表千家 梅月軒 茶道教室
 
長応寺

同行取材を終えた私たちは記者の方と別れ、その足で長応寺へ。


ここには、正純室の墓所がある。


なかなか出向く時間がなく、定年を機に訪れたいと念願していた場所でありましたが、やっと訪ねることが叶いました。


この寺は将軍家御台所の菩提寺でもあり、山門からも格式高いことが伺える。


しかし2月の風は冷くて身体に応えるのなんの、前日の雪が残ってないのは幸いでした。


墓所では、寺の副住職に案内いただいた。


公の命日であるこの閏月に、縁の地に足を運べたことは何の因果がかはたまたお導きなのでしょうか(笑)


誠にありがたく思います。


 








南蔵院

秋田魁新報社の方から「ご先祖にまつわる供養仏が発見された」との一報を頂いたのは先日のこと。


場所は都内の真言宗南蔵院。発見者は都内在住の家系研究家の方で、同新聞社に情報提供下さったそうです。


そこで確認のために訪れた私たちに、秋田魁東京支社の記者の方が同行取材ということで行動を共にしてくれました。現地で待ち合わせ、共に拝観いたしました。


その3体の阿弥陀如来石造立像は、本堂階段の脇にひっそりと安置されており、人の背丈ほどある供養仏には、それぞれに2代正純、3代正勝、そして4代正好の官名と没年の刻文がありました。持参した過去帳記録の控えと照合したところ一致、間違えなく3名の供養仏であると断定し、感想を述べさせて頂きました。


寄進者は石灯篭の刻文から、後に旗本として復権を許された4代正好の実弟。ただし、これらの刻文は偽装されているため憶測はつきませんが、恐らくは幕府に憚って奉祀したものと思われる。


いずれにしても、これは大発見。情報提供者の方、秋田魁新報社記者の方々に報謝いたします。


「寛永七庚牛(省略)前出羽守」


「寛永十七庚辰(省略)前氷少右京之進」


「寛永十四丁丑(省略)前下列太守上野守」








2012/02/10 17:16:00|梅月便り
利休の切腹について

利休居士が切腹して果てたのは、天正19年(1591)のこと。
よく歴史番組やドラマなどでは、利休が茶室において切腹した感じがありますよね。
私も長いこと、そうであったのかとぼんやりとイメージしていました。


しかし、史書などを読んでみると真相は聚楽屋敷内での切腹であったようです。
また単身で自害に臨んだかのようなイメージもありますが、この時、弟子の大名衆が
利休を奪還する恐れがあったために、秀吉の命を受けた上杉景勝勢が屋敷を取り
囲んでいたといいます。


切腹の際にも弟子であった蒔田淡路守が介錯人を務めているため、作法に
乗っ取って行われたようです。


これらの事から、よく話しに聞く、自身の腸を茶室の釜に掛けた話も後世の
俗説であると思われます。


また、問題の大徳寺山門上の木像の首を切り落として一条河原に晒したとする説も
実際には介錯された利休の首を木像に踏ませる形で1週間、晒したと云います。


秀吉の勘気に触れたとはいえ、惨い仕打ち・・・


「人生七十(じんせいしちじゅう) 力囲希咄(りきいきとつ)
吾這寳劍(わがこのほうけん) 祖仏共殺(そぶつとともにころす)
提(ひっさぐ)る 我得具足(わがえぐそく)の
一太刀(ひとたち) 今此時(いまこのとき)ぞ
天に抛(なげう)つ」


表千家不審庵に伝来する、死の3日前に詠んだという利休居士の遺偈。
切腹に臨んだ利休の覚悟と気迫が伝わる遺偈です。




 








2012/02/05 16:49:51|些事ブログ
FAUCHONノオテマエ

PC仕事の合間に、試飲してみようと思いまして購入しておきました。


FAUCHONのオテマエ・ド・パリ
抹茶と抹茶ラテ。


フォションは言わずと知れたフランス・パリの高級紅茶ブランドですが
やはり、デザインが洒落ている。最近CMを観てから気になっていたところです。


肝心の”オテマエ”はというと、確かに香ばしさが抹茶を頂いた後の
後味に近いですね。女性ウケしそうです。


抹茶の方は、口の中で噛むように頂くとおいしく頂けると
思いますので、一度お試しください。








2012/02/01 15:35:49|些事ブログ
ロウバイ

最近は、日没がのびてきたと思いませんか?


勤め人で、5時まで男の私には、いつもと違う
日の入りにも敏感です。


春近し・・・庭のソシンロウバイと満月ロウバイも
見頃を迎えております。


上がソシンロウバイ
下が満月ロウバイ


黄色い花を咲かせて、しばらくは目を楽しませて
くれそうです。