利休居士が切腹して果てたのは、天正19年(1591)のこと。
よく歴史番組やドラマなどでは、利休が茶室において切腹した感じがありますよね。
私も長いこと、そうであったのかとぼんやりとイメージしていました。
しかし、史書などを読んでみると真相は聚楽屋敷内での切腹であったようです。
また単身で自害に臨んだかのようなイメージもありますが、この時、弟子の大名衆が
利休を奪還する恐れがあったために、秀吉の命を受けた上杉景勝勢が屋敷を取り
囲んでいたといいます。
切腹の際にも弟子であった蒔田淡路守が介錯人を務めているため、作法に
乗っ取って行われたようです。
これらの事から、よく話しに聞く、自身の腸を茶室の釜に掛けた話も後世の
俗説であると思われます。
また、問題の大徳寺山門上の木像の首を切り落として一条河原に晒したとする説も
実際には介錯された利休の首を木像に踏ませる形で1週間、晒したと云います。
秀吉の勘気に触れたとはいえ、惨い仕打ち・・・
「人生七十(じんせいしちじゅう) 力囲希咄(りきいきとつ)
吾這寳劍(わがこのほうけん) 祖仏共殺(そぶつとともにころす)
提(ひっさぐ)る 我得具足(わがえぐそく)の
一太刀(ひとたち) 今此時(いまこのとき)ぞ
天に抛(なげう)つ」
表千家不審庵に伝来する、死の3日前に詠んだという利休居士の遺偈。
切腹に臨んだ利休の覚悟と気迫が伝わる遺偈です。