栃木の語り部  栃木語り部の会

昔むかしの話を語る、栃木の語り部。 語り伝えたい話があります。昔ばなし、伝説、言い伝え・・・学校への語りの出前は60校を超えました。児童館、育成会、公民館、作業所、グループホーム、イベントなど声が掛かればどこへでも語りに出かけています。語りながら話も集めています。これからも出会いを求て語り続けていきます・・・
 
2007/06/19 21:46:29|昔ばなし
京都のかえると大阪のかえる

 むかし、京都のカエルが、大阪見物に出かけた。同じ頃、京都のカエルが大阪見物に出かけた。二匹のカエルは、京都と大阪の真ん中にある山の上でばったりと出合った。京都のカエルが、「おい、お前どこへ行く」というと、大阪のカエルは、「わしは、大阪のカエルやで、これから初めて京都見物に行くところや。お前こそどこへ行く」と聞き返した。京都のカエルが、「わしは、京都のカエルやで、これから初めて大阪見物に行くところや。ところで、大阪ゆうのは、りっぱな町やろなあ」というと、大阪のカエルは「そりゃありっぱな町や、川や橋がぎょうさんある。京都はどうや」「京都だってりっぱな町や。お寺やお宮がぎょうさんある」あれこれいい合ううちに、「いっぺんこの山の上から、京都と大阪を見てみよう」ということになった。二匹のカエルは、京都のカエルは大阪の方を向いて、大阪のかえるは京都の方を向いて、「一、二、三」で立ち上がったけどよく見ない。もういっぺん、「一、二、三」で、力いっぱい、ぐーんと背伸びをしたら、見えた見えた。そしたら、きょうとのカエルのいうことには「なんと、大阪いうのは、お寺とお宮ばかりで、京都の町とそっくりやなあ」大阪のカエルがいうことには、「こりゃあたまげた。京都の町は、川と橋ばかりで、大阪の町と同じや」二匹のカエルは、「今おるところと同じなら、わざわざ見物に行くこともあるまい」というて、そのまま今来た道を、ピョコタリ、ピョコタリ、と引き返してしまったんだとさ。そりゃあそうだ、カエルは背中の方に目がついているから、立ち上がれば、京都のカエルが見たのは京都の町で、大阪のカエルが見たのは大阪の町だったというわけだ。                                                                              
 この写真は、6月16日(土)に、撮った、モリアオガエルとモリアオガエルが水辺の木の枝に産み付けた卵塊です。
(塩谷町東荒川ダム公園の池にて)







2007/06/18 22:53:07|昔ばなし
雨がえるの親不孝
むかし、雨がえるの息子は、親のいうことを聞かない親不孝もんだったと。親が右見ろっていえば左見るし、畑行けっていえば田んぼ行って、反対のことばかりするあまのじゃくな息子だったんだと。ある時、親がえるは重い病になって、もう助からねえってなった時、考えたと。(死んだら山へうめてもらいたいけど、あまのじゃくな息子は、「山へ埋めてくれって」というと、川っぺりに埋められる。「川っぺりに埋めてくれ」っていえば山に埋めてくれるだろう)そこで、親がえるは、息子がえるをよんで「おらが死んだら、川っぺりに埋めてくれ」っていったと。さあ、親がえるに死なれて子がえるは、ようやく目がさめた。(おらあ、今まで、親の言うこと聞かずに、反対のことばかりしてきた。親不孝だった。
だから、せめて最後のひとつくらいちゃんと聞いてやるべ)そう思った、子がえるは、泣きながら、親を川っぺりに埋めて墓を建てたと。
ところが、川っぺりだから雨が降ると大水が出て親がえるのは墓はながされそうになるんだと。子がえるは、「墓が流れる、墓が流れる」といってギャッ、ギャッ、ギャッ、ギャッと鳴いたんだと。それで今でも雨がえるは、雨の前になると、「墓が流れる、墓が流れる」と鳴くんだと。だから昔から、『雨がえるが鳴くと雨が降る』といわれているんだとさ。



