いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2008/08/16 16:25:18|聖書
ユダの苦しみ
ルカによる福音書22章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。)1節
(祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。)2節
(さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。)3節
(ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。)4節
(彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。)5,6節



(私の思索)
私の頭の中は、 「過越の祭り(種なしパンの祝い)が近づき、祭司長達はイエスを殺す方法を捜していた。」 というストーリーになっていた。
私は、これまでの経過から、イエスは過越し祭りの子羊として、死のうとしておられる事に気付いていたからだ。

聖書記者ルカも、その事を書きたいはずなのだ。
私が持つ聖書の執筆年代によれば、ルカは、パウロの伝道旅行に同行しながら書いたと考えている。
わたしも、なるほどと思う。
パウロと、その周りにいる人々からいろいろ聞き出し、丁寧に整理して書いたと考えるのが妥当であろう。
ルカは、過越しの祭り・祭司長達の殺意・ユダの裏切りを独立した事柄として、冷静に表現している。
2節の文章も、私の思いで書くなら、祭司長・律法学者達は、民衆が納得するイエス殺害の口実を捜していたとなってしまうのだが、翻訳者も冷静ですね。

3節は、理解しにくい。
ユダは、十二弟子の一人であったのに、その内面では、政治的メシア王国確立の期待が大きいままであったのだろう。5節・6節に現れているように、金銭欲と合わせて、その基本的願望が、イエスから離れかけていた可能性がある。「サタンが入った。」とは、脚注によると、――イエスの背後に悪魔的な力が働いていたことを示す。――とあるが、私達人間の思いが、創造者よりも望ましい何かが有ると感じさせる力が、サタンの性質ではなかろうか。

注目したいことは、悪魔的力が働いても、6節の通り、イエスの行動に対して、機会をねらう程度を超えて書かれていない事だ。これらの事から、サタンの力は、神の力を超えるものではなく、神の支配を揺るがす力は無いと考えてよいのであろう。但し、その誘惑の力は、人の意志力をはるかに超える可能性がある。

4節のユダの行動が、現代でも批判の対象になる。
それは、通常なら、衝動的に行動を開始しても、その過程で複数回の自分に対する反問があって、決行するかどうか躊躇することが多いものだ。
とすると、ユダは、3節以前に繰り返し悩んでいて、3節は最後の決心をした事になる。
イエスを十分に観察し、自分の判断に頼ったのだ。
イエスの不思議、イエスの説話、イエスの生活を全て見聞きしていたのに、イエスに直接質問・相談する機会が十分にあったのに、師として認めようとしなかったことになる。
ユダの内側の事実を知る方法は無いが、現代の我々にも考えさせられる事が多い。


(私の脳裏をかすめる言葉)
「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」 ルカ9章22節


(私の感想)
創世記3章1節の文章、蛇は女に言った。 「・・・・・・・と神は、ほんとうに言われたのですか。」 という問いかけは、個人の洞察・直感・過去に聞いた事を超えるからだろう。
どうしても、 「書かれている」 事に頼らざるをいない。







2008/08/08 22:40:26|聖書
木の芽が出ると、夏が近い
イエスの話しが、困難な時代が来るが、やがて、 「人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。」 と言われた。
即ち、イエスは、使徒の働きの時代に天に昇り、世の終わりの前に、もう一度来と話したが、引き続いて、人々にたとえを話されるのである。
ルカによる福音書21章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(それからイエスは、人々にたとえを話された。 「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。」 29,30節

(そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。)31節

(まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。)32、33節

(あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。)34、35節

(しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」)36節

(さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。)37節

(民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まって来た。)38節



(私の思索)
イエスが、たとえによって話をするのは、非常に大切な真理を話そうとする時である。真剣に求めない人々には、理解できないようにする意図があったのだろうか。私のようなヨチヨチ歩きの者には、転ばずに進むために、やや緊張する場面である。筆者は、29節から31節の意味を、次の様に理解する。

