イエスが「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われて、苦闘の祈りをされていた時、弟子達は眠り込んでしまった。 ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。
(いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、 「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 と言われた。)40節 (そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。)41節 (「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」)42節 (すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。)43節 (イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。)44節 (イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。)45節
(私の思索) 43節、ルカに祈りの様子を伝えた弟子が誰であったのか分からない。 また弟子に何かが見えたのか、睡魔に襲われながらイエスを力づける何らかの力を感じた可能性も想像できるが、ルカは 「御使い」 の援助として記録した。 44節は、 「苦しみもだえて・・・・・・汗が・・・・・落ちた。」 と記録している。 石を投げて届くほどの距離から、弟子達に見えた様子だ。 激しい格闘をしているかのような祈りであったのだろうか。 私には想像すらできない。 45節、この部分の記録は、ルカの解説である。 イエスの視点で書かれており、イエスから聞いて(或は聖霊に導かれて)記録した様な文章である。 弟子達の立場は、イエスの声で眠りから覚めた時、そこにイエスが居られた。私たちは悲しみのあまり眠り込んでいたのだ・・・・・・・・という証言になるはずである。
おそらく、ルカは、弟子達(ルカ自身や私を含めた人間)の実態を表現したかったのではないか。
私たちが、神の国にふさわしい“いのち”をもつために、イエスが苦闘しておられるのに、人間は眠り込んでいるということである。 私が今、こうして祈りつつ思考を進めているのに、睡魔に襲われる。←・・・・・・これは私個人の問題だが。
(私の脳裏をかすめる言葉) あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。 Tペテロ4章3節
(私の感想) 私は、お茶を飲んで睡魔に対抗する。いくばくかの効果があるが思考回路を広げる事さえ出来ない。諦めて床に付くと、お茶のカフェインが効果を発揮し始める。禁止薬物のとりこになる方々の事を考えている自分に気付いて、寝床から起きてしまう。 具体的な課題を前に置かず、イエスの祈りを想像によって理解しようとする事が、そもそもナンセンスなのだ。
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