栃木の語り部  栃木語り部の会

昔むかしの話を語る、栃木の語り部。 語り伝えたい話があります。昔ばなし、伝説、言い伝え・・・学校への語りの出前は60校を超えました。児童館、育成会、公民館、作業所、グループホーム、イベントなど声が掛かればどこへでも語りに出かけています。語りながら話も集めています。これからも出会いを求て語り続けていきます・・・
 
2007/08/26 8:54:31|栃木市に伝わる話
栃木市箱森に伝わる話 きつねに化かされた男・そばの花の咲くころ
    そばの花咲く頃
むかし、栃木町の西の方に住む百姓が、夕方、町でニシンを買って、馬を引いての帰り道、箱森を通りかかると、これまではなかったはずなのに、大きな川が流れているんだと。
「おかしいな、こんなところに川なんかあったべか」
と、思いながら浅いところを選んで渡っていったと。ところがだんだん深みへはまって行ってしまい出られねえんだと。水が首のところまで来てしまい、馬もろとも背伸びをしながら、「おお、深けえ、おお、深けえ」と一生懸命歩くけれど、なかなか向こう岸へ着かねえんだと。川ん中で立ち往生していた時、
「朝っぱらから何してんだい」と、声をかけられ、気がついてみたら、もう夜が明けていたんだと。

 何のことはない、むじなかきつねに化かされて、一晩中、馬をひぱってそば畑の中をぐるぐる歩きまわっていたんだとさ。

 だから、そばの花の咲くころは、夜道をするものではないといわれているんだと。

  この話は、「栃木の民話」日向野徳久著 に載っていた話だが、似たような話を都賀町深沢出身のNさんからきいたことがある。その話は次のようなものだ。

   
     きつねに化かされた話
都賀町の愛宕神社の近くに住んでいる男が、ある晩、近くの豆腐屋に油揚げを買いに行った。その帰り道のこと、夜道とはいっても通いなれた道のはずが、迷ってしまった。歩いて、歩いて、気がつくともとの愛宕神社のところまでもどってしまう。そんなことを繰り返しているうちに夜が明け、やっと家に帰り着いた時には、体中泥だらけで、油揚げもどこかへいってしまったという。男はきつねに化かされて、油揚げをとられ、愛宕神社の近くの田んぼをぐるぐる廻らされていたんだということだ。


さて、この話を聞かせてくださったNさんのお父さんが、山へ山菜を取りに行った時のこと。沢づたいに登っていって、尾根をひとつ越えてしまうと行き慣れている山でも方角を見失うことがあるそうだ。そんな時、見慣れた道まで一刻も早く引き返そうなどどあせっているとますます迷ってしまうという。そんな時は、その場で煙草を一服吸って休んでからまた歩き始めると、元の道が見つかるのだそうだ。「きつねに化かされそうになったら、その場で一服するとよい」と幼い頃、聞かされたという。
Nさんは山菜とりの名人で県内はもとより、福島、山梨までとりに行くというが、道に迷った話は聞かない。お父さんからの教訓が生きているのかと思いきや、Nさんは煙草は吸わないのだった。


さて、きつねに化かされないおまじないも伝承されている。その場でまたのぞきする。またのぞきしながら石を後ろに投げる。などである。


 







2007/07/07 8:35:37|絵本
七夕さま 湯西川に伝わる話
7月に載せた湯西川の昔話「七夕さま」を、子どもに語っても分かるように再話しました。
会話の中に、湯西川の方言を残しました。

