イエスは、パンと杯、即ちパンとぶどうの実で造った物を比喩して、“私のからだ”、“私の血”と言いながら弟子達に与えた。 イエスは、弟子達に何かを与えようとなされているのだが、それは、どういう事だろうか。 ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。
(それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。 「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」 )19節
(食事の後、杯も同じようにして言われた。 「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」 )20節
(私の思索) イエスの意図は、弟子達にも分からなかったようです。聖書を読み進めていくと、弟子達も分からなかった様子が書かれています。
さて、ルカが私たちに伝えたかった事は何だろう。 翻訳の問題による誤解を少しでも回避するため、手元にあるもので比較をして置こう。 <新改訳> これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。 この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。 <口語訳> これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。 <新共同訳> これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。 この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。 <比較結果> 翻訳の問題を発見できるほどの差は、感じられない。
神の御計画を理解するための重要な環境条件は何か。 @ イエスが望んでいた過越しの食事の中で、言われた言葉という事を忘れてはならない。 A この後、イエスは十字架に向かい、殺され、葬られ、三日目によみがえり、弟子達に現れたのち天に帰られるという聖書の記述が続く。十字架の苦しみと、“死”に向かうのである。 B この部分だけではなないのだが、イエスの言葉を理解するには、時刻、日付、年などの概念が一様ではない事を忘れてはならない。一日は千年の様であり、千年は一日の様なのだ。 だから、文章の前後関係をどこまで考慮するのか、注意する必要があろう。
さて、過越しの祭りの中で“私のからだ”、“私の血”と言いながら弟子達に与えると言われたのは、肉と血である。過越しの子羊の肉と血は、すぐに連想されるはずなのだが、弟子達には理解できない。 たぶん、イエスのからだが傷つけられ、血を流し、いのちを失う事など想像も出来ないのだ。 福音書が書かれたのは、イエスが死に、葬られ、三日目によみがえって弟子たちの前に現れ、天に帰られ、過越しの50日目に、聖霊(神の霊)が弟子達に激しくくだり、弟子達が伝道活動をするようになってからだ。 即ち、弟子達は、前述の事柄を目撃した後で、聖霊の助けを得て、ようやく神の御計画を感じ取ったのです。
神の計画とは何か。 「あなたがたのために与える、わたしのからだです。」 という言葉に含まれている意味だろう。 イエスのからだ、即ち、人の心の苦楽を理解し、神の意図を理解できるような霊を宿すからだを、信じる一人一人に与えると言われたのだろう。
15節で、イエスが 「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」 と言っておられるのは、そのために赦しの計画、即ち 「わたしの血による新しい契約」 を過越し祭りの第一日目に、宣言したいと望んでおられたのだと、私は思いたい。
イエスは、人間としてのからだを離れ、本来の霊のからだとしての働きに戻られる事を、意識し始めておられたのではないだろうか。 その後にも、神の御計画をイエスが実践されたように、この世の中で実践していく身体が必要だ。 だから、それをあなたがたに与えると言われたのだと考える事が出来ます。 (他の受け止め方もあると思いますが・・・・・)
しかし、問題が残ります。その個人(弟子達を初め私や貴方)に実践する力が有るのかという問題です。
一つの対処策が、次の事です。
「わたしを覚えてこれを行ないなさい。」 とは、 「記念するため」 という訳語にも現れているように、イエスの身体が十字架の上で死んだこと、それも私たちに与えて下さるために死んだ事を、覚える・(記念する)・思い出すために、あの儀式を繰り返して実行しながら、福音の奥深さを味わいなさいと言われた。 私は、自分でも驚くほど忘れ易く、事々の関連性など理解出来ない事を、イエスは先刻御存知であるということだ。
(私の脳裏をかすめる言葉) 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 ヨハネ15章13節
(私の感想) 部分と全体の関連を把握することが、これほど困難な作業になるとは、予想できなかった。
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