望ましい。
そして、相互に直接的でありたいとも思うだろう。

しかし、心の中を一方的に直接に覗き知るということは
単なる暴力であり、許されるべきことではない。

ところで

私は敵意を持つ人間に対して敵意を持つ。
私は好意を持つ人間に対して好意を持つ。

私の心は鏡のようなもの。

私の心が醜いのではなく、
醜い心を持つあなたの心が私の心に映っているだけである。

私の心が美しいのではなく
美しい心を持つあなたの心が、私の心に映っているだけである。

だから、私を悪く言う人は、心が醜いのである。
そして、私を良く言う人は、心が美しいのである。

ただそれだけのことだ。
他人とは自分を映している鏡のことである。

ゆえに、原理的に、人は他人の心は知ることができない。
己が他人の心の状態と思ってはいても、それは己の心の状態のことである。

心の中には自分しかいないのだ。
この理を知るべし。

ではまた。
 







2026/02/20 17:21:03|その他
秘密はなぜ存在するのか。
思春期にある子供の心の成長にとって、
秘密を持つということは、とても大事なことである。

お互いが、お互いの秘密を持ちあい、お互いにその秘密を守ることは、
お互いが仲間であることを認識するための必要条件だとも言えよう。

秘密とは、常に取り扱いに注意が必要なのである。
秘密が粗雑に扱われたときには、驚きあきれるしかない。

誰しも過去の過ちが何かの拍子に表に出ることはあるし、
そのときに当事者が責任を持つことは当然である。

また、誰かを中傷した言葉がそのうち本人に伝わってしまい
本人の機嫌を損ねたなら、そのことに責任を持つことは当然である。

この二つのことは、すでに言動として行動として既に実現している行為である
という点で、責任を問うことができるはずだ。

では、未だ実現していない行為はどう扱われるべきか。
私は、行為主体が実現させていないことに対しては、責任を問われるすじあいはないと考える。

つまり、
発言されていない言葉に対して責任を持つことはなく
行動として現れていないことに対して責任をもつことない。

もっとも、このとき責任がないとして、権利もないとすることはできない。
責任を負うことなく自由を行使することができるということだ。

通常、自由には責任をともなう。
しかし、常識的な日常を越えた領域では、人権的な保護に欠けるのである。

さて、この理論的考察に実益があるのか?

ある。

異常な事態はあるのだ。
そして、私は、その異常な事態をまさに経験したのである。

精神異常のための妄想にすぎない、と切って捨てるのはもちろん簡単だが、
誰が根拠がない話であると確認できたのだろうか。

これにて中学時代の序章を終える。
ではまた。