アポロ行政書士事務所

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2021/05/10 11:27:42|ライフデザイン
朱に交われば赤くなる。
なぜ、私の気分が不安定なのか?

それは、日本人の意識が狭いからです。
それは狭量といい換えてもいいでしょう。
ようするに器が小さいのです。

したがって、そんな日本人ばかりいる日本にすんでいれば
意識を広く保つことも難しいのです。
上下運動に例えるならば、落下の法則にしたがってしまいます。
簡単に落下します。
自分が、意識の拡張をなす体験をしたことすら忘れてしまいます。

でも、ふとした時に思い出すので回復します。
その結果、落下したり上昇したりしているのです。
ゆえに、気分が不安定になります。

日本では器が小さい人のほうが小さく成功するみたいです。
しかし、やはり器が小さいので大きく成功する人はいないようです。
その結果、全体としてみれば、不景気になります。
経済成長しないのは当然です。

日本に元気がないのは、器が大きい人のほうが
経済的に苦境に立たされている面があるからです。

日本の常識は世界の非常識
確かに、そう言えるところがあります。
意識が狭すぎて世界標準の意識に到達していません。

ソロ活動が増えるのも必然です。
大体、意識の狭量な人と接していても
疲れるだけですからね。

まあ、少ないですが、意識が高い人も周りにいるので、
その点では救われています。

やはり、日本で意識の拡張をしている方は全体としてみれば圧倒的少数です。
圧倒的少数なのは寂しいですが仕方ありません。

関わらなくていい関係はなるべくフェードアウトしていきましょう。

ではまた。







2021/05/09 23:45:05|ライフデザイン
怒りはなぜ必要なのか。
さて、子供は幸せだ。
なぜか。
それは、感情をそんまま表現するからだ。

生活する中で常に喜怒哀楽を感じているわけだ。
ネガティブとされる感情もポジティブとされる感情も
特に分別なく体験しているのである。

実は、これが大人になるとなかなかできない。
おそらく、知識が邪魔をしているのである。
知識が感情的なエネルギーに変な制御をしてしまう。

大体、大人になってからである。
幸せになりたいなどと願うのは。
子供はちがう。
幸せの只中にある人間はいま幸せであることにすら気がつけないのだ。

大人になってからわかることだが、
子供のころは、本当に幸せでしかなかったのだということだけだ。

もちろん、子供といえども成長過程にあるわけで、
思春期になると、途端に内向的になり不幸せになったりする。

性的なエネルギーが活発になってしまうことも、
自分の行動を抑制することが常に正しいことだと認識させられてしまう原因だ。

もし、思春期に、友人たちと性的な話題を避けるような関係しか
築けないのであれば、大人になった後に、精神的に苦しむことになるだろう。
もっと、性的な話題も素直な気持ちに沿って表現できるようでありたい。

さて、怒りの感情はなぜあるのか。
もちろん、私見になるが、それは、自分らしさと関わっている。
実は、人が何に怒りを感じるのかは、意外に共通していない。
だから、なにに怒りを感じるかによって、自分が何を大事にしているのか
自分の怒りと対話すれば分かってくるのである。

怒りを感じないということは、
私は何を重要な価値としているのか分からなくなるのである。
そして、だいたい怒りのエネルギーを拒絶している場合、
ポジティブなエネルギーとされる喜びや楽しい感情もなくなる。

感情の起伏が少ないということは一見、大人になることに見えるが、
実は、幸せであることからは遠ざかっているのである。

まず感情があるべきなのだ。
その後で、自分の認識に気がつきたければ気がつけばいい。
そして、問題とするならば、認識・認知を変えればいい。
ここで認識とは自己認識のことである。
もし、自己認識を幼いと判ずるならば、もっと社会に適合的な
自己認識に修正すればいい。
ただそれだけだ。

ただ、感情を失ってしまうと、きっかけもつかめないので、
自分を変える事はできない。
もちろん、変えるとは、
もっと自分らしく振る舞えるようになるということだ。
それは、人間関係の調整ということも含むものであっていい。

怒りは表現したほうがいい。
内向させないほうがいい。
内向すると鬱になるから。
聞く話だと、がんになったりもするらしい。

では、怒りをそのまま表現できるかと言うと、むずかしい。
人間関係が簡単に壊れてしまうだろうから。

しかし、自分が怒りがあっても我慢するばかりではいけない。
だから、上手く表現するという方法があるだろう。

その方法は、各人が上手く編み出していくのがいいだろう。
怒りの表現であってもそこは個性を発揮できるといいですね。

まとめると、怒りは、自分とはなにかに気がつくためには、
必要な感情なので、もっと怒りを感じていいし、表現してもいいですが、
表現するなら賢く表現できたらいいですね、ということでした。

