俗に、「男は男らしく、女は女らしく」などと言われる。 「男は女らしくあってはならない。女は男らしくあってはならない。」 つまりは、単なる命令である。
実態としては、女っぽい男はいるし、男っぽい女はいる。 もちろん、男らしさも女らしさも役割に過ぎないのであるから、 第三項として排除された男らしくも女らしくもない役割もあるだろう。 大人っぽいとか子供らしいとかも一例かな。
ひょっとすると、 男らしくて女らしい(両性具有)ということも、あるかもしれない。 これは理想形で、実現できることではないのかもしれない。
さて、私は、単なる雄だと思われる。 雄であるとされれ、男であるとみなされるであろう。 であれば、男らしさを社会から要求されてきたと言える。 しかし、その男らしさとやらは、私には荷が重すぎたように思う。 どうやら私は、男らしさを身につけることに失敗したようだ。
さて、男らしさを身に着けられなかった雄がそのまま 女らしさを身につけることになるのか。 論理的には明確ではないところもあるが、 実感としては、女らしさを身につけることにはならない。 すなわち、私は女らしさを身につけることにも失敗した、ということだ。
では、単なる大人っぽさや子供っぽさを持った存在なのだろうか? しかし、長年の日本の教育で子供っぽさとしては肝心要の「創造性」が 私には失われてしまったために、私に子供っぽさはないに等しい。
では、すごく大人びているのかというと、そうでもない。 「つまらない大人。」あるいは雄ゆえに、「つまらないおじさん。」 というのが妥当な分類になるのだろうか。
おそらくそのとおりである。 どうやら現在の私の「私らしさ」には「つまらないおじさん。」ぐらいの 意味しかないらしい。
でも、将来は、「創造性を発揮したおじさん。」ぐらいにはなりたい。 何れにせよ、「男らしさ」とか「女らしさ」にいつまでも拘泥することなく、
ひとかどの芸術家のように生きていきたいものだね。 命を爆発・燃焼させないで、「生きている」とは確かに言えない。 「生かされている」だけではなく「生きる」べきなのだ。
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