イエスは、前回の記事で、偉い人は一番年の若い者のようになりなさい、仕える人のようでありなさいと言われた事に触れたが、それに続いて試練の時についていった弟子達に、王権を与えますと言われた。 ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。
(けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。)28節 (わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。)29節 (それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。)30節
(私の思索) 手がかりとなる知識が全くなく、理解困難な言葉が二つある。 一つ目は、王権とはどんな権利なのかであり、二つ目は、いつの出来事を指しているのだろうかということだ。
それで、他の福音書を調べて見たところ、マタイの福音書に, 背景が異なるが、極めて類似した言葉があった。 マタイ19章28節、そこで、イエスは彼らに言われた。 「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。 このマタイ19章の言葉は、“世が改まって”と言っている。 今の世が終わり、次の世(ルカ20章35節参照)になったあとに実現する事と理解できよう。
また、聖書注解(いのちのことば社)には、ルカの福音書の直訳として次の文章を提示してあった。 ルカ22章30節直訳: 「わたしの父がわたしに王国(権)を契約して下さったように、わたしもまたあなたがたに、わたしの王国でわたしの食卓で飲食して、座についてイスラエル十二部族をさばくことを、契約します」 とある。
この直訳文を見ると、今後の事であり、“わたしの王国でわたしの食卓で飲食”という部分からは盛大な宴会(ルカ14章16〜24節参照)の中の“私の食事を味わう者”が思い浮かぶ。 もしそうなら、“第一の復活にあずかる”(黙示録20章6節参照)時に実現する事柄であろう。
同時に、王(イエス)の食卓への参加が、王(イエス)の支配への参加に直結している。 だから、王の食事とは、身体のための食事ではなく、霊に属する食事と考えて良いと思う。
28節の 「さまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たち」 とは、その言葉が過去形である事から、直接の弟子達(ペテロやヨハネ)等のように受け取れる。 しかし、イエスは過去や未来を区別しない事があるので、直接の弟子達だけではなく、過去&未来の教会に関わる苦闘者をも含むのであろうと感じる。
29、30節は、内容が漠然としたままだが、聖書全体から新しいヒントを与えられるまでは、文字通り受け止めておきたい。
(私の脳裏をかすめる言葉) キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。 ヘブル9章28節
(私の感想) 何らかの本で読んだ事として記憶の隅に残っているのだが、理解出来ない事柄に出会ったとき、無理に分かろうとしなくて良いと述べたものがある。 無理に結論を出すと、後々になっても遠大な意味があることに気付き難くなるからだそうだ。 まして、神がなさる事について、すべてのことが理解できるはずがなく、結論を出さないのが良いと思う。 とはいえ、私の内側に、王国で王の食事を味わいたいとの願いが生まれた。
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