5月に尋ねた茂木町の続き、曹洞宗塩田山能持院。
一風変わった面白い碑があったので、ご紹介。
室町時代建立の総門前にある「禁葷酒の碑」
ようは、酒とこれ(葷)を口にした者は
この山門を潜るべからずという戒めなのだが、
さて、これ(葷)とは何でしょうというのが問題。
ヒントは、今流行の二郎系といわれるラーメンを
食べた人は、潜れないかもしれません。
その他、先月ブログで紹介した史跡以外にも、吉村先生
佐藤先生に案内していただきました。
そのひとつ河井八幡宮
八幡宮は、八幡太郎源義家公が後三年の役(奥州征伐)の時に
この八幡山に通過在陣して山頂に社を祀ったのに始まるそうです。
今でも八幡宮に「河井ささら」を奉納しているとのこと
また、この八幡山は城砦を兼ねていたと説明がありました。
しかし、奥州まではかなり距離がある、この八幡山に何故砦を築く
必要があるのか疑問に思い、先生方に尋ねてみたところ、この山の
麓に渓谷があり那珂川が流れているが、当時はその那珂川より
先が、征伐の対象であった奥州であると認識されていたそうです。
いわばこの八幡山は国境の最前線基地であったというわけです。
奥州征伐で布陣した源義家が戦勝祈願に奉納させた「河井ささら」が時を経て
茂木城代須田盛秀により茂木百騎の鍛錬に取り入れられ、関ヶ原の役後
正純からの佐竹公秋田国替え請願に伴い須田盛秀・茂木百騎と共に秋田横手に
もたらされ、その横手須田城代のもとに両御所(正純父子)が預かり人となる。
こうして私たちが茂木を訪れることになった、後三年の役終決の地、金沢の柵に残る
「茂木ささら舞」に絡んだ、廻り合わせ、まさにアンビリバボーな体験をさせていただきました。