本を買ってきました。 珍しいことではありません。 いつものことです。
「「山奥ニート」やってます。」(石井あらた著) というタイトルの本を買ってしまいました。 早速、第一章だけ読みましたが、なかなか面白い。
ニートの定義が気になる。 NEETは ノット エンプロイメント、エデュケーション アンド トレーニング の略だった気がする。
雇われて働いていない、教育や職業訓練も受けていない「状態」のことを 中立的には指している言葉だった、気がする。
ニートについては、いい加減に、マイナスなイメージを 貼り付けられてしまっているので、自分は関係ないと思いがちだが、 売れないアーティストやミュージシャンがテキトーに軽くバイトして 好きなことをやって生きているのと紙一重である。
そこで、おそらく、区別をつけるために以下の条件を勝手につけた。 なにもしないでだらだらしている怠け者がニートである。 なにかしているならばそれはニートではなく「夢追い人」である。
時間を浪費しているのが「ニート」で、 時間を投資しているのが「夢追い人」で、 時間を消費しているのが、「凡人」で、 時間をお金と交換しているのが、「労働者」で、 時間をお金で買っているのが「資本家」かな?
一応、区別してみました。 状態ではなく「身分」になってしまっています。
さて、ニートはなぜ嫌われているのか? 私には、正直わかりません。 仕事は「なくす」のが本質です。 仕事を遂行するということは、その仕事がなくなるということです。 つまり、その仕事なり職業なりがなくなって初めて仕事が完遂されるのです。 ずっと続くような仕事をしているのは、仕事をしていないのと同じです。
人間の過去の仕事の結果が蓄積された結果が文明であるならば、 文明は人々から仕事をなくすために自己展開を繰り返すことになります。 高度に文明を発達させた場合、我々にはやるべき仕事がないのです。
一方、資本主義は、 労働者が労働力(時間)を売って、自らの生活を成り立たせるように 仕向けますね。
でも、文明が発達していくと、必要な仕事が少なくなってしまいます。 供給できる時間の総量よりもやるべき仕事の総量のほうが、 絶対的に少なくなってしまいます。
もし、エッセンシャルワークだけを仕事と認める社会になれば、 ほとんどの多くの人がやるべき仕事がない状態になります。 それでも資本主義を貫くことには、合理性があるのか?
失業=死の等式が成り立たない社会を目指しているので、 どこかで、仕事をしていないことがあたりまえの世の中へと 社会がシフトしなければならないのは、論理的帰結になります。
ひょっとすると、人生の半分以上を仕事に費やさなければならない 社会はひと世代前にすでに終わってしまったのかもしれません。
おそらく、社会に必要な仕事だけを抽出して、 その仕事を解決するのに必要なだけ人員を配置した場合、 労働者として働ける人たちは、かなりの少数派になるのではないか、 と思われます。
仕事をすれば、それなりの報酬を得られて、余暇のある老後を 築くことができたり、仕事がなくても、最低限の生活が保障されているような 社会へと向かっていなかったら、我々は、仕事をしているとは言えません。
文明の発達によって、資本主義は基本的な矛盾にぶつかります。 それが、資本主義の終焉なのか、資本主義のバージョンアップなのかは、 どちらでもいいので、好みの問題かもしれませんが、重要な視点です。
そろそろ経済成長やGDPの大きさに騙されないような 豊かな生活が始まるのかもしれません。 そこに敏感に気がついているのが、ニートかもしれません。
ではまた。 |