栃木の語り部  栃木語り部の会

昔むかしの話を語る、栃木の語り部。 語り伝えたい話があります。昔ばなし、伝説、言い伝え・・・学校への語りの出前は60校を超えました。児童館、育成会、公民館、作業所、グループホーム、イベントなど声が掛かればどこへでも語りに出かけています。語りながら話も集めています。これからも出会いを求て語り続けていきます・・・
 
2007/09/24 19:11:40|絵本
おとなにも味わってもらいたい絵本 花さき山
 秋の読書週間に、今年はまた、この話を持っていこうと思い、今、練習中です。子どもばかりでなくおとなにも味わってもらいたい本です。
    
    
     花さき山

おどろくんではない。
おらは この山に ひとりで すんでいる ばばだ。
山ンばと いうものも おる。
山ンばは、わるさを すると いうものも おるが、
それは うそだ。 
おらは なんにもしない。
おくびょうな やつが、山ンなかで
しらがの おらを みて かってに あわてる。
そしては べんとうを わすれたり、
あわてて 谷さ おちたり、
それがみんな おらのせいになる。

あや。おまえは たった十のおなごわらし
だども 、しっかりもんだから、
おらなんど おっかなくはねえべ。
ああ、おらは、なんでも しってる。
おまえの なまえも、
おまえが なして こんな おくまで 
のぼってきたかも。
もうじき 祭りで 、祭りの ごっつおうの
煮しめの 山菜を とりに きたんだべ。
ふき、わらび、みず、ぜんまい。
あいつを あぶらげと いっしょに 煮ると
うめえからなあ。

ところが おまえ、おくへ おくへと 
きすぎて、みちに まよって
この山サ はいってしまった。
したらば、ここに こんなに いちめんの花。
いままで みたこともねえ 花が さいてるので、
ドデンしてるんだべ。
な、あたったべ。
この花が、なして こんなに きれいだか、
なして こうして さくのだか、
そのわけを、あや、おめえは しらねえべ。
それは こうした わけじゃー。

この花は、ふもとの 村の
にんげんが、 
やさしいことを ひとつすると
ひとつ さく。
あや、おまえの あしもとに
さいている 赤い花、
それは おまえが
きのう さかせた 花だ。

きのう、いもうとの そよが、
「おらサも みんなのように
祭りの 赤い べべ かってけれ」
って あしをドタバタして
ないて おっかあを こまらせたとき、
おまえは いったべ、
「おっかあ、おらは いらねえから、
そよサ かってやれ」

沿ういったとき、その花が さいた。
おまえは、いえが びんぼうで、
ふたりに 祭り着を
かって もらえねえことを
しってたから、
じぶんは しんぼうした。
おっかあは、どんなに たすかったか!
そよは、どんなに よろかんだか!

おまえは、せつなかったべ。
だども、この 赤い花がさいた。
この 赤い花は、どんな 祭り着の 花もようよりも、
きれいだべ。
ここの 花は みんな こうして さく。

ソレ、そこに、つゆを のせて さきかけて きた
ちいさい 青い花が あるべ。
それは ちっぽけな、ふたごの あかんぼうの
うえの子のうが、
いま さかせているものだ。

きょうだいといっても、おんなしときの わずかなあとさきでうまれたものが、
しぶんは あんちゃんだとおもって じっとしんぼうしている。
おとうとは、おっかあの かったっぽうの
おっぱいをウクンウクンをのみながら、
もうかたほうの おっぱいも
かたっぽうの手で いじくっていて はなさない。
うえの子は それを じっとみて
あんちゃんだからしんぼうしている。目にいっぱいなみだをためて。

そのなみだがそのつゆだ。

この 花さき山 いちめんの 花は、
みんなこうしてさいたんだ。
じぶんのことより ひとのことをおもって
なみだをいっぱいためてしんぼうすると、
そのやさしさと、けなげさが、
こうして 花になって、さきだすのだ。