七夕さま

むかーしあったと。
漁師が魚つりに行ったら、三人の七夕さま(女の人・天女)が水あびをしていました。そばの松のえだに、きれいな着物(羽衣)がひかかっていたので、漁師は、こそおっと一まいとって、びくの中にかくしてしまいました。そのうち、水からあがった三人の七夕さまが来て、着物を着始めました。そしたらひとりの七夕さまが
「あらあ、私の着物がないわー、私の着物がないわー」って、いいました。二人の七夕さまも、
「そんじゃ、よくさがすべー」って、さがしましたがいくらさがしても見つかりませんでした。
「さあ、そんじゃしゃあねーから、めっかったら来るように、おれら先にかえっから」って、二人の七夕様は、天竺に戻ってしまいました。のこされた七夕さまは、
「着物がねえー」って、しくしく、しくしく泣いていました。そこへ、漁師が来て、
「これこれ、何で泣く」ってきくと、七夕さまは、
「着物がねーから帰れねー」っていいました。漁師は、
「泣いてもしゃーねーから、着物が見つかるまで、おらんちさこい」っていって、、その七夕さまを自分の家につれていきました。
漁師もまだひとりものだったので、きれいな七夕さまに、よめさまになってもらいました。そのうちに、たまのような男の子が生まれました。その子が、よちよち歩くようになって、もう、しゃべれるようになった時、
「かあちゃん、かあちゃん。父ちゃんが、高い二階の中二階みてえとこさ、きれいな着物干しとくわー」って、しゃべりました。
「どれどれ、どんな着物が干してあんだ」って、上がってみると、何と自分の羽衣が干してありました。
「あーあ、この着物がめっかったんじゃ、ここさいらんねえ」って、よめさまは、むこさまに書きおきをすると、はごろもを着て、息子をつれて、天竺に戻っていきました。
 むこさまが家に帰ると、よめさまもむすこもいなくて、書きおきがありました。その書おきには、
「私に会いたければ、萱を千だん刈って、萱組みしてのぼってこい。のぼってくれば、天竺の天できゅうり畑のきゅうりの番人させられるけども、なんぼ暑くてのどがかわいてもも、そのきゅうりとって食うなよ」って書いてありました。
むこさまは、つぎの日から、一生懸命萱を刈って、萱を千だん刈って、萱組みしてのぼっていきました。
天竺につくと、すぐによめさまの家のおとっつあん、おっかさんにきゅうり畑のばん人にさせられました。むこさまは、
「まあ、あちいわ、あちいわ、かんかん日照り。頭ってば天井焼けるほどあちいの。あーのど渇く、のど渇く」
と、いいながら、きゅうり畑のばん人をしていましたが、あつくてたまりません。
(きゅうりこれほどなってんだもの、きゅうりっつば、鈴なりになってる。これほどなってんだもの、一本ぐれえとって食ったってわかんなかんべ)と思って、きゅうりを一本とりました。がぶっとかじったら、そのきゅうりからしゃあーっと水が出て、だんだん大きな天の川になりました。川をはさんでよめさまはこう岸になり、むこさまはこっち岸になり、はなればなれになってしまいました。年に一度の七月七日にいっぺんしか行き会えない、七夕さまになっちゃったんだとさ。
しゃみしゃっきり、ねこすけぽっきり。

 

七夕さま 語り部の話をテープ起こししたもの

むかしあったと。
漁師の男が魚つり行ったら、七夕様が三人して水浴びしてたと。そしたら、きれいな着物が松の枝にひかかってたから、漁師の男、一枚こそおっと取って隠しちゃったと。隠してそして、びくん中入れてかくしていたら、そのうち、水浴びが終わって三人の七夕様が来ててんでに着物着て、そしたらひとりの七夕様が
「あらあ、私の着物がないわ、私の着物がないわ」
友達の七夕様もみんなして
「そんじゃ、よく探すべ」って、探してすけたがなんぼ探してもねんだと。
「そんじゃしゃあねんから、めっかさったら来るように、おれら先二人ひっかえってから」って、二人の七夕様、天竺さ戻って、ひっかえちゃったんだと。ひとりの七夕様は、
「着物がねえ」って、しくしく、しくしく泣いていたと。そこへ、漁師の男が、
「これこれ、何で泣く」
「着物がないから帰れない」って、
「泣いても仕方ないから、着物が見つかるまで、おらんちさこい」って、そして、その七夕様連れて来たと。
 男もまだひとりものだったから、きれいな七夕様に嫁様になってもらったと。男と女のことだから夫婦になっているうちに、珠のような男の子が生まれたと。そして、よちよち歩くようになって、はあ、しゃべるようになったんだんべ。ある時、
「かあちゃん、かあちゃん。父ちゃんが、高い二階の中二階みてえとこさ、きれいな着物干しとくわ」って、しゃべったんだと。
「どれどれ、」どんな着物が干してあんだ」って、上がってみたれば、何と自分の羽衣が干してあったと。
「あ~あ、この着物がめっかったんじゃ、ここさいらんねえ」って、その嫁さん婿さまに書置き書いて、息子を連れて、
「私に会いたければ、萱を千だん刈って、萱組みしてのぼってこい。のぼってくれば、天竺の天できゅうりの番人させられるけども、なんぼ暑くても、そのきゅうり採って食うなよ」って書いてあったんだと。
そんなもんだから男は、こんだひっけえてみたれば書置きかいてあって、嫁様も息子もいねえ。はあ、次の日から、一生懸命萱刈って、萱を千だん刈って、萱組してのぼっていったと。
のぼっていって、そして、天竺さ行ったら、早速嫁様の家のおとっつあん、おっかさんにきゅうり畑の番人にさせられたと。まあ、あちいわ、あちいわ、かんかん日照り。頭ってば天井焼けるほどあちい。咽喉渇くだと。
「あ〜のど渇く、のど渇く」
(きゅうりこれほどなってんだもの、きゅうりっつば、鈴なりになってる。これほどなってんだもん、一本ぐれえとってもわかんなかんべ)と思って、きゅうりを一本とって、がぶっとかじったら、そのきゅうりがしゃあ〜っと水出たと思ったら、だんだん大きな天の川んなっちゃって、嫁様は向こう岸んなる、自分はこっちんなる、そして、川岸はさんで、七月の七日にいっぺんしか行き会えねえ、年に一度の七夕様んなっちゃったんだとさ。