(すべての木を見なさい)この世の動き、全世界のニュース、特に、天体と気象に関連する情報に注意していなさい。
(木の芽が出ると) 25、26節で述べたような現象が起き、話題になり始めたなら、(夏の近いことがわかります) 人々は、(人の子)イエスが、力と輝かしい栄光を帯びて、雲に乗って来るのを見る様になる日が近いのです。神の国は近いと、自分自身で判断しなさい。
すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。私の言葉が理解できる(あなたがたは)、やがて起ころうとしている諸々の困難から逃れ、(人の子)イエスの前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

ルカは、イエスが話された事を書いた後、その頃のイエス達と民衆の行動を、簡潔に書いている。(37,38節)
イエスの話が、激しい内容であったため、急に平穏な世界に戻ったような錯覚が起きる。
しかし、祭司長達がイエスを殺したいと考えている事に変わりはない。
昼間は、民衆がイエスの回りにいるため、祭司長達といえども殺害行動は出来ない。夜になって民衆が離れた時は、危険を避けるために、目立たない山の中へ移動していたのだろう。

平均的な民衆の日常生活は、どんな様子だったのだろうか。
イエスの話が、重大な内容を含んでいたとしても、朝早く起きて集まって来るためには、朝食、掃除、洗濯、労働(経済活動)などの、多くを犠牲にしなければなるまい。
38節の“民衆はみな”とは、“おおぜいの民衆が”という程度だろうと思いたいのだが。
あるいは、朝早くから宮に来る事が出来た民衆は、イエス以外のところへ行かず、誰もが、イエスのもとに集まって来たということかもしれない。

天体の異常と思われる記述の内容が、何なのか判らない。現在の天文学者が把握しているそれらしき現象を調べてみた。

恒星には終りがあるという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E6%98%9F
超新星(ちょうしんせい、supernova)は、恒星がその一生を終えるときに引き起こす大規模な爆発現象である。


(私の脳裏をかすめる言葉)
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 ローマ5章3〜4節
参考(新改訳、練られた品性)←→(口語訳、練達)


(私の感想)
イエスが再びこの世に来られることについて、聖書のほかの部分にも書いてあるので、総合的に理解する努力が必要でしょう。しかし、それ以上に大切な事は、困難を耐え抜く忍耐なのでしょう。
また、21章38節の民衆と23章でこのあと登場する民衆は、なぜ、これほどの違いを見せるのか、理解出来るだろうか。驚くほどの違いだ。







2008/08/04 11:17:12|聖書
困難な時代が来る V
19節で、「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」と結論のような言い方をされたが、イエスの話が続きます。
ルカによる福音書21章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。
贖いが近づいたのです。」)20〜28節



(私が持つ聖書の補足欄から) → 「脚注」 の紹介を中止することに致しました。御了解下さい。


(私の思索)
今回、取り扱う最初の言葉は、 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」 である。この部分は、エルサレム滅亡の預言である。紀元70年に起きたことが思い当たるのだが、27節には、キリストの再臨と思われる文章があり、28節には、 「贖いが近づいた」 と書かれている。読み流す程度では、理解できない。
筆者は、西洋史はもちろん、イスラエルの歴史をほとんど知らない。自慢にならないのにも程があるのに、勉強嫌いです。されど、手元にインターネットという図書室があるので、検索した。
見つけたのが、以下のページと内容である。

無神論者が見る聖地と紛争地の今!→ http://homepage2.nifty.com/hashim/israel/index.htm
この中の, イスラエル/パレスチナ年表→ http://homepage2.nifty.com/hashim/israel/israelhistory.htm
この年表から、エルサレムに関する主要事件をピックアップした。
紀元70 エルサレムのユダヤ人反乱、ローマ軍ティトスにより鎮圧される。第二神殿破壊される。
紀元614 ペルシア軍がエルサレムを蹂躙。
紀元1099 十字軍、エルサレムを攻略。キリスト教の「エルサレム王国」を建国。
・・・・・ユダヤ教徒やイスラム教徒、カトリック以外のキリスト教徒の大規模殺戮が行われる。
紀元1831 エジプトのムハンマド・アリーがエルサレムを支配(〜1840)。
紀元1917 12月9日、オスマン帝国軍エルサレム守備隊、イギリスに降伏。

