日本国憲法は、世界史の流れから必然的に生じてきたものだ。世界遺産とみなしてもいい。今日は、憲法記念日。戦後のこれまで、憲法はその理念に基づいての運用が十分でなかった。憲法改正の前に運用の見直しが必要だ。
憲法を含めて一義的な解釈や一律の運用を可能とする法律はできません。なぜなら、憲法の解釈を支えているのは、憲法の文言だけではなくて、背景となる国際関係や社会像・国家像が,論理学でいうところの「大前提」にあるからです。
いわば小前提となる憲法の条文の文言と、結論としての憲法解釈から推定される、いわば大前提となっている社会モデルや国家モデルは、現実をモデル化したものとは言い難い。いわば虚構である。しかし、その虚構は、未だ明文化されたことはなさそうだ。
一方、現実は多様にモデル化することができる。何を是とし、何を是としないかが、個人を尺度として相対的に決まるためだ。具体的には、イズムやイデオロギーの形で表れていると、私は考える。
いわば、整合的な虚構の数だけ整合的な憲法解釈はありうるわけだが、憲法条文体系が安定的である限りは、無制限で恣意的な憲法解釈は生じない。ゆえに、社会秩序が保たれやすくなるメリットがある。裏を言うと、社会を激変させたければ、先ず、憲法を改変させる必要がある。
まず、虚構間の対話が必要である。そして哲学的に正しいより洗練された虚構を練り上げる必要がある。ある未熟な虚構が優越するたびに憲法を改変していると、現実に生活している我々は、そのつど生活やモラルの基準を変えていかなければならなくなる。
哲学的に洗練された社会・国家モデルは、今のところ存在していないようだ。もし、存在していたら、私たちは、憲法を一義的に解釈できるはずだ。
日本国憲法は、Constitutionとしての体をなしている。未熟な国家観と社会モデルに基づいている憲法解釈とその運用のために、国民が欺かれ、ずさんな憲法というイメージが流布されているだけだ
あるべき国家観に基づいて判断された条文の解釈・運用が実現して初めて、個々の条文の是か非かを国民が主体的に判断できるのではないだろうか。その期はまだ熟しているとは到底言いがたい。
以上。
編集後記。 こうして、改めて並べてみると、論理的に首尾一貫していないところがあることに気づく。まだまだ、法律の勉強が足りないな。
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