アポロ行政書士事務所

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2021/05/27 11:34:55|蔵の街ライフデザイン
自己愛。
自己愛は大事である。
自己愛がないと人は死を選んでしまう。
私は、死んでいない、故に、自己愛は私にも存在する。

最も、自己愛が強すぎるのも問題である。
もし、自分しか愛していないのであれば、それは問題だろう。
自己愛人格障害とされかねない。

健全な自己愛を持っている状態とは、
自分を愛していない状態でもなく、
自分しか愛していない状態でもない。

健全な自己愛とはなんだろうか?
それは、ありのままの自分を受け入れることである。
今の自分の状態を許せることである。
何かを許せない自分を、それでも許すことでもある。

それは、満足を知るということかもしれない。
もちろん、自己満足にすぎないのかもしれないが、
一方で必要を満たして足るを知ることでもある。

ところが、一方で我々は成長したいと願う者である。
ただ、成長した以降も持ち続けるコンプレックスではないのかもしれない。
成長というのは自己否定を前提とするものだが、
自己否定は自己肯定感とは矛盾することだ。

成長欲求はあっていいのかもしれない。
しかし、それは取り扱い注意なのではないか。
全体的には自己肯定をしながらも、
部分的には成長欲求を持つことが、
うまいやり方なのであろう。

ところが、部分的にうまくできないことが、
全面的な自己の人格の否定につながってしまっていることがある。
この近視眼的なものの見方からは、うまく逃れなければならない。
しかし、こうした見方には陥りがちなのだけれども。

自己肯定と自己否定は字面から判断すると、
単なる矛盾であるが、それは、適用する領域を分けること
すなわち、棲み分けをさせて生きていくことが必要なのである。

さて、我々は、健全な自己愛を持つことがでるか。
実は、大変に難しいのだ。
この辺のところは、仏教が難しく解説していると思う。

まだ成立していないことや、もう成立しないことについて、
いつまでも未練をもつことも執着なのだろうが、
そのことは、不当な自己愛を持っていることになるのだろう。

うまく愛することを制御する必要がありそうです。
本日はこれまで。
ではまた。


 







2021/05/26 18:12:32|蔵の街ライフデザイン
心理的コンサルティング
どうやら、本格的に執着を手放すことができたらしく、
随分、精神的に楽になった。
つまらないことで、気に病むことがなくなっている。

今日は映画を見に行った。
昼に、シネマハーヴェストウォークの映画館へ行った。
「いのちの停車場」を観た。

栃木市の風景が映画のシーンになっていた。
いい感じに撮ってくれていた。
ありがたい話だ。

金沢の話らしい。
金沢と比較されても、違和感がなかった。
素晴らしい。

ところで、新しいカウンセリングというのを着想した。
これまでは、ロジャース派が日本では幅を利かせすぎていたが、
私は、未だに、本物の傾聴を体験したことがない。

傾聴は私にとってはなんの役にも立ちそうにないし、
傾聴体験を得ずに、心理的に楽になることができた。
その方法は、自分の感情に気がつくことを通じてというよりは、
徹底的にロジカルな方法によってである。

やはり、傾聴を中心としたカウンセリングには限界があり、
本来的に、大人の女性にしか向いていない方法なのだろう。
傾聴が上手ければ、どんな人にも通用すると考える人もいるが、
そんな力量をもった人は殆どいない。いや、むしろ、存在しない。

大人の男性で、特に知性が高い場合は、
論理を徹底する方法のほうがメンタルの改善には効果がある。
もちろん、一時的には険悪な関係になるはずだ。

しかし、精神的な不回帰点を得るには、
論理で突き進む方法のほうが優れている気がする。

ところで、認知行動療法というのがある。
その力点は、行動を変えることで認知が変わることだ
認知が変わることで、心理状態が変わるのである。

ただし、認知を直接的に変えることもできる。
それは、対話を通じてである。

それは、カウンセリングというよりは、
心の問題のコンサルティングなのだろうが、
そのほうが、男性には向いているのだろう。

そのためのツールはいくつか考案できる。
それは、他の心理療法でもある程度、使われている方法だろう。
傾聴一辺倒を善としている日本では、物珍しいだけだ。

カウンセラーを名乗ることは今後もないが、
心理的コンサルタントなら、今後名乗るかもしれない。
であれば、資格を取得する必要はなさそう。
特に、民間資格はほぼ役に立たないので。