花ばかりではねえ。
この山だって
むこうのみねつづきの山だって、
ひとりづつのおとこが、いのちをすててやさしいことを
したときにうまれたんだ。
この山は 八郎っていう山おとこが、
八郎潟に しずんで 高波を
ふせいで村をまもったときにうまれた。

あっちの山は、三コっていう、大おとこが、
山かじになったオイダラ山サかぶさって、
やけしんだときに できたのだ。
やさしいことを すれば 花がさく。
いのちをかけてすれば山がうまれる。
うそではない、ほんとうの ことだ・・・・・。

あやは、山からかえって、
おとうや おっかあや、みんなに
山ンばからきいたこの はなしをした。
しかし、だアれも わらって ほんとうには
しなかった。
「山サいって、ゆめでもみてきたんだべ」
「きつねに ばかされたんではねえか。
そんな 山や 花は みたこともねえ」
みんな そういった。

そこで あやは、また ひとりで
山へ はいっていった。
しかし、こんどは 山ンばには
あわなかったし、
あの 花も みなかったし、
花さき山も みつからなかった。

けれども あやは、そのあと ときどき、
「あっ!いま 花さき山で、
おらの 花が さいてるな」
って おもうことが あった。







2007/09/22 19:53:34|絵本
おとなのための絵本 百万回生きたねこ
 絵本は子どものためのものではありません。
子ども向けの絵本に紛れて、おとなでなければ理解できない、おとなこそ読んで欲しい本があります。



 その中の一冊が、有名な、「百万回生きたねこ」です。


100万年も しなない ねこが いました。

100万回も しんで 100万回も 生きたのです。

りっぱな とらねこでした。

100万人の 人が そのねこを かわいがり、100万人の

人が、 そのねこが しんだとき なきました。

ねこは、一回も なきませんでした。

 
ねこは、王様や、船乗りや、手品使いや、どろぼうや、一人ぼっちのおばあさんや、小さなおんなのこのねことしてうまれかわります。飼い主は、それぞれねこをかわいがって、その死を悼みますが、ねこは飼い主なんかきらいで、死ぬのも平気でした。

あるとき、ねこは だれの ねこでも ありませんでした。
のらねこだったのです。
ねこは はじめて 自分のねこに なりました。
ねこは 自分が 大好きでした。
なにしろ、りっぱな とらねこだったので、りっぱな
のらねこに なりました。

どんな めすねこも ねこのおよめさんになりたがりましたが
ねこは 相手にしません。

そのなかで たった1ぴき ねこに見向きもしない 
白い うつくしい ねこに出会います。

 そして・・・・

「そばに いても いいかい」と、ねこが 白いねこにきくと
白いねこは
「ええ。」
と、いいました。

白いねこは かわいい こねこを たくさんうみました。
ねこはもう
「おれは、百万回も・・・」
とは、けっしていいませんでした。
ねこは、白いねこ とたくさんの 子ねこを
自分より すきなくらいでした。


ねこは 、白いねこと いっしょに いつまでも いきていたいと思いました。

ある日、白いねこは、ねこの となりで、しずかに
うごかなく なっていました。
ねこは、はじめて なきました。夜になって、朝になって、ある日のお昼に、ねこは なきやみました。
ねこは、白いねこの となりで しずかに うごかなく なりました。


ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした。



 生きることや、愛することについて深く考えさせてくれる本です。本当に愛するものが見つかるまで何度も生まれ変わってきたねこ。白いねこに会えてよかった・・・


この本を初めて読み聞かせ会で図書館の人が読んでくれるのを聞いていたら涙が止まらなくなってしまい、息子が不思議そうに私の顔をのぞき込んでいた昔を思い出します。

すっかりこの本の魅力にとりつかれた私は、読み聞かせ活動を始めてから8年くらいどこへ行ってもこれをプログラムに入れて読んでいました。

小山の中学校で読んだ時、前の方に座っていた女の子が涙ぐんでいたのを見て、この本のよさが本当にわかるのは中学生くらいからなのかなあと思いました。

小学校低学年の子に読み聞かせると、冒頭の、
「100万回もしんで 100万回も生きたのです」
のところでざわめきがおこり
「すっげえ!」
「不死身のねこじゃん!」
なんていう反応がかえってきます。
でも、さすがに、最後の方はしんとして聞いています。
今、わからなくても、いつか思い出してほしい・・・そんな思いで読んでいます。

