アポロ行政書士事務所

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2013/06/25 3:39:18|研究
ファミレスの飯が美味い!
 お久しぶりです。

 ここ最近になって、いろいろと身の回りに不幸な出来事が起きてしまっていて、すっかりブログを更新することが躊躇われていたのですが、ようやく投稿する気分になりました。

 今回のテーマは「ファミレスの飯が美味い!」です。

 宇都宮のオリオンスクエアでの催しものを拝見した後の、帰りの車の中で、滝谷町の交差点を左に曲がりながら、栃木街道は、宇都宮から栃木に向かっていく道沿いに、飲食店が左側のロードサイドに少なく、あったとしても、ラーメン屋やファーストフード店だよな、という考えが頭をよぎり、仕方が無いから、中華系のファミリーレストランにでもよってみるか、と駐車場に入るためにハンドルを左に斬りました。

 中に入ってみると、お昼時であったために大変混雑していました。待合室の椅子は満席でした。はじめは喫煙席を避けていましたが、順番を大幅に繰り上げることができたため、喫煙席を利用しました。

 餃子と半チャーハンとメインディッシュとなるものを注文いたしました。

 先ず、ギョーザが5つ出てきました。程なく半チャーハンとメインディッシュが運ばれてきました。

 「おいしい」の一言に尽きました。どういう風に美味しかったかご自由に想像してください。

 実は、この記事を書くことで考えたいことはほかにあります。

 さて、「個人の店が、ファミリーレストラン並みの美味しさのクオリティーを出しながら、低価格でお客様に提供するにはどうしたらよいか?」
 この問題に真向から挑もうとすると、かなり困難だろうと思います。

 高品質(美味しさ)かつ低価格という路線は、私が思うには、ファミリーレストランがダントツであり、他の追随を許さないほどに洗練されています。

 したがって、私が個人の飲食業の経営者であったら、ファミリーレストランのフランチャイズ店のオーナーになるという選択をすることはあるかもしれませんが、あえてそのオプションを保留にして、ファミレスを更に観察することにしましょう。

 すると、ファミリーレストランの高品質かつ低価格の軸になっているのは、客席回転率が大きいことにあるのではないかと感じます。

 このことは、お店が忙しいときには、料理が運ばれてきてから、10分や15分で食べることをなんだかお客様は急かされている気分に陥るのではないでしょうか。私は、長居してはお店に迷惑であり、後のお客さんにとっても迷惑だという後ろめたさを感じることがあります。(もっとも客が少ないときにはまったり過ごすことができているかもしれません。)

 これは、「ファースト(迅速さ)」を売りにしていることの宿命的な弱点であるとみると、これと反対のサービスを考えることができるでしょう。

 つまり、「スロー」を考えるということです。

 「スロー」であることに価値を見出すことが大切です。

 記事が長くなりましたので、次回以降の記事にまわしますが、

 「スロー」について研究をしてみたいと思います。

 今回の記事は以上です。ここまでお読み頂きありがとうございました。

 


 