今、雨がえるの鳴き声を聞きながらこれを書いています。
かえるは人間の身近にいる存在なので、昔ばなしにたびたび登場します。
 この他にも、よく知られているものとして、「猿と蛙の餅争い」「びっき(かえる)の坊様」「京のかえると大阪のかえる」
などがあります。


 栃木県では、この類話である「とび不孝」がよく知られており、今もよく語られています。これも悲しい話です。

 さて、先週末、友人と栃木県立博物館の自然観察会に参加し、モリアオガエルの産卵を見に、塩谷町の東荒川ダムに行きました。梅雨が吹き飛んだような晴天にわが身の「日頃の行い」の良さを自ら褒め称えていたところ、人間にいい天気の日は乾燥していてカエルには良くない天気だそうで、残念ながら産卵の様子は見られませんでした。でも、捕獲したモリアオガエルに触ることはできました。また、木の枝や水辺の草に産み付けられた卵塊を観察できました。
 また、ニホンアマガエルやカジカガエルやアカガエルやモリアオガエルの鳴き声を実際に聞くことができました。
 最近、伝承の語り部の方言の語りをテープに録音しそこから、そのまま文章化する作業をしているので、方言のヒアリングは相当力がついたと思っていましたが、カエルのほうはさっぱり・・
ゲロゲロがアマガエル、ボーボーがウシガエル、位の認識しかなかったのに、それぞれ鳴き声が違っていて、カジカガエルが一番の美声であると知りました。
 いやいや、カエルの世界も奥が深い!
という訳で、七不思議も完結したので、次はかえるの出てくる話を載せることにしました







2007/06/16 14:20:13|山形に伝わる話
ねこをまつったお宮
 むかし、高畠というところに、ひとりの長者がありました。長者のひとりのむすこが、よめさまをもらってしばらくたつと、どうしたわけか、よめさまの顔が青ざめてきました。べんじょへ行くたびに、ますます青ざめてくるのです。むすこは、おかしいなと思って心配していました。
 
 その長者の家では、大きなおすのみけねこをかっていました。そのねこは、よめさまがべんじょに行くと、かならず入り口について行きました。えさを食べているとちゅうでさえ、食べるのをやめてべんじょの入り口に行ってじいっとすわっていました。
 
  次の日も、また次の日も、べんじょの入り口にすわっていました。
 「あのねこのやろう、へんなやつだ。いくらおすねこでも、あんなことはしないもんだ」
と、むすこはいやな気持ちでいました。 
 
 その次の日も、よめさまがべんじょに行くのを見て、ねこはむっくら起きてべんじょの入り口に行き、じいっとすわっていました。むすこは、
「ちくしょう、けしからんやつだ」
とおこって、とこの間から刀を持ってきて、ねこの首をぶった切ってしまいました。
 
 すると首は、下へ落ちずにどこかへとんで行きました。
「なんだ、ぶった切った首はどこへ行ったんだ」
と、むすこは見まわしてみたけれど、首はみつかりません。おかしいなと思っていると、べんじょのはりの上で、ガサガサ、バタンバタン、というはげしい音がしたかと思うと、大きなへびがドタン、と落ちてきました。そのへびののど首には、ねこの首ががっちりとかぶりついていました。むすこはおどろいて、そのへびを刀でぶった切って、たいじしました。
 
「おまえが、おれのよめを守っていてくれたのか。うたがったりしてすまなかった」と、むすこはいいました。 
 
 むかしから大きなへびは人の血をすい上げる力があるものだといわれています。よめさまは、べんじょに行くたびにへびに血をすい上げられていたので、顔が日に日に青ざめてきていたのでした。
 
