人生に目標を持って、 その実現のために努力する姿というのは、 確かに、かっこいいのかもしれない。 しかし、私には似合っていないようだ。
私は、いわゆるアスリートタイプではないのだ。 それは、現在の体型からも推認できることである。 しかし、目標に向かって最短距離を猛スピードで駆け抜けることが 最大の価値を持っているのかどうかは疑わしい。
私はドリフト(漂流)することも必要だと思う。 自分の意に反して流されてしまっても、それはそれで仕方がない。 流されてしまうのが自然な物理法則なのかもしれないから そこに抗うだけが人の道ではないだろう。
さて、自分の人生は自分で作れるようだ。 しかし、作ったところでそれは、 自分の思いを実現させられただけなのではないだろうか。 そこに不満を感じることもあるだろう。
もっと自分が予め予測していないような、 すなわち、予定調和でない動きがなかったとしたら、 それは、真に人生を生きていると言えないのではないか。
などと、うだうだと考えているうちに、基本的なことを思いついた。 すべてを神様に委ねてしまうということをだ。 自分の人生の責任を神様に投げてしまいたい。
例えば、回転しない寿司屋のカウンターにいるとしよう。 私のオーダーに応じて握ってもらうことは、果たして楽しいだろうか? もし、お客だったら、寿司職人にまかせてしまうだろう。 そのほうが楽しいからだ。 もちろん、一人5000円で握ってくれと言うことにはなるが。
私が神様に対して何を犠牲として捧げることになるかは、 今のところ明確ではないが、おそらく、神様が喜ぶようなことをするという 契約を結ぶことになるのであろう。神様がしたいことを代わりにするのである。
まあ、神様に任せてしまったら楽だ。 自分の人生に責任を持たないというに等しいからだ。 神様はなにを繰り出してくるかわからないが、それは私への配慮でしかない。 私には偶然でしかない出来事は、 神様にとっては必然的な設定にすぎない。
まあ、もう46年も生きているわけだし、 今、死んでもさほど悔いはないだろう。 明日、私が生きていれば、その一日を大切に過ごすだけだ。 これから死ぬまでの一日一日を幸福に暮らすことができれば、 それは有終の美というものではないだろうか。
私がこの世からいなくなることに、 あまり大きな意味はない。 それは、一波の波が母なる海といずれ同化するだけ意味しかない。 何事でもない。 私にとっては一大事ではあるが、世界にとっては些事である。
これから実践すべきは「愛すること」であり、 「愛されること」に執着するのは一切やめよう。
たとえ愛されなくても愛するだけである。 それでいい。
ではおやすみ。 |