2013/05/15 18:22:27|研究
みんなはひとりのために。
久しぶりの投稿です。

自民党憲法草案を読みました。

感想を申し上げます。

「ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために。」

から

「みんなはひとりのために。」

が抹消され、

「ひとりはみんなのために。」

だけが残ったのか、という残念な印象です。

「ドラえもんのポケット」は「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に

置き換えたことによって、

四次元ポケットから三次元のポケットに変質してしまいました。

憲法13条をはじめ、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と

置き換えられた条文は、すべてもとに戻すべきと考えます。

草案では、司法の存在が危うくなると考えます。

「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、全て憲法をもつものではない。」

つまり、近代以降の憲法ではありません。

国民が国家を道具にする憲法から180度転換し、

国家が国民を道具にする憲法への変質してしまいます。

私は、憲法ではないものを憲法と呼びたくありません。

あしからず。












2013/04/30 16:47:04|研究
ひきこもりは親のせいではない。
お久しぶりです。

今回のテーマは、

「ひきこもりは親のせいではない。」

です。

もちろん、明らかに親に責任があるケースもあるでしょう。

親が子供の幼少期に、虐待のための暴力を振るってしまったケースは、親に直接的な責任がありそうです。

しかし、この場合でさえ、その親が虐待家庭で育ったのであれば、本当は、その前の世代の親に問題があったというべきです。

いわゆる虐待の連鎖が起きてしまっている場合は、責任を追及すべき人が既に、弱っていたり、亡くなっていたりするのですから、不毛な責任追及になります。

余談が過ぎましたが、では、

なぜ、「ひきこもりは親のせいではない。」のか。

実は、一見、親のせいに見えるのは、単に支配的なだけで根拠が薄弱な理論のもとにおいて、問題を観てしまっているからです。

ひきこもりの本人が「こうなったのは親のせいだ。」と主張する限り、だから「ひきこもりは親の責任である。」と、真面目な親はどうしても感じてしまいます。

しかしながら、こと心理的な側面だけに着目すれば、責任があるのは厳しい言い方をすれば、ひきこもりの本人だけです。

本人は、無限に親の責任を追及しようとする傾向にありますが、

恐らく、いつの時代であっても、自分の親に無限の責任を負わせるのは極端な考えに過ぎません。

真面目な親は、無限の責任を負おうとするため、ひきこもりの状態はたいていの場合、長期化します。

しかし、これが「(長期化の)ひきこもりの親」のスタンダードでしょう。

ここまで言われてきたら、気がついてください。

ひきこもりの親は、しっかり親をやってきています。

普通の親以上に、親として機能しています。

だから、先ず、ひきこもりの親に対しては、私は先ずは激励します。

「よくぞここまで、真面目に親の役目を果たしてきましたね。」

ひきこもりの親であるという後ろめたさのためか、

「あなたは立派な親ですね。」

という社会的承認をいつまでも得られないことに、

多くの普通のひきこもりの親は病んでしまっているようです。

「親と子供の関係であろうと、互いに別の人格であること。」

をすっかり忘れていないでしょうか。

互いに別人格なんですから、

どうにもできないことは、どうにもならないし、
なるようにしかなりません。

「子供に振り回されずに、ご自身の人生をしっかり歩んでください。」

結局、くっついたり離れたりを繰り返しながらも、徐々に離れていくのが親子関係です。寂しくても仕方ないのです。

それでも、若干の責任を感じるのであれば、一度、責任を明確化してみてください。

その中に、どれだけ合理的なものがあるのか検討してみましょう。

恐らく、多くの場合、ひきこもりの原因の帰属も、ひきこもりを正当化する根拠にも客観的な合理性はないでしょう。

だから、世間の風潮でしかない、「子供のしたことは親の責任だ。」

という短絡的な責任論に、負けないで、くじけないで下さい。


















2013/04/10 8:09:40|学習塾を起業
学習塾は存続できるか?
いつもブログをご覧頂きありがとうございます。

蔵の街ライフデザインの小林宙です。

さて、今回のテーマは、「(従来型の)学習塾は存続できるか?」です。

従来型の学習塾は、知識を授けることを生業としていました。

しかし、現在の世界的な価格競争とインターネットの普及によって、