以上の記事から見ても、エルサレムの滅亡に類する事件が、複数回起きている。
これはどこまで続くのだろうか。

私の思考は、9節の  「終わりは、すぐには来ません。」  という言葉に戻ってしまうのだが、27節に、 「 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」 と書かれていて、永遠に続く事ではないから諦めるな、と宣言している。

ここでも 「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」 (ヘブル10章36節)と心に囁かれる。 「忍耐」 が繰り返し説かれねばならないほど、困難が厳しいものであり、  「忍耐」 を失うと、信仰まで失う可能性が高いのだろう。

さて少し、サービス精神を発揮して、重要でない様な気付きを書いておこう。
24節に、 「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」 と書いてあるが、この事はすでに起きている。
そして、25、26節には、天文学的領域の異常現象や、地球温暖化現象などをはるかに越える超異常気象現象と思わせるような記述があるが、私が知る限り、まだ現実問題として報告されていない。
仮に、この世の歴史が、24節から26節の記述に全て書かれていると仮定すると、現在は、 「異邦人の時」 である。

いずれにしても、27節や28節を期待しながら、 「忍耐しなさい」 という事を教えている。


(私の脳裏をかすめる言葉)
この希望は失望に終わることがありません。 (ローマ5章5節)


(私の感想)
福音の完成を知らされ、福音に預かる信仰をいただく人々は、幸いだ。
「終わりは、すぐには来ません」 と言われても、手元に確かな希望があるからだ。
28節に 「贖いが近づいたのです。」 と書かれているのは、パウロが説く、福音信仰による贖いではなく、再臨に伴う贖いであろう。私にとって、全くの未開地である。







2008/07/30 8:36:01|聖書
困難な時代が来る U
9節で 「終わりは、すぐには来ません。」 と語った後、再び困難の到来を語り続ける。
ルカによる福音書21章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(それから、イエスは彼らに言われた。
「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。
しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。
それはあなたがたのあかしをする機会となります。
それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。
しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。
中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。)10〜19節



(私が持つ聖書の補足欄から) → 「脚注」の紹介を中止することに致しました。御了解下さい。


(私の思索)
困難な事や不安な事が羅列されているので、全体を把握し易くするために、言葉を圧縮してみると、次のようになる。

民族の対立、国の対立、(暴動・戦争)←→生活困難だが耐えなさい。
疫病、飢きん、(病・飢え)←→生活困難だが耐えなさい。
大地震、天体の異常、(自然界の異常)←→人々は不安になるが、あなたは承知して耐えなさい。
捕縛、投獄、迫害、権力者の前で弁明←→神が、語る言葉と知恵を与えると約束される。神を待て。
両親・兄弟・親族・友人達の裏切りがあり、憎まれる。←→髪の毛一筋も失われないから耐えなさい。

結論は、19節。忍耐によって、自分のいのちを勝ち取る事が出来る。


(私の脳裏をかすめる言葉)
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。ヘブル10章36節


(私の感想)
私にとって迫害は、好ましいものではないが、迫害を受けるほどの信仰を頂きたいと思う。
そうなってこそ、信仰と言えるのであろう。単なる知識の程度では、「いつも喜んでいなさい」という要求に、応えられない。







2008/07/27 16:04:31|聖書
困難な時代が来る T
聖書は、難解な内容が多いが、私にとって、この部分は難解な代表格の1つだと感じている。難解な原因は、Uペテロ3章8節が暗示する様に、時間軸を圧縮され、順序が入れ替えられて表現された内容が多いためだと思っているが、他に理由があるかもしれない。
ルカによる福音書21章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(宮が石や奉納物で飾ってあると話していた人がいた。すると、イエスは「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」と言われた。)5〜6節