これは、栗山村出身の伝承の語り手のはなしを、テープ起こししたままのものです。まだ未完成ですが、七夕の月なので載せてみました。天女と言わず、七夕様と呼ぶところや、気高い感じの七夕様たちが、栃木の方言で語り合っているところなどが楽しい話です。伝承の話はこういう素朴な形で受け継がれてきたのです。

学校での読み聞かせの時に使う絵本の七夕様では、天の瓜畑となっていますが、水が出る作物も地方によっていろいろです。

九州地方をはじめ、台風で今日は大雨です。天のきゅうりを誰かが割ったのか・・・・早く上がるといいですね。

 


さて、七夕様は芸能の神様としても知られていますが、その由来についての質問がありましたので以下に書きます。

牽牛星・織女星の伝説はやがて、機織りに励んだ織女にちなんで、唐の時代(1300年くらい前)に「機織り」「針仕事」「歌舞音曲」「詩歌文字」といった技芸の上達を星に祈る「乞巧奠(きこうでん)」という行事を生み出す。ほどなく日本へも伝わった乞巧奠(七夕)は、奈良から平安時代に宮中の行事としてとりおこなわれるようになった。一方、『古事記』には、水辺で神の衣を織り、天から神が降り立つのを待つ棚機女(たなばたつめ)という巫女の伝説が記されている。もともと“しちせき”として伝わった「七夕」を“たなばた”と呼ぶのも棚機女からきているわけである。時代が下り、泰平の江戸の世になると、七夕の行事は民間にも広がる。笹竹に短冊をかざる現在のスタイルもこのころ定着したようだ。ちなみにこれは、笹は祖先の霊が宿る依代(よりしろ)が起源だともいう。(全国七夕祭りより)

棚機女(たなばたつめ)から七夕はきているのはおもしろいですね。










2007/06/29 23:01:00|太平山に伝わる話
あじさい坂(太平山)に伝わる話 綾川石 その2

太平山の随神門を少し上がったところの、石段の右側に、綾川石と呼ばれる大石がある。このいわれには、もう一つの話が伝わっている。
 
栃木の薗部村に綾川五郎次という男がいた。江戸へ出て相撲取りになったが、なかなか芽がでなかった。けれども、五郎次はあきらめず、故郷の太平山に、強くなれるようにと願をかけた。二十一日間の丑の刻参りをするので、毎晩午前二時には、太平山神社の社殿の前に着くように家を出た。木々が鬱蒼と茂り、星さえ見えない真っ暗闇の中、石段を上がっていくのだ。満願の夜、いつものように石段を上がっていくと、ビューッという唸りを立てて、ゴロゴロと落ちてくるものがある。見ると大岩だ。五郎次は大きく目を見開き死を忘れて受け止めたところ、見事受け止めることができたのだ。その岩を仁王門を少し上がった右側に取りのけて置いた。この時五郎次は、捨身懸命と言うことを悟った。太平山が、五郎次に心を授けたのだという。
そのまま登って社殿の前に着くと、その夜も持ってきた麻を上げて祈願し、大岩を受け止められたお礼もした。そして、毎晩神前に上げていた二十一枚の麻をいただいてひとにぎりとし、右手と左手で持ち、満身の力をこめて前後にねじると、刃物で切ったように切り口正しく二つに切れ、力を授かった。その後、綾川五郎次は第二代日下開山横綱になることができたという。


