表千家 梅月軒 茶道教室
 
2013/06/04 19:30:30|茶事茶会
初夏の社中茶会
私の教室では、定期的に社中茶会を催しています。

たまには”日頃の成果を発表してみよう”ということで
教室から出て、最寄のホールやコミュニティを借りて
いつもとは違った雰囲気で「いい意味での緊張感を味わって
もらおう」という企画です。(手狭な私の茶室では人数が
収容できないというのもありますが・・・w)

本日は市内、勤労者福祉センターの和室を席を設けました


前々日には梅雨入りが発表されたばかりでしたが早速の
梅雨晴れで、まずは一安心といったところ。

但し、蒸し暑さはあったのでエアコンを付けて
準備していたのですが、一向に冷えない!むしろ
大量の汗が!

管理室に問い合わせてみると、まだ暖房と冷房を
切り替えてないとのこと!どおりで汗かくわけです。
その後、扇風機を貸していただいたので、本日は
窓から皐月晴れの風を入れて風流としましょう。

さて、今回は初段目以上の有段者のお弟子が参加。

亭主役をローテーションで行います


普段は、一堂に会すことのない面々でもあり
なかなかの緊張感が伝わってきます。

この日のトップバッター


そうそう、お点前だけではなく水屋の準備も肝要事


社中茶会は昼食をはさみ、午後の部へと続きます。

そして、15時ごろに最後のお詰め役が正客役と次客役に
お茶を点て終了と相成りました。おつかれさま。



緊張を感じられるものでしたが、そこは有段者、大きな
ミスもなく粛々とお点前が行えていたのではないでしょうか。
こうして、他人(同門)のお点前を見ることで自分と
比較することも出来て、個々に収穫があったように
思います。また、そのように感想も貰いました。

次回は10月を予定しています。今回の緊張感や感じたことを
踏まえて、また精進していきましょう。

当教室では、これから習いたいという生徒さんを随時
募集いたしております。このようなお茶会に参加する
機会を作ってみて下さい。お問い合わせはトップページ
よりお気軽にどうぞ。







宇都宮城古写真A
今でこそ市街地化されて、かつての遺構が残っていない
宇都宮城址ですが昭和の40年頃までは、まだ土塁や水堀
などが存在しておりました。

宇都宮城址まつりでお会いする役員の方々からも「子供の
頃は、よく御本丸の土塁に登って遊びました」と、それぞれの
心に城址の面影が残っているようです。

現在も関係各所に残される古写真に、在りし日の片鱗を
伺うことができるので、少しずつブログでも紹介していき
たいと思います。


宇都宮城古写真 No.4〜No.6

城門跡(明治初期頃)


形状から、下河原門だと推察。

本丸の全景(年代不詳)


運動場として利用されていたとは。

土塁と水堀(大正14年頃)







須田美濃守と茂木町
秋田県横手市に伝わる「金沢ささら舞」は、今から400年前に
佐竹義宣公重臣、須田美濃守盛秀と共に秋田にもたらされた
「茂木ささら」の伝統が始まりといいます。

須田美濃守盛秀は、常陸が佐竹領だった頃の茂木城代で
佐竹公が出羽秋田に入封後は横手城代を務めます。
そして本多父子が横手幽閉中、その世話人であった人物。

そんな縁で、交流ある道鏡を守る会の佐藤様に仲介していただき
茂木の郷土史家の方たちに、須田盛秀関連の史跡を案内していた
だくこととなりました。須田家の当代の方とは年賀状のやり取り
はあるものの、秋田以前の須田家の足跡を知る機会はなかったので
仲介人の佐藤様にも同行いただき、茂木町を初めて訪れて参りました。

まずは、今回案内してくださる茂木町郷土史家の吉村先生と
佐藤先生に須田城代と茂木百騎についてレクチャーいただきました。

何とこのお二人は昔、学校の先生と生徒だったという間柄、これはすごい!