秋の夜長、おとなの方に読んでもらいたい本です。









2007/09/21 20:12:36|日光市に伝わる話
麻布地蔵 湯西川に伝わるむかしばなし
栗山村に伝わるはなし。

方言の持つぬくもりと、おもしろさ、リズムを残しつつ、子どもに分かるように再話するのは難しいことです。
研究会でも「じいさん」か「おじいさん」かひとつをとっても議論百出でした。

会話に方言をのこしましたが、今の子どもたちにどこまでわかるのか?というのも手探りです。

「だれか買ってくれっかもしんねかんべから〜」という、所は「だれか買ってくれっかもしんねえから」
と直しました。


秋の読書週間で学校で語るときに聞いてもらおうかとも思いますが、このあさぬの地蔵は、教科書にも載っていた「かさこ地蔵」の類話です。心優しいおばあさんの話を知っている子ども達に、このおばあさんはどう映るのか・・・・何箇所かで聞いてもらおうと思っています。


   麻布地蔵(再話)むかーしあったと。
あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。二人は年を取ってしまって、正月来るというのに、何のよういもできませんでした。お神酒(みき)買うことも、米を買うこともできませんでした。そこでおばあさんが、
「じいさんよ、おれが麻布を織ったのが一反あるから、これを町へ持っていって売って、何かお神酒か魚か正月のもの買ってきたらどうだんべ」って言うものだから、おじいさんは、
「そうか、そんじゃあばあさん、おれさっそく、これから行ってくっからよ」って麻布一反持って町へ出かけていきまいした。町についたおじいさんが、
「麻布―、麻布―」と言いながらうりあるいていたら、
「どれ、じいさん、持ってきてみなー」と、よびとめられました。おじいさんが麻布を見せると、
「あーだめだ、だめだ。買ってやりてえけど、こんなしらみが首っかかりするようなのはだめだ」と言われてしまいました。
「そんでもじいさん、町は、広いから、だれか買ってくれっかもしんねえから、もっちっとは、持って歩ってみなー」って言うので、おじいさんは、、
「麻布―、麻布―」っていいながら歩きましたが、だれも買ってくれる人はいませんでした。そのうち日暮れになってしまって、村はずれまで帰ってくると、ぼさぼさ、ぼさぼさ、雪が降ってきました。ふと見ると、お地蔵様が雪の中に寒そうに立っていました。おじいさんは、
「あー、お地蔵さん、かわいそうに、寒かんべ」といいながら、売れなかった麻布を、お地蔵さんにぐるぐる、ぐるぐる巻きつると、何にも買えない、すってんぶ(ぼ)りの手ぶらでうちに帰ってきました。さっそく、おばあさんが、
「じいさん、なんか買えたか」ってきくので、おじいさんが、
「いやあ、なにー、おめえ、麻布の織り方が悪いもんだから、どこを持って歩いても、だーれも買い手がねえんだよ。そしたら、村はずれの、お地蔵さんが雪まぶれになって寒そうにしてたから、かわいそうだと思って、お地蔵さんに巻きつけてきたー」といいました。
