表千家 梅月軒 茶道教室
 
2013/08/28 20:05:01|些事ブログ
これはすごい・・・
夏の果て。とある旧代官詰所を拝見させていただきました。

右手が母屋(ご自宅)、左手が旧代官詰所(陣屋役所)


この陣屋役所が当時のまま現存しているというのは貴重そのもの。


家主さんらのご好意により陣屋住宅にお邪魔します。


いわゆる幕府の地方官である天領の代官ではなく
旗本から、知行所の地方役所としての職務を委任
された知行所代官であり、旗本の代わりにこの地方の
地方行政を取り仕切った御代官様のこと。

ただ、自分で勝手に代官と称してたわけではなく
「代官申付ニ付」「代官役任命ニ付」というような
重要な文書で委任された、旗本公認。

我が家も幕臣身分を失ってからは、昵懇であった
旗本に乞われて、代官職を仰せつかっておりました
ので、非常に参考になる遺構なのです。

入側の杉戸も当時のまま


おっと、代官手代や村役人が控えていたであろう入側、今は猫が鎮座ですか。


縁側には猫が似合いますな。

庭園も残されています。茂みの奥にチラリと覗くは邸内の長屋門。


残暑の最中(しかも日中)でしたが、どことなく
涼しくて、古民家の構造というのは温度上昇抑制
(省エネ)の効果があるように感じました。

最近では学生の展示会に詰所が活用されたとのことです。
私も是非、社中のお茶会に利用してみたいとお願いして
おきました。

この度、ご家族様にはお忙しい最中、邸内を拝見させていただき
ありがとうございました。旗本と相給知行、旗本の家臣団構成
陣屋の様子など知る上で貴重な資料です。どうかいつまでも
保存して行っていただけたらと思います。









そのまま帰省してきます
本多大隈守忠純侯の宝篋印塔


別名を正吉とも。2代上野介正純の末弟で、兄の
正純が宇都宮領の検地を実施した際には、忠純も
共に榎本領の検地を実施。お互いの家臣らが両領分を
往き来して検地に携わったりと、兄弟仲は良好だった
ようです。

その後、大隈守家は3代で無嗣改易


栃木市の自宅から、私の田舎へ向う途中に墓所が
ありますので毎年お盆に立ち寄り、今は我が家で
香華を手向けています。








2013/08/12 20:11:00|梅月便り
ティー・セレモニー
今回は私の記事ではなく、倅が出席してきた
レセプションでのお茶の記事。

先日、栃木県とドイツの交流と親睦を司る栃木側の
窓口「とちぎ日独協会」が、県内を2日間の日程で
ドイツからの使節団を観光案内して廻ったそうです。

この日は、日光と奥日光を視察した後に、栃木市の
会場でレセプションを催す日程。

そこで、日本の茶道をドイツ人使節団に披露したいと
日独協会の役員方と仕事上のお付き合いのある倅に
オファーがあったようで、お引き受けしてお点前を
してきたそうです。

会場の様子。外国人受けしそうな金屏風前での点前ですね


涼を感じてもらえるようにと義山(ギヤマン)の水指を
チョイスしたようです。



ドイツからの使節団は20数名とのことで数茶碗を使用


残念ながら、倅が点前中の写真が撮影者不在で一枚もなく
点前後に、外国人向けにポーズをとっている写真。



ドイツ人の方々は、茶道や日本文化に興味津々のようで
質問や感想を多く頂いたそうな。たどたどしい英語で
答えるのが精一杯だったとのことですw

茶道でのおもてなしに、ドイツ人使節団の方々も
喜んでいただけたようです。このレセプションでの
お点前が茶道に親しむためのきっかけとなれば幸いと思います。



日独関係が更に深まるように、日独協会の皆様の手腕に
大きな期待が寄せられます。

そういえば、映画「男はつらいよ」で寅さんが命を助けた男
(柄本明)に半ば強引に連れて行かれたのがドイツ・ウィーンで
お決まりの失恋をして日本に帰って来た寅さんが、無意識に
口にしたドイツ語が「ダンケ シェーン(ありがとう)」
だったことを思い出しました。







ささら舞の縁から
5月に尋ねた茂木町の続き、曹洞宗塩田山能持院。
一風変わった面白い碑があったので、ご紹介。

室町時代建立の総門前にある「禁葷酒の碑」


ようは、酒とこれ(葷)を口にした者は
この山門を潜るべからずという戒めなのだが、

さて、これ(葷)とは何でしょうというのが問題。
ヒントは、今流行の二郎系といわれるラーメンを
食べた人は、潜れないかもしれません。

その他、先月ブログで紹介した史跡以外にも、吉村先生
佐藤先生に案内していただきました。

そのひとつ河井八幡宮


八幡宮は、八幡太郎源義家公が後三年の役(奥州征伐)の時に
この八幡山に通過在陣して山頂に社を祀ったのに始まるそうです。

今でも八幡宮に「河井ささら」を奉納しているとのこと


また、この八幡山は城砦を兼ねていたと説明がありました。
しかし、奥州まではかなり距離がある、この八幡山に何故砦を築く
必要があるのか疑問に思い、先生方に尋ねてみたところ、この山の
麓に渓谷があり那珂川が流れているが、当時はその那珂川より
先が、征伐の対象であった奥州であると認識されていたそうです。
いわばこの八幡山は国境の最前線基地であったというわけです。

奥州征伐で布陣した源義家が戦勝祈願に奉納させた「河井ささら」が時を経て
茂木城代須田盛秀により茂木百騎の鍛錬に取り入れられ、関ヶ原の役後
正純からの佐竹公秋田国替え請願に伴い須田盛秀・茂木百騎と共に秋田横手に
もたらされ、その横手須田城代のもとに両御所(正純父子)が預かり人となる。
こうして私たちが茂木を訪れることになった、後三年の役終決の地、金沢の柵に残る
「茂木ささら舞」に絡んだ、廻り合わせ、まさにアンビリバボーな体験をさせていただきました。







2013/06/18 20:43:05|梅月便り
正勝忌(せいしょうき)
本日(旧暦5月10日)は、先祖・出羽守正勝の命日。
当茶室にて、ささやかな献茶式で侯を偲びます。

侯26歳の頃の消息(手紙)にて


元和8年、父正純と共に最上家の居城を摂取するために
赴いた山形から酒井家の家臣に宛てた手紙です。

手紙には「江戸を出立する時に、上様(秀忠)が城外まで
見送ってくれた」「山形は何もないところです」などと
今時の若者のたわいのないメールやLINEのやり取りと
変わらない内容です。

そして末筆に一言「話の続きは江戸に帰ったときにでも」と
締め括られています。横手訪問の折、随行した長男がこの話を
披露いたしました。

ご参加の方の中には、涙してくださる方もありました


享年35。傑叟院殿雄山英公大居士