最後に、カウンセリングの場で怒りを誘発させるような
カウンセラーがいたとしたら、案外、優秀かもしれませんよ。
なぜなら、お客さんをお客さんとして扱ってないからです。
それって、変な話、正しいのです。

気持ちよくさせるだけがカウンセラーの仕事ではない。
まあ、ウケない話だからこのへんでやめましょう。

本日はこれまで。
ではまた。
 







2021/05/09 22:04:05|ライフデザイン
変化
ニーバーの祈りはこんな感じですね。

変わらないものを受け入れる落ち着きと
変えられるものを変える勇気と
2つのものを見分ける賢さをください。

うろ覚えなので、正確ではないかもしれません。

私は、人の本質は変わらないと思います。
結局、私らしさからは抜け出せないのです。
私が私を観察した限りでは、
私らしくないことはできませんので、
私らしくない私に変化することはできないようです。

では、何ができるのか。
おそらく、自分らしさというものを出すか出さないか。
自分らしさで人生を勝負するかしないか、ということが
できるできないの決断点になります。

言い換えれば、モードをチェンジすることができるだけ。
自分らしさを隠して生きていくのか、
自分らしさに基づいて、何事も行動していくのか。
つまりは、行動を変えていくことだけです。

行動を変えることが大事です。
しかし、それは、自分らしさをより表現する
あるいは表出するという線に沿って行動することに過ぎません。

変わらないものを受け入れることは、
受容するということです。自己を受容すること。
それは駄目な自分に目をつぶったり、叱ったりすることではなく、
あるがままに受け止めて愛することでしかありません。

その自己受容をすすめるには、
他者を愛すること、なかんずく、共感して接することが必要です。
共感は人のためならずで、
すべては自分を愛することができるようになるためです。

自分を出していくこと。
それは勇気のいることです。
必ずしも、社会なり世間なり、身近な人なりに
すんなり受け入れてもらうことばかりではないでしょう。
そこには、軋轢(コンフリクト)があって当然です。
しかし、その衝突を避けてばかりではいられないのです。
衝突を避けてばかりいては、自分の領域さえ守れないのですから。
つまり、自分が他人に支配されてしまいますからね。
自分は自分だとしていいのです。
だから、自分にマウントしてくる人間など跳ね返せばいいのです。

私は、怒りを隠して生きてきましたが、
これからは、多少、殴り合いになっても、
自分の意志を押し通すことにします。
怒りを隠しても具合が悪くなったり、健康を害するだけですからね。

今後は戦闘モードになります。
それが、どうも生きる意味を噛みしめることにつながるようです。
それは、はたから見れば滑稽かもしれません。
しかし、滑稽ぐらいでいいのです。

人生など全体としてみれば喜劇なのですから。

​​​​​​​本日はこれまで。​​​​​​​
ではまた。
 







2021/05/09 1:23:22|ライフデザイン
やる気なし。
私の人生に特に価値はありませんが、死にません。
将来に対してやる気もないですが、死にません。
寿命まで生きるのが望みです。

何故かわかりませんが、自殺しようと思ったことはありません。
もちろん自殺するだけの勇気はありません。
だからといって、前向きに生きるための勇気があるわけではないのです。

惰性で生きれてるだけです。
それは、私の力ではないでしょう。
大体、私の力ではこれまで生きてこれてないでしょう。

なぜか生きてこれました。
まあ、様々な形で愛を受けてきた結果です。
それをいくらかでも返していけるのが望ましいでしょう。

ただ、繰り返しになりますが、かなりやる気をなくしています。
成長しようという気持ちが湧きません。
それは、もう成長する余地がないからではなく、
ただ、成長するのがめんどくさくなってしまったということに尽きます。

かつて聞いた予言では、将来はユートピアに住んでいるらしいです。
もちろん、それが日本がユートピアになるということを意味していれば
万々歳ですが、そうではなさそうです。

予言を運んできた人間が嫉妬しているのですから、
少なくとも嫉妬している人間はユートピアに住むことはなく、
その人間は日本人ですから、ユートピアは日本ではなさそう​と結論します。

もちろん、外国で成立するということはありそうですが、
そんな外国に私が入国できるかどうかは怪しいので、その線もないでしょう。
どうやら、死後の世界を指しているようです。

死後の世界として用意されているのは渡しの場合はユートピアだそうです。
じゃあ、死んじゃえばいいじゃん、と思うかもしれませんが、
どうも今生に未練があるとなかなか死なないみたいです。
そもそも20年前は生き返って戻って来てしまいました。

