アポロ行政書士事務所

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2010/07/07 22:50:42|研究
「帰還」としての「リカバリー」
 「リカバリー」とは、一般には「発達を伴う回復」の事です。
 
 「何からの回復なのか?」というと、「統合失調症に代表される精神病などからの回復」を意味します。

 私は、「リカバリー」を「旅からの帰還」と捉えています。

 だから、世間には、「おかえり」と迎えてほしいのが本音です。

 旅の土産話をしたいのです。しかしながら、土産物はないかもしれませんが・・・。

 もう少し、比喩的な説明をさせていただくならば、それは、海底のどこかに潜っていって、海底世界を堪能し、地上へと再び戻ってくる感覚に似ているのではないでしょうか?それは、宇宙空間から地球に舞い戻ってくる感覚と言っても同じです。

 私も、宇宙探索機の「はやぶさ」のように世間に迎え入れられたいと感じます。

 統合失調症の当事者とは、日常の生活を送りながら、または、送れなくなりながらも、意識は、無意識を旅しているの状態ではないか、とも考えられる気がします。

 そんな中にあって、帰りを待ってくれている人がいることに気がつくことが、帰る動機になるような気がします。

 絶対的な孤独の意識をもってしまった当事者は絶望の只中にいます。
 
 この病気は、孤独が生み出す病のような気がしています。

 だから、支援する人は、戻ってくることをただひたすら待つ姿勢でいてほしいのです。

 ただし、その間の絶えざる交信が必要になることは言うまでもありません。

 それは、「はやぶさ」に対して常にそうであったようにです。

 交信が途絶えても、再び、交信できるようになったように、支援者には、拙くてもコミュニケーションをとってほしい、と願います。

 そして、社会には、そうした回り道をした人たちを受け入れるだけの「しなやかさ」を持ってもらいたい。

 それは、旅を終えた人に対しても、旅の途中の人に対してもです。

 是非、当事者が「愛のメッセージ」として解読することができる信号を送ってください。
 
 当事者が「憎しみ、恨み、嫉妬のメッセージ」として解読する信号はいりません。

 以上の事は、容易に実践できることではないですが、実践する必要があることは明白です。

 さて、あなたは、当事者のリカバリーに対して何ができますか?
 







2010/07/07 19:33:04|ニュース
paperboy&co.の提供するサービスに驚く。
 夕方、NHKのニュースを観ていたら、「ペーパーボーイアンドコ」が、電子書籍の出版に絡んで紹介されていたので、ホームページにさっそくアクセスしてみた。
 すると、低額のサービスが満載されていることに気がついた。
 飲食店向けのホームページサービス(CMS)も存在していたので、興味を惹いた。
 明日、職場で話題にしようと思う。







2010/07/07 19:24:44|妻と。
七夕。
 今日も雨でした。去年も晴れていなくて、天の川を観ることができませんでしたね。
 去年の7月7日は、私たちの結婚式に来ていただいた方々に、お礼状を書いていたような記憶があります。
 本日は、カフェ巡りの一環で、宇都宮のコンセーレのある通りを少し入ったところで、夏野菜のグラタンとスコーンをいただきました。
 午後、期日前投票に行くつもりが、家でまったりと過ごすこととなりました。
 







2010/07/04 16:29:11|研究
集団的自衛権について。
 多数のプレイヤーが、互いの勢力を均衡させることで保たれているために平和の状態であれば、おそらく集団的自衛権の行使は正義に適うだろう。
 アメリカの軍事的覇権が突出している現在の国際関係の状態があり、それを覇権国が存在していると見なすならば、集団的自衛権の行使が正義に適うかどうかは、わからない。問題が複雑になるからだ。
 複雑すぎて分からないならば、集団的自衛権の行使には慎重であるべきだろう。
 
 







2010/07/04 1:28:08|研究
質問に応える講師になる。
 思えば、私は、「先生に質問をする」ということをしてこなかった。

 学生時代の私は、一方的に講義の話を聞くだけで終わっていたように思う。

 しかしながら、「質問する」という行為は、とても大事なコミュニケーションの形式だということに、今は、気が付いている。

 コミュニケーションは、双方向が望ましいのは明らかだ。

 思えば、教師から、質問することを促されることはなかった。

 だから、質問をする習慣が十分に身についていないのではないだろうか。

 そして、質問することを自重してしまっていないだろうか?

 自分で考えて、自分なりの解答を出すことを偏重しすぎていないだろうか?

 少なくとも、私は、若いころには、自分で判断しすぎるきらいがあった。

 自分の判断が批判としかとられないこともあった。

 ところで、先生は、生徒の質問に真摯に応えることが、基本的でもっとも重要な仕事ではないだろうか?

 それ以上の機能を求めることはばかばかしい気がする。

 大人の目から見れば、先生は、完璧な人間ではない。

 だから、完璧でないことを知っているならば、先生を「完璧でない」と批判することはおかしい。

 先生も成長していく存在にすぎない。先生を育てるのは、周りの人間である。そして、その中で、もっとも重要な存在が「生徒」ではないだろうか?

 先生は、生徒から多くを学ぶことができているだろうか?

 そうした謙虚さを身につけているだろうか?

 先生は、自分の専門知識でさえ十分でないことは、知っているのだろうか?

 わからないことには、分からないと応えることができているだろうか。分からないからと、ほったらかしにしないで、自分の宿題として文献を漁ったり、専門知識にもっと明るい人に尋ねたりをできているだろうか?

 すなわち、真摯に生徒に向き合っているだろうか?

 権威で、生徒を黙らせていることに気が付いていないのか?

 生徒が成長する姿をみることで、教育することに対しての情熱を維持できていないだろうか?

 これらの事を深く反省して起こすべき行動は一つのように思われる。

 生徒が、自由に、たくさんの質問をぶつけることができるような環境を作ることだ。

 そして、生徒の素朴な質問に応えることが、自分を磨くことになるはずだ。

 以上の考えに共感し、実践する教師が増えることを祈る。

 少なくとも、私は、以上の事を実践する。

 この実践が、世界を少しでもましにすることを信じて。