私が活動を始めれば私の方法がスタンダードになるだろう。
ただそれだけだ。
ではまた。







2021/05/21 23:39:42|蔵の街ライフデザイン
執着(しゅうじゃく)から離れる。
今日は、よく眠っていた。
朝は早く起きたが、朝食後に横になってしまい、眠った。
昼になって、昼飯を食べたあと、横になってしまい、眠った。
ほとんど眠り倒した一日になった。

といっても、お金の請求は来ているわけで。
実は、車検があったため、支払いをした。
6万2000円と少しである。
一部、修理が入ったが、安く済んでいる。
今回は、一括で支払うことができた。

そして、税金である。
軽自動車は7,200円だったろうか。
その他に、固定資産税である。
ちなみに、実家の一部は私のものである。
そのための支払いが5万6000円ぐらいだったろうか。
去年より1割ほど安くなっている。
こちらも一括で支払うことができた。

もちろん支払いのために貯金が削られたため、なんのうれしさもない。
先月と今月は、旺盛な消費活動のために、
その月の収入から払えるはずであったが、全く足りなかった。

ペイペイで支払うことも考えたが、
基本的にペイペイはクレジットカードをキャッシングして
使っているため、やり方がわからないし、
改めて調べたくもなかったので、
ペイペイは使わなかった。
コンビニで、支払い用紙を出して払ってきた。

さて、心は落ち着いてきた。
30年以上悩まされてきた執着(しゅうじゃく)から、
どうやら離れることができたようだ。

執着とは、私への執着といったところか。
もっと正確には、輝かしい将来が約束されていたことへの執着である。
その約束は、20年ぐらい前に解約、あるいは更改されていたが、
その後、20年以上も執着の対象になってしまっていた。

ここにきてようやく平凡な暮らしをすることについての
覚悟ができたといったところか。

もちろん経済的には恵まれてはいないが、
沢山働く必要がない状態ではある。

この状態はもちろん不確定期限があるのだろうが、
わりと幸せではある。

この暇な時間が持てたことで、心の傷がようやく癒えたのである。
もちろん、暇のために、集中的に考え直すことができたからなのだ。

私はどの特定の宗教組織にも所属していないし、
今後も所属するつもりはないが、
神様が存在することは確信している。
なぜなら、神の使いの者と私は、わが肉体を共有しているからだ。

もちろん、その神秘体験は私の個人的な体験でしかないため、
客観的な証拠など、私は用意することができない。

しかし、それは、私の体験を第三者が確信することができないだけで、
私が個人的に確信することを妨げる事態ではない。

大体、私は、神の存在を証明する責任を負ってはいない。
だから、信じるも信じないもあなた次第だし、
信じても信じなくても、なんらの危害便益もありません。

私は、これまでのことを以下の如く整理した。

結局、すべては人のせいにはできない。
しかし、すべてを霊的な存在のせいにはできる。
だが、その霊的な存在には、なにか考えがあったのであろう。
その考えは、私の人生を大局的に見れば、やはり愛ゆえの行いなのだ。
ゆえに、私は、その行いの結果、生じたことを甘んじて受け入れることにした。