 ねこはよめさまがへびに飲みこまれては大変と毎日毎日、べんじょで番をしていたのです。
 
 むすことよめさまは、ねこの宮をたててねこがたたったりしないようにおまつりしたということです。







2007/06/14 20:27:24|太平山に伝わる話
大中寺の七不思議 根無し藤 後編
 
 生い茂った草の中に、青頭巾をかぶった和尚が、影のように座って、あの句をとなえていました。
 
 禅師は、「何の所為ぞ」っと一喝して、持っていた杖をその頭の上にふりおろしました。すると、今まで見えた姿はぱっと消えうせ、後には、青頭巾と、白骨が草葉の上に落ちとどまるだけでした。
 
 長い間の執念がこの一喝にあって消えつくしてしまったのでしょう。和尚は、骨となっても修行を続けていたのです。禅師は、和尚をていねいに葬り、回向をすると、墓の上に墓標として自分の杖をさしました。
 
 ところが不思議なことに、根がないこの杖から若芽が吹き出して、みるみる藤の木となり、花を咲かせたのでした。里人は、この藤を誰言うとなく「根無し藤」と呼ぶようになりました。 
 
 今でも、大中寺の本堂裏手の墓地には、この藤の木が初夏ともなると美しい花をつけています。
 
 
  リクエストありがとうございました。これで大平町の大中寺に伝わる七不思議の話が完結しました。
 







2007/06/14 20:04:33|太平山に伝わる話
大中寺の七不思議 根無し藤 前編
 むかし、大中寺の和尚さんが、越後の国に修行に出かけ、帰りに十二、三歳くらいのかわいい男の子を連れてきました。和尚さまは、この子をそれはそれはかわいがるうち、寺の仕事もなおざりになっていきました。ところが、ある時、この子が重い病にかかりました。和尚さまは立派な医者を呼んだりして、手厚く看病しましたが、男の子は死んでしまいました。和尚さまは、嘆き悲しみ、とうとう気がふれてしまったとみえ、その子が生きていた時と同じようにそのなきがらとたわむれていました。そのうちに肉が腐っていくのをおしんで、それを吸い、骨をしゃぶり、とうとうなきがらを食いつくしてしまったのです。 それからというもの、和尚様は、毎晩毎晩、里に下りてきて、人に襲いかかったり、墓を掘り起こして、生々しい死骸を引き出して食べるようになりました。だれも、この和尚を止めることができず、里人は日が暮れるとすぐに戸を固く閉ざすしかなすすべがありませんでした。
 
そんな時、快庵禅師という徳の高いお坊様が、この里を通りかかりました。禅師は、この話を聞いた禅師は、この鬼となった和尚のたましいを救ってやろうと、大中寺に泊まりました。夜中になると鬼となった和尚が、禅師を食ってやろうと寺の中をかけまわりました。ところが鬼坊主には禅師の姿は見えません。「おのれ、どこへ行った。食ってやる」と言いながら、禅師の前を何度も走りすぎ、いらだってあばれ狂いましたが、ついに疲れてばったりと倒れてしまいました。夜が明けると、鬼となっていた和尚は、はっと目覚めると、禅師に「私を、このあさましい罪業から、救ってください」と頼みました。禅師は、和尚を山中の平らな石の上に座らせ、自分のかぶっていた青頭巾の頭にのせると、「江月照松風吹 永夜清宵何所為(こうげつてらし、しょうふうふく、えいやせいしょう、なんのしょうぞ)」という二句を教え、「この句の意味が分かるまで、この文句をとなえて修行しなさい」と言いました。そして、陸奥の国へと旅立ていかれました。一年の後、禅師がまたこの大中寺を訪れました。すすきや萩が生い茂り、それを踏み分けて行くと、寺は荒れ放題で、廊下は朽ち果て、苔むしています。ようやく、和尚を座らせた平石の近くまで来た時、今にも消え入りそうなか細い声が聞こえました。耳を澄ますとそれは「江月照松風吹 永夜清宵何所為」と、となえる声です。