観光ボランティア2班の班研修の名目で9時出発。10時から約2時間の観覧に宇都宮の栃木県立博物館に4人(1名不参加)で行ってきました。 江戸とつながる川の道 ―近世下野の水運― と題した企画展【10月11日〜11月24日】で舟運(しゅううん)の街・栃木に所縁(ゆかり)のある興味深く楽しみにしてた展覧会でした。 観光ボランティア協会副会長のTさんが、事前に協会を通して打診していてくれたので入館料も免除され、我々4名の為に学芸員が終始付き添って丁寧に解説していただきました。 近世下野の水運について、鬼怒川・思川・巴波川・那珂川などの河川が利根川・江戸川を通じて江戸と繋がっていた様子がよく解りました。特に那珂川を利用した黒羽藩などは那珂川・涸沼・北浦・利根川・関宿を経て、江戸川から江戸との舟運を開いていた事実には度肝を抜かれました。黒羽から陸路で栃木の部屋河岸や小山の乙女河岸を利用した方が距離も時間も費用も少なくて済むのにと咄嗟に思いました。でも学芸員の方の話を伺うにつれ、人で1俵、馬で2俵、小鵜飼舟で15〜110俵、部賀(都賀)舟で30〜150俵、高瀬舟で200〜1,200俵も運べた事を考えるとむべなるかなと合点がいきました。 巴波川の都賀(部賀)舟も・あんな小船で・と高を括っていましたが当時としては一番の大量輸送手段だった訳ですね。しかも当時の高瀬舟に至っては船頭と水主(かこ=船頭以外の船の乗組員)の2人で400俵を運べたそうです。下野の河川から江戸に運ばれた米は専ら浅草御蔵に運ばれたそうで、木材は深川の木場、その他の物資は小網町に集積されたそうです。 河岸についても巴波川では平柳河岸が最深端で遡航終点(そこうしゅうてん)河岸。部屋河岸、新波河岸、乙女河岸などは船の荷を積替える所で中請積換(なかうけつみかえ)河岸として区別されていたようです。 栃木の街は、巴波川の舟運で開け、河岸の起源は元和年間 (1615〜1623)の頃から日光社参の御用荷物を輸送したといわれ、江戸からの上り荷物は、日光御用荷物をはじめ、塩・鮮魚類・ろう・油・黒砂糖・干しいわしなどが、江戸川〜利根川〜思川を経て、栃木の河岸に陸揚げされ、栃木からの下り荷物は、木材・薪炭・米・麦・麻・木綿・野菜・たばこ・猪鹿の皮・石灰・瓦など。 明治になっても舟運は衰えませんでしたが、鉄路の敷線が致命的になったようです。鉄路の最大の影響は橋、鉄橋の敷設だったそうです。江戸時代には5街道を始として川を越える方法には、橋、船渡し、徒渉(かちわた)しの三つの方法があり、急流の川は徒渉し、水深が深い川は船渡しで橋は限られた所にしかなかったようです。橋が出来るまでは舟は必要欠くべからざる交通手段でした。 ところが鉄路では何が何でも鉄橋が必要になり、物資も大量に運べて鉄路と橋の便利性が認識されるようになりました。橋の為に舟運が衰退したといっても過言ではないでしょう。
当時の古地図や古文書が130点以上も展示され、1〜2時間ではとても観切れないし、また学芸員の方のガイドが無かったら、これほど価値のある見学は出来なかったと思います。
当初の予定では時間が余ったら、宇都宮城跡や大谷石の地底湖探索などに足を延ばす予定でしたが、内容の深い博物館鑑賞で正直疲れてしまいました。 お昼は宇都宮鹿沼インター近く、正式には鹿沼市上石川の土用亭まで足を伸ばした。 仲居さんが10年も前の現役時代の小生を覚えていてくれたのにはビックリ。 ゆったりとした食事を楽しみ、帰路大柿花山に寄る。ボランティア仲間で大柿花山が初めての人もいて、園主の大出(おおいで)さんと逢い、奨められて山茶花の道コースを散策。 結果的には凄く内容の濃い研修となりTさんに感謝。16:30帰宅解散。
所で山登りの県は15日の秋祭りと同じ要領でクリアしました。朝5時半に電池切れのヘッドランプを修復(結果的には未使用)し、6時に随身門から登山開始。晃石山往復の約8,500歩。 博物館と花山をたっぷり歩いたので、最終的には13,312歩をクリア。 でも明日はもっと問題! |