これまでに、なんの社会的成果も挙げられなかったが、
それは、この断固とした拒否・拒絶による不安定な心の状態のためであった。

今後は、もっと、与えられているモノを使用して生きていくのがよいのだろう。
私は、与えられたものは沢山あるのだから、それでいい。

受け入れることでこんなに気持ちが楽になるとは、
予想だにしなかったが、ようやく、執着は終着駅に降り立ったのである。

もっとも今後、新たに執着するものがでてくる可能性はある。
そのときには、もっと執着をうまく制御できるようにしたい。

でも、執着とは、愛することでもあるようだ。
だから、まだ、当分、旅は続きそうである。

本日は以上。
ではまた。







2021/05/14 17:14:32|蔵の街ライフデザイン
悩むと考える。
これまでは悩みきった人生でした。
これからは考える人生にしたいです。

悩むのは受動的な苦役でしかないようです。
考えるためには問題に直面するということが必要です。

人生には障壁として様々な問題がやってきます。
それこそ多種多様でたくさんの問題がありますね

そうした問題は解くしかありません。
そして自分らしく解決すればいいのです。

人生の問題に模範解答などないのです。
大体、その問題は、私にしか用意されていないかもしれません。

オリジナルな問題に対して、オリジナルな解決を与えるしか方法がありません。
カンニングで解けるような問題ではないのです。

大体、解けることがわかっている問題など、
解くに値しないのです。

そもそも答えがあるかどうか不明な問題もたくさんありますし、
複雑すぎて解けない、能力不足で解けない問題もありますね。

解くまでにタイムリミットがある問題もありますね。
それでも、暫定的にでも解答をしなければならないのです。

学校のテストのような問題など、人生の壁と比べれば、
解くことはとても容易いのです。

学校のテストの問題など、解くに値しないのです。
それは、だれかがすでに解いているわけですから。

自分の人生において何が問題なのか?
そして、その問題はどのような課題に分けられるのか?
そうした課題のうち、どの課題についてだけ取り組むか?
どこまで解決できれば満足(幸福)なのか?

自分に取り巻く状況をどう認識し、
どのような問題意識を傾けるのか?

解決できないなどと安直に言わずに、
どう解決していこうか?

と、思案を巡らすことでしか人生を楽しくする方法はないようです。

本日はこれまで
ではまた。







2021/05/10 22:12:13|蔵の街ライフデザイン
罠に嵌る。
私の将来を予言したり、
心の中を覗いていた者は
かつて確かにいた。

私は、望んでもいないことを
他人を通じて一方的に与えられた。
その結果、ひどく傷ついてしまった。

それは、魂を傷つけられたということである。
そのことは真実だ。
でも、そうしたのは、霊界にいる存在である。

霊界にいるのだから、とりあえず偉いのだろう。
しかし、私は、直接的にコンタクトをとれない。
どのようにコンタクトをとったのかわからないからだ。

さて、思うに霊界も一元的ではないようだ。
霊界にも階層があるようだ。
それに、天使的な存在も悪魔的な存在もある。

天使と悪魔というよりは
味方になる者もいるし、敵となる者もいる
ということにすぎないのであろうが。

確かに、頂上には、ひたすら愛するだけの神がいるのだろう。
その意味では宇宙があるといいたい。
私は、ただ愛されているだけなのだ。
もちろん、その愛を独占しているわけではないことも確かだ。

しかし、私は、この頂上にいる神とは接触はできていない、と思う。
私のところに来たのは、委任を受けた使者だろう。
それに、その使者とは、死んで再生したときから私の肉体を共有している。

どの階層から来た使者なのかはわからない。
が、とりあえず守られているのだろう。
ひどく惰性で生かされているが、いまだ不幸にはなっていない。

私は、やはり自力でいろいろと調べる必要があるのだろう。
そうしないと、これからも能動的に生きるということは難しい。

おっくうだが調べることにするかな。

はっきりいって、とっくに私の周辺を探っている人もいるのだろうが、
私に何の連絡も入れていない。理由はわからない。捜査主体もわからない。

やっと、ブログなどで言えるようになったのは、
キズがようやく癒えてきたからだろう。

もちろん、まだ治ってない。

私はわたしの人生を取り戻したい。
ただそれだけだ。

ではまた。