田沼町新吉水に残る吉水城碑。
昔は雑木林に囲まれていた碑も、近年の公園化で城の遺構は
失われてしまいました。子供らがボールをぶつけたり、よじ
登ったりしたのでしょう、刻文は一部、剥落している箇所が
あるため田村善吉著「栃木縣史 第七巻 古城址編」より抜粋。
延長年間藤原秀郷卿唐澤山に據るや一支城を此清水に築き清水舘と云ふ、慶長十八年その裔信吉改易せられ清水舘も亦亡ぶ、元和二年本多上野介正純封を佐野領四十一箇村四萬石を受くるに及び故墟を再興して之れに居り名を吉水城と改む、元和五年正純宇都宮に封せられ翌年此の地天領に属してより城再び廃す、爾來凡三百年殆ど其蹤跡を沒す、今や新吉水は本多氏の遺臣留りて住める虚にして、常時二十五人町と称す奥澤氏は実にその族なり、氏今此の古蹟堙滅せん事を憂へ石に勒して世に傳ふ、温故知新は人心適従する虚を教ふる絶好の指南車なり、零碎なる史蹟も活史眼を開けば則ち無償の珍と化す、吉水城の遺蹟豈に曹山の死猫兒頭なるの日無からしめ
大正三年四月一日 文学士 高田儀光撰文
実際には宇都宮拝領の後も、佐野・安蘇領は宇都宮藩領分として
城代家老の武井九郎右衛門や代官の植木伊予を、この吉水城へ
駐在させて統治にあたらせました。