秋田県横手市に伝わる「金沢ささら舞」は、今から400年前に
佐竹義宣公重臣、須田美濃守盛秀と共に秋田にもたらされた
「茂木ささら」の伝統が始まりといいます。
須田美濃守盛秀は、常陸が佐竹領だった頃の茂木城代で
佐竹公が出羽秋田に入封後は横手城代を務めます。
そして本多父子が横手幽閉中、その世話人であった人物。
そんな縁で、交流ある道鏡を守る会の佐藤様に仲介していただき
茂木の郷土史家の方たちに、須田盛秀関連の史跡を案内していた
だくこととなりました。須田家の当代の方とは年賀状のやり取り
はあるものの、秋田以前の須田家の足跡を知る機会はなかったので
仲介人の佐藤様にも同行いただき、茂木町を初めて訪れて参りました。
まずは、今回案内してくださる茂木町郷土史家の吉村先生と
佐藤先生に須田城代と茂木百騎についてレクチャーいただきました。
何とこのお二人は昔、学校の先生と生徒だったという間柄、これはすごい!
その後、茂木城址を案内していただきました。茂木城は
茂木氏により築城され、茂木氏が佐竹配下になると須田
美濃守が城代として、勇猛で知られる茂木百騎と共に入城。
本丸に続く石段
土塁の間を縫うのは整備された道ではなく、馬を鍛錬した馬場道
町を一望できる出丸からの眺めは、細川時代の町割がくっきり
東には佐竹氏、南には北条氏、西には宇都宮氏と上杉氏と常に
周りの脅威に晒されていた境遇は、郷土の皆川氏と然りですな。
次に案内いただいたのは、須田美濃守盛秀が勧請の御嶽神社
御嶽神社本殿
振り返ると先程まで登っていた茂木城址が全貌出来る
須田盛秀も慶長七年(1602)関ヶ原役の戦後処理に伴い
常陸佐竹氏に従い、茂木百騎を温存したまま秋田へ移る。
そして、慶長十五年(1610)に肥後熊本藩主細川忠興の弟
興元が入封して茂木藩を立藩するに至る。
その細川家累代の菩提寺である能持院は兼ねてより拝見して
みたいと思っていた名所。御嶽神社近くのレストランで遅い
昼食をとった後、念願の能持院を案内いただきました。
能持院(曹洞宗)茅葺屋根の総門
見えてきた本堂屋根には細川家の「九耀紋」
方丈で副住職に細川氏や一代家老であった中村勧農衛の話を伺う
いよいよハイライトである、細川家祖廟へ
何故拝見してみたいと思っていたか・・・杉でしょ!(笑)
藩公の墓標が杉の木という全国でも大変珍しい廟はここだけ。
「石塔を建てるよりも樹木を植えて有事の際、復興の役に立てよ」
との藩祖興元の遺訓から、墓石の代わりに杉を植樹したそうです。
歴代十三代の墓標杉
一代一代に杉一本が木立され、凛とそびえる
足早に紹介いたしましたが、茂木の歴史を堪能することが
できました。また須田氏と先祖正純との奇妙な縁から、今回
茂木を訪れることになったこと、先生方も言われようの無い
縁を感じたと仰せでした。私もそのように思います。
そして生憎の天候の中、またお忙しいところ時間を割いて
同行していただき、また貴重な御教示をありがとうございました。
この場を借りて御礼申し上げます。
ここで紹介出来なかった名所について、また後日談として。
「茂木百騎」とは
天正十七年、佐竹義宣公は北条氏政・氏直の常陸進攻に対処
すべく、一騎奉公の家士500騎を梶原美濃守と真崎兵庫に付け
茂木を守備させた。しかし北条氏は、この一報により進攻を
取止めた。
このことから、茂木の重要性を痛感した義宣公は、文禄四年
500騎の内から特に猛士とされた100騎を選抜し、須田美濃守
を大将として、茂木へ在番させたのが茂木百騎である。