人生の目的のハードルを非常に下げたため、
ある意味では、すでにその目的は達成されたのですが、
なぜか目的を達成したあとも長い残り時間があるのだな。

長い余生になっていますが、残り時間は本質的には暇つぶしです。
本当は楽しむことに専念すればいいのでしょう。
では、何をするか。

私は、これまでの人生で人と出会っていない気がしています。
人間に遭遇していないのです。
もちろん、知り合いは沢山いますが、人間に遭遇していないのです。
それは、私が薄っぺらな人間であることに起因しています。

薄っぺらい人間のため、人間理解も薄っぺらいことになっている。
そのように判断しました。
人というのは、他人に自分の姿をみているだけなので、
本質的に他人に出くわすことはできないのかもしれませんが、
他人は現に存在しているのです。

共感ということを意識するようにしました。
私は、ようやく人生のスタート地点に立てたようです。
しかも、まだ、ようやくスタートの合図が鳴らされたばかりのようです。

人間に遭遇して死にたいものです。
そのためには共感力だけは磨きたいと思います。
なぜ、人間に遭遇したいのか?
それは、私がまだ人間でないからかな。
早く人間になりたいものです。
もちろん、私は妖怪だと主張しているわけではありません。

現段階のわたしは人間として成長する種がないのと同じですね。
種がないのは成長以前の問題です。

オリンピックのトーチキスのように、
誰かから私の心に火を灯すような行為がなければ、
自分の火を灯すことができなくなっているのかもしれません。

情けない限りですが、
やっぱりやる気がないということでしょう。
あたかも火が灯されているように振る舞うことはできるかもしれませんが、
持続できそうにありません。

まあ、暫く燻っているしかないようです。
ではまた。
 







2021/05/07 19:03:41|ライフデザイン
共感を学ぶ。
カウンセリングを受けることにした。
というより再開する。
再開にあたって、明日、インテーク面接がある。

インテーク面接を通して、カウンセラーを選ぶことになる。
今回で、3人目である。
前の2人は相手の都合で途切れてしまった。

まあ、影響はない。
カウンセリングの場で、私は世間話しかしていない。
何でも喋っていいらしいが、特に打ち明け話はない。

大体、神様に会っている話などしても
精神病として片付けられてしまうだけだろう。
それに、誰も信じない。

神様については何人かに話しては見たが信じる人はいない。
もちろん、信じてもらったところで、私からは何も便益を与えられない。
私は特別な能力を授かっているわけではないからだ。

もっとも、神様に会ってからは、
人生はイージーモードになったような気がする。
イージーモードに突入しているにもかかわらず、
暫くハードモードを演じていただけだ。
なぜなら、いつでもその状況から離脱できたはずだからである。

生きづらさを抱えている人とともに歩いてみたかったからだ。

今度のカウンセリングでは、共感について学びたい。
残念ながら、私に共感を示してくる人はいない。
相手はカウンセラーなのに、はっきり言って共感ができていない。
だから、私の目の前で共感を演じてくれた人がいない。

共感とはなにか。
それは、あたかも相手の目で見て、相手の耳で聴いて、
相手の心を用いて相手の状況や相手の感じている感情を体験する
行為だと言えるだろう。​​​​​​

一言でいえば、「愛」である。
愛を示すということだ。
想像の中で一体化するということに等しい。
しかし、私は、今までの人生の中でこれまで目にしてきたことがない。
噂に聞くだけの幻の行為である。

かつて産業カウンセラーを取得しようと学んだものの、
私は合格することがいまだできない。
通算で4、5回、試験を受けたはずだ。

実は、産業カウンセラーの資格取得は、
人によっては運転免許証の取得よりも簡単である。
普通の人なら合格できる。

私は普通ではないらしい。
頭が良すぎるのが駄目らしく、
気に入らないようだ。

特に行政書士であることも気に入らないらしい。

それに、試験監督者は受からせる気がないようだ。
少なくとも今の試験形式では受からないだろう。

まあ、一般の人がカウンセラーに対して抱いている振る舞いは
はっきり言ってできているみたいで、
だから、資格がなくても
カウンセラーを名乗って活動することは全然できる。

カウンセラーは無資格でできるのである。
カウンセラー資格のほとんどが民間資格で、
なんちゃらカウンセラーという名称独占でしかないことがほとんどだからだ。

まあ、共感について、
もっと虚心坦懐に理解し習得するしかない。
それだけでいい。

本日はこれまで。
ではまた。