「このくた(さ)ばれじじい、お地蔵にまきつけてきたってなんになる。持ってかえってきたれば、おれとおめで、かたびらぐれえ作って着られべ。この欲無しじじい、そーだじじいだいっきれえだ」って、おばあさんは、かんかんにおこりました。おじいさんは、
「おれなあ、まあ、おれも、持ってかえってくればよかったんべきっともなあ、お地蔵さんだって、あんまりかわいそうだったから、まきつけてきたんだよ。だいたい、おめの織り方だってわるいんだぞ」というと、
「おれが織り方わるいだって、てめーで着れば着られべー。今夜、年越しだっちゅうのに、何にも買うことも食うこともできねえ」といって、おばあさんはおこって寝てしまいました。おじいさんはしかたがないので、囲炉裏にまきをくべて、ぽろっとよこんなって、うとうとーってしてたら、どこからともなく、
   ばあの心はにくけれど、じいの心のよいままに、えんやらなあ
って声がします。おじいさんは、不思議なことあるもんだなあと思っていたら、また、
   ばあの心はにくけれど、じいの心はよいままに、えんやらなあ
って、がたがた、がたがた何かひっぱてくるような音がします。寝ているばあさんが、
「やかましい、このじじい」って、またおこっりました。するとこんどは、いえの近くで、
   ばあの心はにくけれど、じいの心はよいままに、えんやらなあ
と、うたいながら、がたがた、ぎしぎし、どじーん、どしーん、何か荷物おろすような音がしました。不思議に思ったおじいさんが、
「ばあさん、ばあさん、ちょっと起きてみねえか」と、おばあさんをおこすと、おばあさんは、
「やかましい、てめで起きろ」
と、まだおこっていました。おじいさんは、
(はあ、早く夜が明ければいいなあ、早く夜が明けてくれればいいなあ)と思って、囲炉裏に、まきくべてうとうととして、夜が明けたと。さあ、窓開けてみたれば、いや、たいへんだー。米だやら、酒だやら、魚だやら、着物だやら、山ほどつんでありました。
「ばあさん、ばあさん、起きてみな。このように、お地蔵さま持ってきてくれたぞ」
と、おじいさんはいいました。おばあさんも起きてきてみて、
「あら〜、これはお地蔵さんがもっちきてくれたんかなあ」
「そうだとも、これはお地蔵さんがもっちきてくれたんだ」
ひょいっと向こうを見たら、村はずれを、空っぽの荷車をひいていくお地蔵様のすがたが見えました。おばあさんは、
「あー、おれ、悪かったー。こんなにお地蔵様に恩返ししてもらうとは思わなかったー。おれが悪かった。ありがてえ」って、涙こぼしてよろこびました。それから、おじいさんとおばあさんは年寄りなので、これほど食べきれないから、きんじょとなりの人にも、よんでごちそうしたり、分けてやったりしました。みんなして、あったかい、いい正月をむかえて、おじいさんと、おばあさんは、しあわせにくらしましたとさ。
しゃみしゃっきり、ねこすけぽっきり。