(彼らは、「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」とイエスに聞いた。)7節

(イエスは「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」と言われた。)8〜9節


(私が持つ聖書の補足欄から)→ → → 補足欄ではなくて 「脚注」 と呼ぶのが正しいようです。 → → → それと、この 「脚注」 は非常に便利です。難解な本文でも、頑張って読んでみようと思うのは、この 「脚注」 があって、なるほどと感じさせてくれるからです。 → → → それで、ハタと困ってしまいました。 → → → この便利な文章を、このまま紹介してしまってよいものか。 → → → 出版社に迷惑がかからないのか → → → それで、私が出した結論は、今回まで紹介させていただき、次回から紹介しない事とします。 → → → 皆様がお持ちの聖書が、私の物と異なるなら、是非、同じものを入手なさることを、お勧めします。 → → → 翻訳が異なる聖書を、比べながら読みますと、新しい気付きがあるかもね。 → → → ちなみに、私の聖書は、「新改訳」聖書、注解・索引・チェーン式引照付、いのちのことば社、です。 → → → ヨチヨチ歩きの筆者の感想。

(脚注から)
5節、(〜36節まで) : マタイ24章とマルコ13章に共通した終末預言。ルカは大筋の構成において、マルコに従っている。その大半は終末に対する心構えを正し、教えるためのもので、終末に至るまでの歴史の予告や、予報ではない。したがって、ここでの予言の内容は、慰めと励ましと約束、肉の思いへの警告である。

7節、これらのこと : 複数形で、神殿滅亡のことではなく、世の常識を覆す終末的逆転の諸事実を指す。

8節、惑わされないように : 基本的原理から決定的に脱線しないように。 


(私の思索)
5節で、話題になっていた 「宮」 とは、エルサレム神殿を指しているものと思って良いだろう。
しかし、この話題に対する6節の警告は、何だろうか。紀元70年に起きた神殿崩壊という歴史の事実としてだけ、受け取ってよいのだろうか。

おそらく、イエスの意識の中には、建物の崩壊だけでなく、祭司長達による信仰支配の崩壊、民衆の信仰形態の崩壊なども、含んでいたであろう。
そして、大切なことは、信仰形態の崩壊に伴い、本来の信仰への回帰を期待しておられたに違いない。

即ち、見ているものの中には、建物以外に、積まれてきた習慣・考え方・政治形態なども含まれているでしょう。習慣であれ、考え方であれ、政治形態であれ、それぞれが固まった石のように変化しそうもないのですが、自分達にとって都合よく積上げられ、すばらしく見えても、本来の姿から離れたものは、いつか崩される日がやってきますと警告しているのでしょう。

神が、モーセを通して、人間に提示した基本は、 「神を愛し、隣人を愛しなさい」 という事だ。だが、この時代の宗教指導者たちは、自分が尊敬され、自分の財産が増すことを好み、病人・やもめ(貧しい人)等の社会的弱者は、顧みられていなかった。
そして、人々の関心事は、 「いつ起こる」 のか、どこで起きるのか、事前に知る方法があるか、といった事柄に移っていく。(実は、筆者にもそうした傾向があるので、自戒せねばなるまい。とはいえ、すぐに忘れてしまう愚か者なのです。)

イエスは、 「人の言葉に惑わされるな」 、 「戦争や暴動を怖がるな」 、 「世の終わりはすぐには来ない」 と教えた。 「惑わし」 ・ 「戦争」 ・ 「暴動」といったこと は、海の波のように繰り返しやってくる。世界の歴史を見ると、ほとんどの地域で、戦争や暴動が繰り返して起きているようだ。(中でも、第一次世界大戦と第二次世界大戦は、各地で同時に戦争が起きた事で、大きな影響を残した。)

注目したい言葉は、 「わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、 『私がそれだ。』 とか 『時は近づいた。』 とか言います。」 であろう。
しかしこの言葉は、(27節にも出てくるが、) 「主の再臨」 という大きなテーマに関連しているもので、ここでは、不思議な言葉という評価にとどめる。・・・・・・今の私の手に負えないため。



(私の脳裏をかすめる言葉)
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」 (ヨハネ14章1節


(私の感想)
戦争や暴動の原因が、こういうところにあるといった解説や指導をなさらず、 「怖がるな」 とだけ警告されたのは、怖がることが、大切な判断力を失わせるからだろう。
 「世の終わりはすぐには来ない」 と話されたのは、世の終わりがあるが、今の世における人生を、次の世に向かう準備と考えなさいということだろうか。