道の駅きたかわべには3階建の「スポーツ遊学館」があり屋上の展望台から眼前の谷中湖を含め渡良瀬遊水地が一望できる。前回はハートの谷中湖は水抜き中で湖底を露わにしていたが、今回は満水の水を溜めていた。近くには3県県境(栃木、群馬、埼玉)があり、群馬県板倉町海老瀬、栃木県栃木市藤岡町下宮、埼玉県加須市小野袋がそれぞれ接している。三県境は全国に40か所以上あるものの、基本的に山間部や川の中にあるため、サンダル履きで行けるこの三県境は全国的にも珍しい。また、この三県境から東南東に約2.4キロメートル離れた渡良瀬川上に茨城・栃木・埼玉の三県境がある。 道の駅で蕎麦とうどんを頼み、ISH君の頼んだ蕎麦を2箸だけ摘まんだ。
続いて三国橋を渡り古河市に入り野渡河岸の蔵跡のある雀神社に向かう。大学浪人中1年間過ごした処だが、古河市民はこの神社を「おすずめさま」と呼んでいたことを思い出した。 次にNUMさんの勧めもあり野木神社に向かう。目的のニリンソウは完全に終わっていたが、駐車場は車で溢れていた。フクロウがお目当てで、境内では欅の大木の左上の方にレンズの眼が集中していた。ISH君は殆どのカメラマンと挨拶しっぱなし。他人の愛犬にまで知合いの仲だと声を掛けていた。フクロウが泊まっている位置を教えてもらうも、目が悪い俺にフクロウはよく見えなかったが、彼の望遠レンズで即座に捉えたフクロウのモニター写真(さくら&ももの徒然日記をリンクすると4月30日の投稿写真で見られます)を見せて貰うとはっきりと映っていた。 樹齢1,200年の公孫樹(大イチョウ)は坂之上田村麻呂が蝦夷討伐に功を成し、それを奏でたものと言われる。芭蕉墳もあったが定かではなさそう。 国の重要文化財、野木町煉瓦釜の脇を通り野渡橋を渡り渡良瀬遊水地に戻る。野渡橋から渡良瀬川と思川の合流地点が右手に見えた。
谷中村史跡保全ゾーンの処で足の悪い3人は歩くのを諦め、ISH君の旧知の女性の売店で買ったソフトアイスで乾杯。谷中湖の北ブロック駐車場に回り、湖岸迄降り、ウインドサーフィンやヨット(スナイプ)やカヌーに戯れる若者を見た。風が強く最高の条件が揃う中、紺碧の空からセスナ機の騒音が聴こえた。4,000m上空からスカイダイビング用セスナの瀑音。 旧谷中村合同慰霊碑と新開橋北詰の藤岡文化会館駐車場入口付近に建つ、田中正造翁の銅像(高さ3.3m)を見、セスナの離着陸現場に向かう。第3調節池の中にある天然の滑走路で陽子さん達と菜の花を見に来た時にスカイダイビングの現場を直撃したところ。 セスナ機が遠くに見えたが、いつ飛び出すのだろう?手前の木陰にはスカイダイバーの車が10台位見えた。記念にと立ちション連れションで菜種になった花の海に養分を与えた。俺は便通を催すが我慢できる範疇。
ここから2qも続いた元菜の花の海を突っ走り部屋小の傍の巴波橋を渡り、午前中に見た菜の花の海を見下ろし永野川と巴波川の合流地点を眺め、途中車の中で話題になった吉田石松翁の墓を見学。昭和の巌窟王として50年ぶりに無罪放免、でも9か月後に没。なんとここにNUMさんは庭師として枝垂桜を植えたそうだが、今は跡形もなかった。
ここで今日の旅は終わりの予定だったが、次に榎本城城主に纏わるお寺巡りが続いた。まず榎本城跡を紹介してくれた。話には聞いていたが榎本城の存在場所とその案内板が同級生の三上(故人寺の住職)が携わっていたことを初めて知った。その城主近藤出羽之守字綱秀(1590年没)の墓は榎本の大中寺の傍にあり、総持山妙性院常念寺で今は廃寺になってる。観音堂には4隅と正面に見事な彫刻が施されていたが、手入れしてないので見すぼらしかった。大中寺にも序に寄って、本多大隅守忠純(1622年没)の墓を見学。榎本城の城主であったが城は没後幕府に没収。忠純の兄は本多上野介正純で徳川家康の四天王。
午後5時まで掛かってしまったが、充実した旅で、疲れは感じたが、体調に負担はあまりかからなかった。NUMさんもオーバーワーク気味だったが、帰り掛け感謝の言葉を添えてくれた。 今朝に続きトイレで今の俺にしてはドッサリ便が噴出、さっぱりした。
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