アポロ行政書士事務所

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2013/09/27 2:00:59|研究
「たこ焼き」について考察する。
「蔵の街ライフデザイン」です。

今回のテーマは「たこ焼き」です。

「たこ焼き」について考察します。

ところで、今時のコンビニエンスストアは、

昔は「屋台」で手に入れたような食べ物のほとんどに進出している

気がします。

「おでん」は代表例でしょう。

ほかに、具体例を数え上げるまでもないと思います。

そんなコンビニエンスストアであっても、これは味がいまいちではないか、と思われるものがあります。

「たこ焼き」です。

正直、力を入れていないと思われます。

ということは、裏を返せば、商機があるということではないですか!

ということで、「たこ焼きを売ること」を考察してみます。

関西では、家で作ることが当たり前であり、買って食べることは控えているはずですが、関東では、まず「たこ焼き」を焼く鉄板を持っている家庭自体が少ないので、「買って食べるもの」という意識があります。

裏を返せば、消費量は関西に軍配が上がるでしょうが、購買量では、差は少ないのかもしれません。

ここで、宇都宮の餃子の売り方にスポットを当ててみましょう。

宇都宮の餃子は有名ですが、日本一なのは、その消費量です。

ということは、「たこ焼き」に話を戻すと、日本一を取るのは難しいでしょうが、関東一であれば、その称号を得られるかもしれない。

それは、栃木県でたこ焼き消費量が突出して多い市町村であっても、面白いのではないか。

つまり、「たこ焼き」で「まちおこし」ができるのかもしれません。

それはさておき、たこ焼きを焼く技術は、自分で鉄板を買ってきて、自分で焼いてみて、周りの人の反応をみて、ゴーサインが出ればOKなはず。

しかし、「たこ焼き」の認知度は高くても、

「たこ焼きを専業で売っている店」という認知はなかなか得られるものではありません。

だから、自営業としてはじめるなら、「移動販売」という形式で、エリアを限定しいろいろなところで売るのがよい、と思います。

初期投資を極力抑えるのです。

なぜなら、「たこ焼き屋」がこけたら自分の人生もこけるほどの大きな投資をすべきではないからです。

先ずは、テスト・マーケティングをしてみたい。

しろうとでも参入できるイベントに「たこ焼き屋」として店を出してみるというのが、いいと思います。

そこで、ノウハウも手に入れるのがベストでしょう。

安易に、フランチャイズに加盟するのはここでは論外です。

長くなりましたので、今回はここまでとします。

何かのサジェスチョン(示唆)になれば幸いです。

では、また。















2013/09/22 9:34:31|研究
良い格差・悪い格差と貧困
こんにちは。

「蔵の街ライフデザイン」です。

本日のテーマは「格差と貧困」の問題をどう捉えるか、です。

この議題で議論が混乱する理由は、

格差を容認するかしないかで対立するからです。

そこで、私は、「良い格差」と「悪い格差」に先ずは仕分けることを提案します。

「悪い格差」とは、大雑把に言えば、「貧困を帰結する格差」のことです。

反対に「貧困を帰結しない格差」を「良い格差」あるいは「容認できる格差」であると仕分けます。

貧困については単純に社会の悪であるため、善悪を判断しない立場であり、貧困については、日本社会の場合には「相対的貧困」を意味します。

資本主義が徹底され何よりも優先される社会の帰結は、1パーセントの資本家と99パーセントの貧困層が形成され、その階級社会が固定されることです。

俗に、中世的な社会が実現してしまうという話です。

貧困が連鎖し貧困層が固定される社会というのは、

「頑張った・努力したことが、経済的に報われない社会」です。

それは、頑張った・努力したことが軽く扱われることを意味します。

良い格差というのは、

「頑張った・努力したことが経済的に報われる社会」のことでしょう。

付け足すならば、階級を上っていく意思があり、上るだけの努力ができる人であれば、上っていける社会でしょう。

とりあえず、ここまで仕訳ましたが、人によって理想とする社会像が違いますので、敢えてこれ以上のことを言うつもりはありません。