授業自体はそのプライスを大幅にダウンもしくは無償で提供せざるを得ない状況になってきています。

学校には、本質的に「資格付与機能」が付されていますから、

単位修得の認定に適度な価格を設定できますが、

営利企業たる私塾には、そうした機能がありません。

つまり、知識を授けるだけのサービスには、プライスがつけられなくなりました。

しかし、こんなことは、全くの想定内の出来事でした。

そのため、未来適応型の塾経営というのも、既に存在しています。

ただ知識を授けるのではなく、

知識を効果的・効率的に獲得することを支援したり、

学習させるのではなく、自発的な学習を促すようにコーチングしたり、

目標による管理を学ぶものに徹底し、そのマネジメントを運営担当が担ったり、

メンタルヘルスを維持するために、カウンセリングを導入したり、

生活にメリハリをつけるためにイベントを開催したり、

大人の手も交えて、理科実験教室を開催したり、

ロボット工作を通じて、楽しみながら知識を習得させたり、

と様々な取り組み既存の塾の間でもなされてきました。

それは、こうした教育コンテンツのプライスフリー、

あるいは、教育の機会均等が成立した世界が現実化することに、

塾業界の方は確信を持っていたからに違いないのですが、

顧客の意識の変化はとても遅かったので、対応が後手後手に回ってしまったことは否めないところだと思います。

私は、日本の塾業界は、緩慢な変化を望むため、あと10年かけて、こうした世界へと変革していくと思っていましたが、

もう既に未来は、はじまってしまっているのです。

ゆえに、お客様には、

従来の常識は通用しなくなりましたから、これからは、我々の役割は大幅に変えていく必要があります、と宣言しなければなりません。

それが、ソーシャルな学習塾のあるべき姿になるだろうと、私は、確信しています。

学習塾が存続できるかどうかは、この劇的な変化に見事に対応できるか否かにかかっていることは、説明するまでもないですね。










2013/04/09 23:53:39|蔵の街ライフデザイン
第6回栃木・蔵の街かど映画祭
第6回目の本年(平成25年)は

5月18日(土)、5月19日(日)の二日間に渡って開催されるそうです。

今回、このブログでは、「栃木・蔵の街かど映画祭」を話題にしてみます。

以前、映画祭には、主に当日ボランティアで参加したことがありますが、現在は、一市民として、お金を使う日にしています。

「消費者の視点でこの映画祭を捉えたときに、そこには、どのような魅力があるのか?」に、今回は焦点を当ててみたいと思います。

先ず、扱っている「商品」は何でしょうか?

祭りであるからには、「非日常的な体験」が商品であるはずです。

「消費者は非日常的な体験から何を得ることを期待しているのか?」

というと、

「明日からはじまる日常を生きていくための活力を得ること。」

が目的だと思います。

言い換えると、リフレッシュすること、癒しを得ること、パワーをチャージすることが目的です。

この目的に資するのであれば、現代的なお祭りの基準は満たしていると思います。

蔵の街かど映画祭が、この基準をクリアしているかどうかは、

私が「満たしている。」と宣言するだけではもちろん不十分ですから、

「・・・おなじ阿呆なら踊らにゃソンソン」の精神で、先ずは、参加してみましょう。

少し視点をずらして、旅には、非日常性&ストーリーが必要だといわれます。

多分、傍観者のストーリーはこうです。

「映画?蔵の中で見るの?だから何?」

恐らく傍観者は好奇心を失くしています。

少しでも好奇心のある人なら、おなじ情報を与えられたら、違った反応をするのではないでしょうか?

多分、「物語性」を発揮できないと、好奇心をそそられないのです。

集客力を強めるには、ある程度、物語を提供する必要があるようです。

しかし、蔵の街かど映画祭の良さは、

「規定の物語を用意していないところ」にあるかもしれず、

少し、悩みます。

逆に、百人百様の楽しみ方があり、百人百様の物語を紡ぐことができるところに、私なんかは、魅力を感じますね。

ところで、インターネットで「蔵の街かど映画祭」を検索しても、ほとんど情報を得ることができません。

情報を得ることができても、アクセス数が伸び悩んでいるように見えます。

個人のブログやツイッターなどで話題になっているかといえば、

正直、少ない気がします。

蔵の街かど映画祭について、語る人が少ない気がします。

ということもあり、

多くの方がこの映画祭を語れるようになるといいなと思って、

当ブログを書いているわけです。

是非、皆さんは、<私が観た>「蔵の街かど映画祭」を、

個人的な物語として編んでみてください。

私も、いずれは、映画祭にちなんだ個人的な物語を紡いでみます。

では、また。