綾川五郎次の墓は、栃木市の常願寺にある。この墓石を粉にして飲むと強くなるというので、相撲取りが参拝に来て削って行くので窪みができているという。







2007/06/22 21:26:45|太平山に伝わる話
あじさい坂(太平山)に伝わる話 綾川石

あじさいまつりでにぎわう、あじさい坂を上り、随神門をくぐってすぐの右手に、綾川石といわれる大石がある。この石のいわれは・・・
 
 むかし、薗部村(栃木市)に、綾川五郎次という男がいた。生まれつき体が大きく、大変な力持ちで、村の相撲で、五郎次にかなうものは誰もいなかった。
 
 五郎次は、いつしか力をつけて江戸に出て、本物の相撲取りになりたいと思うようになった。そこで、日頃から信心していた、太平山大権現に、丑の刻参りして、「どうか、おらに、大力を授けてくだせえ」と祈っていた。木々が生い茂って、月明かりも見えない、真っ暗闇の石段を、下から上へとかけ上がっては、願をかけていた。
 
 ある夜のこと、いつものように、石段をかけ上がり、随神門をくぐって本殿へ行こうとした時、一人の女が、赤ん坊を抱いて立っていた。女は、五郎次に、「もし、私が、権現様にお参りしている間、どうか、この子をだいていてください」と、頼んだ。五郎次は、こんな真夜中によほどのことだろうと、赤ん坊をあずかった。
 
 しばらく抱いていたが、女は戻って来なかった。そのうちに、抱いている赤ん坊の体が、だんだん大きくなり、重くなってくるではないか。力自慢の五郎次の腕もしびれてきた。(なんだべ。この赤ん坊、おかしいぞ。だけんど、落としたら死んじまう)そう思った五郎次は、汗を流して、うんうん、うなりながら我慢して赤ん坊を抱いていた。しらじらと夜が明けて、よく見れば、赤ん坊は大きな石に変わっていた。五郎次はこの時、大力をさずかったのだ。
 
 この後、江戸に出た五郎次は、立派な相撲取りになり、綾川関と名乗り、日下開山二代目横綱(ひのしたかいざんにだいめよこづな)となったという。



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2007/06/21 20:03:47|昔ばなし
はてなし話 かえる

 はてなしばなし かえる 

むかし、ある船頭さんが、千石船(大きな船)に、カエルをいっぱいつんできたと。そうしたら、カエルがいっぴき、「ドンビリビッチリ、ギャーフガフウ」ちゅうて、海に跳んだと。次のカエルがまた、「ドンビリビッチリ、ギャーフガフウ」ちゅうて、海に跳んだと。次のカエルがまた、「ドンビリビッチリ、ギャーフガフウ」ちゅうて、海に跳んだと。(次のカエルがまた、・・・
を、繰り返す)

子どもたちに、むかしばなしをせがまれたお年寄りたちは、「それじゃあ、長い長い話を語ろう」といって、このような、終わりのない、はてなし話をしました。はてなし話は最後に語る昔ばなしでもありました。
 はてなしばなし あり
むかし、大きな蔵の中に、たくさんの米があったそうな。その蔵の中に、一匹のアリが入りこんで、お米を一粒くわえて、外へでたそうな。また、入りこんで、一粒くわえて、外へ出る。入ったり、出たり、入ったり,出たり、入ったり、出たり。(入ったり、出たり、入ったり、出たり。を、繰り返す)


 はてなしばなし 天からふんどし
天からふんどしが下がったとさ。たぐってもたぐても、たぐりきれねえ。たぐっても、たぐっても、たぐりきれねえ。たぐっても、たぐってもたぐりきれねえ。・・・・

  湯西川や群馬県全域では、この「ふんどし」はてなしばないしが多く聞かれます。
栃木市生まれの私の祖父は、「長いはなしをしようか」といって「川上から、ながーいふんどしが流れてきた。ながーい、ながーい、ながーい、ながーい、ながーいふんどしが流れてきた」と話してくれました。

この話を聞く幼い私の心に映った川は、自分の家の裏の川でした。同じように、「山の向こうに」などという話を聞くと、家から見える、太平山を想い描きました。幼い頃は、明日という日は、あの山の向こうからやって来るものと信じていました。そう、太平山の向こうから来ると思っていたのです。小学校の社会科の時間、地図帳で太平山の向こう側にも町があるを知ったときの失望と落胆は忘れられません。

子どもの想像は、「思わぬふくらみを持つもの」だと、心しながら語っています。同じ話を聞いても、映像で見るのと違い、それぞれの世界がふくらんでいるからです。
 さて、先日載せたものよりもっと鮮明な、モリアオガエルの写真を載せました。友人が送ってくれたものです。カエルの研究家です。モリアオガエルは、トノサマガエル位大きかったので驚きました。ちなみに、このあたりで見かけるトノサマガエルだと思っているカエルのほとんどが、トウキョウダルマガエルだそうです。