何れにせよ、議論をするためは、話者間で前提となる共通認識を持つということが大事で、このような議論の端緒になることには時間をかけることが本来必要です。

従って、今回の提案も、議論の端緒としてご活用ください。

では、よろしくお願いします。















2013/09/17 20:54:51|蔵の街ライフデザイン
年間1000時間の勉強時間は確保できるか?@
お久しぶりです。

「蔵の街ライフデザイン」です。

本日は、「年間1000時間勉強すること」を考えることがテーマです。

1年間は365日で計算した時は、8760時間あるわけです。

つまり、生活の11.4パーセントを、

例えば、自分の目指す資格取得に費やすということです。

もし、一日の3分の1である8時間を睡眠に当てるとすると、

一日の起きているの時間は16時間ですから、年間5840時間は、目が覚めているわけです。

起きている時間の17.1%を費やさなければ、1000時間に到達しません。

ちなみに、1日コンスタントに3時間の勉強をするとなると、18.75%を費やすことになります。

もし、片道2時間の通勤をしているとするならば、毎日の残業を3時間程度していて、週休2日であると仮定するならば、通勤時間でしか勉強できそうにありません。

実質、英語のリスニングぐらいしか勉強できないでしょう。

土曜日と10時間、日曜日に10時間ずつ勉強できる人も中にはいらっしゃるかもしれませんが、そういう方は想定していません。

睡眠時間を削るということも想定していません。

ということは、一日3時間も勉強できる人は、かなり時間的には恵まれていると考えることができます。

やはり、収入を犠牲にするしか方法が無いんでしょうかね。

しかし、既婚者は収入を犠牲にすることを想定できません。

こうなると、正社員で働けているのであれば、仕事に専念すればいいのであり、好きな勉強は諦めるのが普通でしょう。

身体が持たないと思います。

ちなみに、月の残業時間を平均60時間と置いています。

こういう方は、今の仕事に打ち込むべきであって、転職のための保険のような勉強をするべきではないでしょう。

ということで、年間1000時間勉強する必要は無い方ですね。



























2013/07/18 21:59:45|研究
大人になるためのゲームのルール
私は今、「大人になるためのゲームのルール」を考案中です。

私は、このゲームに、「ひきこもり脱出ゲーム」という別名をつけています。

このゲームの構造は、とても単純です。

1.プレイヤーは自らルールを決め、自らそのルールを守ります。

2.プレイヤーはルールを守れたかどうかを自己申告します。

3.審判役がプレイヤーの自己申告をチェックします。

4.審判役は、プレイヤーがルールを守ったと、総合的に判断した場合に、プレイヤーに予定されているインセンティブを与えます。

5.1から4を繰り返します。

もう少しゲームのルールを具体化しましょう。

プレイヤー = 子供
審判役  = 後見人(親など)
繰り返しのサイクル = 3日間
ルールの数 = 3 〜 12個
インセンティブ = マネー
マネーの値 =(0円、500円、1,000円、1,500円、2,000円)

とします。

 まずは、このゲームのスタート時点で、「3つのルール」を子供に決めてもらいます。

 3日間をルールに従って子供に生活してもらいます。

 3日目に子供に自己申告をさせます。

 3つのルールを3日間継続して守れた場合にのみ、
 インセンティブとしての報酬 = マネーを与えます。

 最初は500円のマネーを与えます。

 そして、マネーを与えられた場合には、次のステージに進みます。

 更に新たに、3つのルールを子供に決めてもらいます。

 第2ステージでは、全部で6つのルールを守ることになります。

 第2ステージをクリアした場合には、報酬は1,000円になります。

 順に、第3ステージでは、報酬は1,500円で、
 守るべきルールは9つです。

 第4ステージでは、報酬は2,000円にします。
 守るべきルールは12個ですね。

 全てのステージのサイクルは3日間です。

 3日目に必ず審判役(=親)が自己申告の評価を軸に、
 ルールが守られたかどうかを総合的に判断します。

ただし、(ゲームの構造には書きませんでしたが、)

