イエスは、苦闘の祈りをしておられる。 ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。
(それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。)39節 (いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、 「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 と言われた。)40節 (そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。)41節 ( 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 )42節 (すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。)43節 (イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。)44節 (イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。)45節
(私の思索) 41節、 「弟子達から・・・・・離れて祈られた」のは、祈りに集中するためでしょう。 「石を投げて届くほどの所」 とは、弟子達に祈りの言葉が聞こえ、祈りの表情が見えている事などから、2~30メートル程度だと私は感じる。 42節、 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。」 と祈り、 「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 と祈ったと、ルカは伝えた。
しかし、ルカは、この祈りの現場にいなかったので、実際の言葉は聞いていない。 これを書いた環境は、パウロとの伝道旅行の過程で、書いたであろうとすると、パウロから聞いた可能性があるが、パウロも現場にはいなかったのだ。 おそらく、祈りの現場にいた弟子達から、別の機会に聞いたのか、弟子達から聞いた人々がいて、ルカが聞きだしたのかもしれない。 従って、ルカが伝えているのは、祈りの要点として弟子達の心に残っていた言葉を、ルカの視点で整理したものであろう。 だから、祈りの言葉は短いのに、その間に弟子達が眠り込んでしまうという思考をする必要は無い。
さて、私は、既に十字架の様子や復活の記事を複数回読んでおり、複数の牧師から複数回のメッセージを聞いている。そして今回、自分の知識と心で、イエスの心に近づこうと考えていたのです。 それで私にわかった事は、 「立ち入ることが出来ない祈りであり・近寄れない祈り」 であるということだ。 更に、ルカ18章32~33節の言葉 「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 を前提として、殺されてもよみがえるのだからと自分に言い聞かせても、42節の言葉を自分の祈りとして経験する事は出来ないものでした。
43節、御使いについて、詳しく知る方法を、私は知りませんが、神のひとりごイエスでさえも何らかの助けを得なければならないほど、険しい祈りの世界なのでしょう。
イエスは、私たちの自己中心性・保身性(罪)から、神を愛し、隣人を愛する者へと開放するために、まず祈りの世界で苦しまれました。自己中心の権化である“私”の代わりに、御子イエスが苦しまれたと受け取りたい。“私”には、重苦しい祈りなど出来ないからです。神の御前で“私”は役に立たない邪魔者である。 「この杯をわたしから取りのけてください。」という言葉は、“私”の切なる願いだから、“私”が頑張っている限り前に進まないだろう。 しかしながら、イエスは 「わたしの願いではなく、(・・・・・・・あざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられ、むちで打たれ・・・・・殺され)る事が、父よ、あなたのみ心なら)みこころのとおりにしてください。」 と祈るのだ。
“私”にはできないが、神にはできるのだ。
(私の脳裏をかすめる言葉) 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 ローマ7章18節
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 ヨハネ12章24節
(私の感想)独り言 私は以前、このブログの中で 「半歩ずつでも前進したい」 と書いたことを思い出します。 そして、いろいろな事柄が“私”の問題である事を感じていました。 聖書の言葉を思いめぐらし思考する私と、内なる権化である“私”が対立する時、私の歩みが、極端に遅くなるようです。 今の私は遅くても良いから、行ける所まで運んでいただきたいと思う。誘惑に陥らないように祈ろう。
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