祭司長たちの間者に対する回答も、サドカイ人の質問に対する回等も、その説明が素晴らしいので驚き、質問する勇気がなくなった。 それで、イエスが、人々に「ダビデの子」という言葉について、深く考えさせるための問題を出した。 ルカによる福音書20章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。
(彼らは、それ以上何も質問する勇気がなかった。)40節
(すると、イエスが彼らに 「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。 『主は私の主に言われた。 「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」 』 こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。」 と言われた。)41〜44節
(また、民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに 「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」 と言われた。)45〜47節
(私が持つ聖書の補足欄から) 42節、 : ダビデと詩篇とは、 「モーセ」 と 「律法」 のように、同義語(使徒四25、ヘブ四7)。
44節、どうしてキリストがダビデの子でしょう。 : ダビデの子であるキリストはダビデの主でもある。
46節、長い衣 : マタイ二三5 「衣のふさを長くし」 、マコ一二 特に学者や富者たちが威厳を示すために着た。
47節、やもめの家を食いつぶし : マタイ二三14 律法学者、パリサイ人たちは、専門の法律家の地位を利用して、富めるやもめの訴えを処理し、その財産をかすめていた。
(私の思索) 40節の 「質問する勇気がなかった」 とは、 「イエスに何かを問いかけて、困らせ、うまくいくなら民衆の反感や疑いを持たせるようにする勇気(蛮勇)すらなくなった」 という意味であろう。 イエスの説明の素晴らしさに、感心してしまったからであり、その辺りの感覚が、39節の律法学者の発言に現わされている。
43節は、詩篇110篇1節の言葉だ。 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」 この詩篇は、ダビデの賛歌と呼ばれている。 「私の主」とは、 「ダビデの神」 と置き換えられる内容だ。 先頭の 「主は」 とは、NKJ訳によれば 「The Lord said to my Lord,」 と訳されているので、混乱するところだが、イエスの立場なら 「父なる神は、ひとり子なるキリストである私に」 仰せられると説明されている部分だ。なぜそうなのかは複雑なので、省略したいが、44節の補足欄を、そのまま受け取って頂ければ、全体として理解できるでしょう。 しかし、イエスの問いかけは、律法学者達の思考を混乱させたに違いない。
45節の、 「民衆がみな耳を傾けている時に」 とは、イエスが、ご自身の問いかけに対する、わかり易い説明をして下さるだろうと期待して、 「民衆がみな耳を傾けている時に」 であり、弟子達に向かって言われたのだが、民衆にも、律法学者達にも、聞こえるように言われたのであろう。
イエスは、律法学者達に、自分の心の醜さを気付かせ、悔改めの機会を与えたのに違いない。しかし、多くの指導者たちは、更に頑なになっていく。 彼らの中の “彼ら自身” は、苦々しい思いをしみながら、なおも生き続ける。
ここで、イエスの 「律法学者評」 を見ておこう。 そのキーワードが二つある。 「好きです」 と「見栄を飾るために」である。 これらを、少し誇張して書いてみよう。 @ 彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたり、会堂の上席や宴会の上座が好きです。即ち、人々の尊敬や、高い評価を受け、周りの者を見下すのが好きなのです。 A 彼らは、信仰深いように見せるため、人々が見ているところで、長い祈りをします。こうして得た信頼と、専門の法律家の地位を利用して、富めるやもめの訴えを処理する時、高額な費用を要求して、財産をかすめています。得た富は、見栄を飾るために用います。
律法学者達によって、 「あの方は、罪人のところに行って客となられた。(ルカ19章7節)」 と評価されたイエスと、全く反対の行動である。 イエスと律法学者評の言葉と行動から「隣人を愛する」とは、どのようであり、どのようでないか、見ることができる。
(私の脳裏をかすめる言葉) イエスは、みなの者に言われた。 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。 ルカ9章23,24
(私の感想) 「隣人を愛する」 力を、私の中の “私” は持っていない。 今のままなら、イエスについて行く事ができない。 でも、ついていきたい。
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