浜垣誠司氏はHP「宮澤賢治の詩の世界」に、賢治の父政次郎が1921(大正10)年4月、1月から家出、上京していた賢治を誘って、関西旅行に出たことに関して何度かお書きになっています(注1)が、最近、二人が京都で泊まった旅館の周辺の詳しい地図があって(注2)、行ってみたくなり、京都旅行の計画の中に入れました。
旅館は、三条通り、加茂川に架かる三条大橋から西へ3軒目、南向きの「布袋館」で、現在は「加茂川館」となっています。十返舎一九『東海道中膝栗毛』の弥次さん、喜多さんが宿泊した宿「編笠屋」と同じ場所でもあるそうです。
東海道の終点だった三条大橋近く、付近には「池田屋騒動跡」の碑、「佐久間象山先生・大村益次郎卿遭難の碑」があり、弥次さん喜多さんの銅像もあります。周辺は、ある時期までは観光の拠点で、修学旅行の宿泊場所でもありました。
二人は、3日(注3)に伊勢神宮に詣で、二見浦に宿泊し、4日に列車と琵琶湖湖南汽船を乗り継ぎ下阪本で下船、比叡山に登って、延暦寺で伝教大師千百年恩忌に詣でたと推定されます。そこから徒歩で京都側に下りて、夕刻「布袋館」にたどり着きました。
浄土真宗信者の父政次郎の目的には、開祖親鸞上人が、夢でお告げを受けたと言われるゆかりの寺、3カ所を訪ねることがあったようです。
まず、比叡山無動寺の「大乗院」は1200年(正治2年)、親鸞が参籠した際夢に如意輪観音が現れ、お告げがあったとされています。ここには比叡山参詣の最後に詣でました。
「布袋館」から1.2キロほど「頂法寺六角堂」は、翌1201年(建仁元年)、親鸞が百日参籠を行った際、95日目の夜の夢に救世観音が現れお告げがあったという重要な親鸞ゆかりの寺ですが、二人が詣でた記録は残っていません。これは日蓮を信奉する賢治への配慮もあってのことだったのかも知れません。
翌日、政次郎の購読していた『中外日報』の本社を訪ね、そこで大阪府、磯長村、「叡福寺」への行き方を調べた記録が残っています。「叡福寺」は聖徳太子の墓所で、親鸞が参籠したとき、夢に聖徳太子が現れてお告げがあったと言われます。賢治の信仰する日蓮にもゆかりの寺で、父子共通の目的だったと思うのですが、なにかの手違いのためか、詣でた形跡は無く、奈良に直行して一泊し、7日に帰京します。
伊勢神宮から、聖徳太子、伝教大師、親鸞まで、ゆかりの地を訪ねようとした政次郎は、日蓮宗に傾倒していく賢治に、幅広く信仰の場を感じさせたかったのでしょうか。親となった今では、宗派を変えて家出までした息子に、ひたすら寄り添う政次郎の気持ちの方がよくわかります。
賢治が布袋館に宿泊したと思われる4月4日、サクラは咲いていたのでしょうか。この関西旅行で詠んだ短歌(歌稿B 763〜804)を見ると、ひたすら寺院や神社に触れた喜びを真摯に詠んでいます。抜粋し記します。
伊勢
764かゞやきの雨をいたゞき大神のみ前に父とふたりぬかづ
かん
比叡
根本中堂
775ねがはくは 妙法如来正偏知 大師のみ旨成らしめたま
へ。
大講堂
776いつくしき五色の幡はかけたれどみこころいかにとざし
たまはん
778うち寂む大講堂の薄明にさらぬ方してわれいのるなり
780おゝ大師たがひまつらじ、たゞ知らせきみがみ前のい
の りをしらせ
法隆寺
787摂政と現じたまへば十七ののりいかめしく国そだてます
奈良ではアシビの花や柳の芽吹きを詠んでいます。
奈良公園
791月あかりまひるの中に入り来るは馬酔木の花のさけ
るなりけり
794 ここの空気は大へんよきぞそこにてなれ、鉛の鹿の
ゼンマイを巻き
798さる沢のやなぎは明くめぐめども、いとほし、夢は
まことならねば
サクラを詠んだ短歌はありません。4月初旬にサクラが咲くのは、温暖化が進んだ近年のことでしょうか。サクラが咲いていたら短歌に詠んでいたかもしれません。賢治がサクラを詠むのは、帰京した直後の短歌(歌稿805〜811)です。
805エナメルのそらにまくろきうでをささげ、花を垂るる
は桜かあやし
806青木青木はるか千住のしろきそらをになひて雨にうち
どよむかも
807かゞやきのあめにしばらくちるさくらいづちのくにの
けしきとや見ん
808ここはまた一むれの墓を被ひつゝ梢暗みどよむときは
ぎのもり
809咲きそめしそめゐよしのの梢をたかみひかりまばゆく
翔ける雲かな
810列雲ひくく 桜は青き夢の
汝は酔ひしれて泥洲
にをどり811汝が弟子は酔はずさびしく芦原にましろきそらをなが
めたつかも
盛岡高等農林学校の時の恩師の関豊太郎と友人保阪嘉内と、改修される前の荒川堤での花見の時と推定されます(注4)。
保阪嘉内は大正7年盛岡高等農林学校を退学処分となった後、大正8年12月東京駒場に1年志願兵として入隊、大正9年満期除隊後、大正10年2月25日には郷里で山梨教育会の書記として事務職に就いていました。
関豊太郎は、大正9年9月〜昭和17年11月まで、滝野川村西ヶ原(東京都北区)にあった農商務省農事試験場に勤めて、土性研究を行っていました。
なぜ嘉内が上京し、関豊太郎と花見の宴が行われたかは不明です。雨の中に散るサクラに不思議な輝きを見いだし、憂いを含み酔うこともできない友人や、反対に酔いしれる恩師の姿が詠われ、屈折しています。
その後も、サクラに対しては〈桜の花が日に照ると/どこか蛙の卵のやうだ〉(七八〔向ふも春のお勤めなので〕(「春と修羅第二集」)という感覚です。
2017年4月4日、京都のソメイヨシノはまだ七分咲きでしたが、周辺はサクラ一色、色々な国の観光客が肩をならべ平和な風景でした。月並みな感覚を持ち合わせる私どもは、その中にどっぷり浸かっていました。
賢治が、もしそんな風景に身を置いたら、一瞬でも、平凡で平穏な気持ちを持てたのかも知れません。 (小林 俊子)
注1、浜垣誠司HP『宮沢賢治の詩の世界』
2006年4月16日「京都における賢治の宿(1)」
2006年4月17日「修学旅行に使われた布袋館」
添付資料「父子関西旅行に関する三氏の記述」(佐藤驕@
房、小倉豊文、堀尾青史の記述を比較したもの)
注2、浜垣誠司HP『宮沢賢治の詩の世界』
2017年3月17日「親鸞の夢告の地」
注3、旅行の日程は、堀尾青史『宮沢賢治年譜1991年版』(筑摩書房)の推定による。
注4、宮澤俊司「隅田川」(『宮沢賢治 文語詩の森 第二集』柏プラーノ2000)