追悼 5月末の長姉キク子に続いて、8月16日にすぐ上の姉ミチ子が91歳で亡くなりました。最後に会ったのは、2019年春でした。 次姉がいる高齢者施設に会いに行ったとき、ちょうど自宅に戻っていた姉の息子Мちゃんと連絡が取れ、施設に連れて来てもらいました。それぞれの孫の話に話が弾み、私は久しぶりに実家に帰れたような気分になりました。姉は元気でしたが、話に加わることなく穏やかに笑っていました。 2018年義兄が他界してから、それを忘れたいかのように症状が進んだようです。でも帰りには私のことも思い出してくれました。 3人の姉が外出できるときに、どこかで会食のセッティングをしよう、と思っていたのですが、私の悪い癖で引き延ばしているうち季節は進み、2020年2月からは新型コロナが4年近く蔓延して外出もままならなくなり、それぞれ姉たちの症状も進んでいきました。 姉はその後グループホームに入居して穏やかに過ごしていましたが、この一カ月ほど症状が重くなり老衰での死去ということでした。 姉とは9歳年が離れていますが、一番年が近かったので、幼いころはよく遊んでもらいました。細やかなところに気のつく姉で、おままごとのお皿には、周りの草花から、私が考えもつかないような、綺麗なご馳走を並べてくれました。 姉妹の中ではただ一人理系で、いつも勉強していて、騒ぐと叱られた記憶もあります。 生まれた町で教職に就き、同僚だった義兄と結婚し子供二人に恵まれ、定年まで教職を全うしました。現在よりも働く環境は整わなかった時代、本人の情熱と家族の理解の賜物でしょう。 晩年になってからもいろいろ興味を持ち、私が野鳥観察をやっていると言ったら、高崎付近の探鳥会を教えて、と言われたので調べてあげ、手持ちの野鳥図鑑も送りました。 式辞の中で、「真面目で熱心な先生」という言葉が繰り返されました。姉はいつも優秀な教師だったと思いますが、それだけに本人は苦労が多かったと思います。
私が高校のころ、姉二人は相次いで嫁いでいき、私は一人取り残された気分でした。 兄が32年前に亡くなった時の別れは悲しくて、こんな思いをするくらいなら、姉妹のなかで私が一番早く死ねばよいのだ、と思いました。 でもその思いは叶わず、今年になって立て続けに別れに遭遇しました。二番目の姉が元気でいてくれるのが一番の幸せです。思い出を語りあえる人は少なくなり実家の周辺も変わりました。甥や姪がまだ昔を覚えていてくれるのが小さな幸いです。 でもやはり過去にとらわれることなく、短くなってきた自分の未来を充実させて生きるのが、姉たちへの恩返しかと思います。 |