その後、茂木城址を案内していただきました。茂木城は
茂木氏により築城され、茂木氏が佐竹配下になると須田
美濃守が城代として、勇猛で知られる茂木百騎と共に入城。

本丸に続く石段


土塁の間を縫うのは整備された道ではなく、馬を鍛錬した馬場道


町を一望できる出丸からの眺めは、細川時代の町割がくっきり



東には佐竹氏、南には北条氏、西には宇都宮氏と上杉氏と常に
周りの脅威に晒されていた境遇は、郷土の皆川氏と然りですな。

次に案内いただいたのは、須田美濃守盛秀が勧請の御嶽神社


御嶽神社本殿


振り返ると先程まで登っていた茂木城址が全貌出来る



須田盛秀も慶長七年(1602)関ヶ原役の戦後処理に伴い
常陸佐竹氏に従い、茂木百騎を温存したまま秋田へ移る。

そして、慶長十五年(1610)に肥後熊本藩主細川忠興の弟
興元が入封して茂木藩を立藩するに至る。

その細川家累代の菩提寺である能持院は兼ねてより拝見して
みたいと思っていた名所。御嶽神社近くのレストランで遅い
昼食をとった後、念願の能持院を案内いただきました。

能持院(曹洞宗)茅葺屋根の総門


見えてきた本堂屋根には細川家の「九耀紋」




方丈で副住職に細川氏や一代家老であった中村勧農衛の話を伺う


いよいよハイライトである、細川家祖廟へ



何故拝見してみたいと思っていたか・・・杉でしょ!(笑)

藩公の墓標が杉の木という全国でも大変珍しい廟はここだけ。
「石塔を建てるよりも樹木を植えて有事の際、復興の役に立てよ」
との藩祖興元の遺訓から、墓石の代わりに杉を植樹したそうです。

歴代十三代の墓標杉


一代一代に杉一本が木立され、凛とそびえる





足早に紹介いたしましたが、茂木の歴史を堪能することが
できました。また須田氏と先祖正純との奇妙な縁から、今回
茂木を訪れることになったこと、先生方も言われようの無い
縁を感じたと仰せでした。私もそのように思います。

そして生憎の天候の中、またお忙しいところ時間を割いて
同行していただき、また貴重な御教示をありがとうございました。
この場を借りて御礼申し上げます。

ここで紹介出来なかった名所について、また後日談として。


「茂木百騎」とは
天正十七年、佐竹義宣公は北条氏政・氏直の常陸進攻に対処
すべく、一騎奉公の家士500騎を梶原美濃守と真崎兵庫に付け
茂木を守備させた。しかし北条氏は、この一報により進攻を
取止めた。

このことから、茂木の重要性を痛感した義宣公は、文禄四年
500騎の内から特に猛士とされた100騎を選抜し、須田美濃守
を大将として、茂木へ在番させたのが茂木百騎である。







2013/05/10 18:43:29|些事ブログ
壮にして学べば則ち・・・
定期的に通っては、文献や貴重書を拾遺しています。

しかし、最近は足の関節を少し痛めてしまい
その代理を意欲のある倅に委任しています。



本日はこちら


総合図書館1階洋雑誌閲覧室には

慶喜公揮毫「南葵文庫」の扁額


我が家では、徳川斉昭を「斉昭公」
徳川慶喜も「慶喜公」と呼んでいます。







2013/05/02 19:15:01|些事ブログ
長屋門愛好
今宵は長屋門の話にお付き合い下さいw

小山の下国府塚。知行所代官を勤めていた
岸家には今も当時の長屋門が佇んでいます。

栃木の田園風景百選にも選ばれている遠景


領主の許しを得て建てられた格式ある長屋門




屋敷の周りも散策してみると空堀らしきものも


中世館の遺構のあとですね。

岸家に隣接するお宅にも長屋門が


その他、下国府塚で発見した長屋門も立派!立派!




撮影がてら一帯を廻りましたが、人っ子1人出くわし
ませんでしたが・・・今も昔も、のどかだったんですね。

少し見渡せば国道50号を望めるのですが、その喧騒も
感じさせないくらい、懐かしい感じすら漂うところでした。

おまけで・・・

下国府塚と卒島の間に位置する今里地域でも発見した
長屋門たち





どれもこれも見事なものです。