   麻布地蔵 テープ起こししたままのもの
むかーしあったと。
あるところに、じいさんとばあさんがいたと。二人は年取ってしまって、はあ、正月来んのに、大晦日が来るっちゅうのに、何にも正月の用意ができねえんだと。お神酒(みき)買うことも、米買うこともできねえんだと。そこでばあさんが、
「じいさんよ、おれが麻布を織ったのが一反あるからこれ町へ持っていって売って、何かお神酒か魚か正月のもの買ってきたらどうだんべ」って言うもんだから、じいさん、
「そうか、そんじゃあばあさん、おれ早速これから行ってくっからよ」って麻布一反持って町へいったんだと。
「麻布―、麻布―」って、歩いてたら、ある人が呼び止めて、
「どれ、じいさん、持ってきてみなー」
「あーだめだ、だめだ。買ってやりてえけど、こんなしらみが首っかかりするようなのはだめだ」ちゅうわけなんだと。
「そんでもじいさん、町は、広いから、だれか買ってくれっかもしんねかんべから、もっちっとは、持って歩ってみなー」って言われて、また、
「麻布―、麻布―」って歩いたんだけども、だあれも買ってくれる人はいなかったんだと。日暮れになってしまって、村はずれさ来たらば、ぼさぼさ、ぼさぼさ、雪が降ってくる中、お地蔵様が雪ん中寒そうに立ってたんだと。
「あー、お地蔵さん、かわいそうに、寒かんべ」
その売れなかった麻布を、お地蔵さんにぐるぐる、ぐるぐる巻きつけてひっけってきたから、何にも買えねえ、すってんぶりの手ぶらで帰ってきたと。うちに帰ったら、早速ばあさんが、
「じいさん、なんか買えたか」ってきくんだと、
「いやあ、なにー、おめえ、織り方悪いもんだから、どこを持って歩いても、だーれも買い手がねえんだよ。町はずれの、お地蔵さんが雪まぶれんなって寒そうにしてたから、かわいそうだと思って、お地蔵さんに巻きつけてきたー」って言ったと、
「このくたばれじじい、お地蔵にまきつけてきたってなんになる。持ってかえってきたれば、おれとおめで、かたびらぐれえ作って着られべ。この欲無しじじい、そーだじじいだいっきれえだ」って、ばあさん、かんかんにおこっちゃたと。じいさん、
「おれなあ、まあ、おれも、持ってかえってくればよかったんべきっともなあ、お地蔵さんだって、あんまりかわいそうだったから、まきつけてきたんだよ。だいたい、おめの織り方だってわるいんだぞ」
「おれが織り方わるいだって、てめーで着れば着られべー」ばあさんは、おこっちゃって、
「今夜、年越しだっちゅうのに、何にも買うことも食うこともできねえ」
おこってねっちゃったんだと」
じいさん、仕方ねーもんだから、囲炉裏さまきくべて、ぽろっとよこんなって、うとうとーってしてたら、どことなく、
   ばあの心はにくけれど、じいの心のよいままに、えんやらなあ
って声がすんだと。じいさん、へんな不思議なことあるもんだなあと思ってたら、また家の近くへ来て、
   ばあの心はにくけれど、じいの心はよいままに、えんやらなあ
って、がたがた、がたがた何かひっぱてくるような音がすんだと。寝ているばあさんが、
「やかましい、このじじい」って、またおこったんだと。したらまた、いえの近くで、
   ばあの心はにくけれど、じいの心はよいままに、えんやらなあ
がたがた、ぎしぎし、どし〜ん、どし〜ん、何か荷物おろすような音すんだと。不思議に思ったじいさん、
「ばあさん、ばあさん、ちょっと起きてみねえか」
「やかましい、てめで起きろ」
まあだ、おこってんだと。はあ、じいさん、
(はあ、早く夜が明ければいいなあ、早く夜が明けてくれればいいなあ)と思って、囲炉裏に、まきくべてうとうととして、夜が明けたと。さあ、窓開けてみたれば、いや、たいへんだー。米だやら、酒だやら、魚だやら、着物だやら、山ほどつんであんだと、
「ばあさん、ばあさん、起きてみな。このように、お地蔵さま持ってきてくれたぞ」
ばあさんも起きてきてみて、
「あら〜、これはお地蔵さんがもっちきてくれたんかなあ」
「そうだとも、これはお地蔵さんがもっちきてくれたんだ」
ひょいっと向こう見たら、村はずれを、空っぽの荷車ひっぱてぐお地蔵様の姿がめえたと。ばあさんも、
「あー、おれ、悪かったー。こうだにお地蔵様に恩返ししてもらうとは思わなかったー。おれ悪かった。ありがてえ」って、涙こぼして喜んだと。それから、じいさんとばあさん、二人は年寄りだから二人っきりじゃ、これほど食いきんねえから、隣近所の人にも、よんでご馳走したり、分けてやったりして、みんなして、あったけえいい正月むかえて、じいさん、ばあさんは、幸せに暮らしましたとさ。
しゃみしゃっきり、ねこすけぽっきり。