 子供がステージ4を連続して達成しつづけている場合には、

 審判役(=親)は、プレイヤーとの協議の上で、ルールを達成が困 難なものに置き換えることができます。

 ゲームの初期段階では、ルールは、達成が容易なものでかまいま せん。

 例えば、「毎日、朝と、夕方には飯をたべる。」とか、「起きているときには、少しの時間でいいので、親の手伝い(片付けなど)をする。」などのレベルでいいと思います。

 とりあえず、ここまでは、私が考えました。

 はっきりいって、多様なバグの多そうなプログラムではありますが、

 バグが出れば、そのたびにプログラムを修正し、最適なプログラム をカスタマイズすればいいと思います。

 小遣いを無条件に与えるのではなく、条件をつけているだけですが、ゲーム性を持たせることで、面白くなっているのではと感じます。

 無条件に無償で、なんでも子供に与えてしまうことが、子供を子供のままにして、大人への成長を阻害している、と考えるに至った場合には、このゲームの導入をしてみてください。

 ではまた!
 



 
 
















2013/07/12 17:09:05|蔵の街ライフデザイン
子供の可能性は無限大。
久しぶりの投稿です。

さて、今回のテーマは、「子供の可能性は無限大」です。

巷では、「個性」が大事だ、と少し「個性」を偏重する嫌いがあります。

そして、「集団教育が個性を殺すのだから、集団教育を撤廃しろ。」

等と軽薄なことを言っています。

「制服を廃止しろ。」などは、そうした主張から派生してきたものでしょう。

さて、日本では、個性を「その人のユニークな部分」であると理解されています。

ここでは、「ユニーク」は面白い人、ではなく、代替不可能性、「その人ならでは」、という意味です。

ところが、心理学を学ぶと、たちまち疑問が湧き出てきます。

ここでは、個性と個人を敢えて区別しないことにしましょう。

一つには、精神分析学者であるアドラーは、個人を「その人の全体性」という意味で使っており、個人を部分的に理解しようとはしていません。

それに、分析心理学者のユングは、「個性化」を中年の危機以降の発達課題として、位置づけています。

つまり、ユングに従う限り、明らかに中年以前にある子供達に「個性化」を強要することは、酷というものです。

そして、「標準から外れている部分」「変わっているところ」だけに着目した「個人」は、その個人の全体をつかもうとしていない面で、おかしいのです。

恐らく、憲法の原理に「個人の尊重」があるため、「個人」や「個性」が戦後、日本人は、ほとんど本質的な理解ができませんでした。

(だからといって、この憲法の原理を改正しようなどというのは言語道断であり、むしろ、本質的で正しい理解の下で、「個人の尊重」を語らなければならないのです!)

では、成長過程にある個人に対して、教育に携わる者(教師、親、地域の人)のまなざしは、どうあるべきなのでしょうか?

私は、子供に「無限大の可能性」を見出すことこそ、真の教育だろうと考えます。

子供の可能性への着眼と、その可能性が無限大であることへの畏敬の念こそが、必要な大人の心構えなのです。

「個性」などというのは、選択肢や可能性が十分に狭まってから、後付で認知されることでしかないでしょう。

個人と集団の対立軸だけで、個人を理解することはできません。

概して、子供や若者のほうが、潜在的な能力を多分に持っているものです。

可能性の芽を十分に植えつけてから、それぞれの芽を涵養することを学ぶのが、教育の現場であってほしいですね。

このような視点があったからこそ、経済上の日本人の強み(ストレングス)は確かなものでした。

それが、バブル崩壊以降、忘れ去られているような気がします。

残念ながら、日本人の「強み」を忘れたり、否定することが流行してしまいました。

日本経済は、まるで、「弱み」を気にしすぎて、なにもできなくなってしまった人のように不活発です。

景気をよくするためには、教育への大胆な投資こそが、求められます。

大胆な投資をしても、十分なリターンが帰ってくるインフラストラクチャーは、十分に整いつつあるのです。

「エデュケーション!エデュケーション!エデュケーション!」

子供の可能性を引き出す教育への投資こそが、今の日本に必要な政治的決断なのです。

ということで、参議院選挙が近いので、選挙演説のような文章になりましたが、私は立候補していませんので、あしからず。

以上、マニフェストなどに載せる場合は連絡ください。(冗談です。)

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。