昔、国語の教科書に載っていた、この話の類話、「笠こ地蔵」には、手ぶらで帰って来たおじいさんを「ごくろうさまでした」と暖かく迎える、優しいおばあさんが登場します。 十年ほど前に湯西川のむかしばなし集の中でこの麻布地蔵を読んだ時、手ぶらで帰って来たじいさまを叱り飛ばすばあさまに出合って、やっぱり、こっちの方がメジャーな反応なのかもしれない・・・と思ってしまいました。

 
 







2007/08/31 20:46:50|絵本
月のうさぎ

 月のうさぎ

上の写真のは瀬戸内寂聴さんが最近出版した本です。
読み聞かせによい本です。
瀬戸内寂聴さんは、天台宗の僧侶です。天台宗の開祖伝教大師「最澄」の「忘己利他」の教えを絵本にしたものですが、人のために尽くすことを教えてくれる一冊です。宗教の枠を超え、「愛」が理解できる一冊ともいえます。



この他にも、「月へ行ったうさぎ」という、類話の絵本があります。このシリーズには「あとかくしの雪」や「かさ地蔵」など月ごとに楽しめる絵本があります。赤坂三好さんの風情のある挿絵が谷真介さんの文とマッチして昔話の世界へといざなってくれます。

今年の十五夜は 9月25日(火)

   十三夜は10月23日(火)
です。お月見の日にこの本を読み聞かせてください。

ちなみに、十五夜は芋名月、十三夜は栗名月をいうのだそうです。その時期にお供えする旬のものの名前が付けられているのでしょうか。

また、十五夜のことを、三五の月とも言うのだそうですが、これは 3×5=15のしゃれだそうで粋な言い方ですね。

お月見に関する絵本に「14ひきのお月見」があります。
こちらは、うさぎではなく14匹のねずみの大家族が登場します。







2007/08/30 14:06:44|昔ばなし
月にのぼったうさぎ
  月にのぼったうさぎ

昔、あるところに、うさぎときつねとさるが仲良く一緒に暮らしていました。三匹は、いつもこんなことを話し合っていました。「私たちが今けものの姿をしているのは、よほど前世での行いが悪かったからに違いない。せめてその償いに、これからは世のため人のため、何か役に立つことをしよう。」
これを聞いた神様は、大変喜びました。「なかなか感心なけものたちだ。よしよし、何かいいことをさせてやろう。」

そこで、神様はよぼよぼのみすぼらしいおじいさんに化けて、三匹の前に現れました。
今にも倒れそうなおじいさんの姿を見て、何とか役に立とうと、三匹は考えました。
さるは木登りが得意だったので、あちらこちらの木に登り、おいしそうな木の実や果物をたくさん取ってきました。
きつねは動きがすばしっこいのが自慢だったので、さっそうと野山を走り回り、川魚をたくさん捕ってきました。
ところが悲しいことに、うさぎには自慢できるものが何も無かったのです。思いあまったうさぎは、おじいさんの目の前で火をたいて、こういいました。
「私は何も取ってくることが出来ません。私の体を焼きますから、せめて私の肉を召し上がって下さい。」
そういうと、うさぎは火の中に飛び込み、たちまち黒こげになってしまいました。
この様子を見た神様は元の姿に戻り、けものたちに向かっていいました。
「お前たち三匹には本当に感心しました。この次生まれ変わるときには、立派な人間として生まれてこられるようにしてあげよう。特にうさぎ、お前の姿は、ほうびとして月の中に永遠に飾っておくこととしよう。」
 こういったわけで、今でも月の表面には、黒く焦げたうさぎの姿が残されているのだそうです。


猛暑も一段落して、秋の気配が感じられます。月の美しい季節がやったきます。
楽しみにしていた皆既月食は雲に邪魔されて見られず、テレビの画像のみで確認した次第です。山梨に住む友人からしっかり観測できたという便りが届き、うらやましいかぎりです。
ブログも秋バージョンに模様替えしました。


先日、夏休み最後のお話会で「月にのぼったうさぎ」のパネルシアターをやりました。
インドに源を発するこの話は仏教説話としても伝わっています。これはもとの話ですが、小さい子向けのパネルシアターの台本では、神様の呪文でうさぎは救われ、やけどひとつしていなかったとなっています。ブラックパネルシアターにもってこいのお話だと思います。小学校でやった時、「うさぎがなぜ月にいるのかよくわかりました」という1年生からの感想が寄せられ、心が清められたような気がしました。