いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2008/06/11 23:27:39|聖書
あなたがたに話すまい
マルコ11章11、19節によると、イエスたちは夕方になると都を出て、ベタニヤに行って宿泊した様だ。
そして、商売人たちを追い出したのは、エルサレムに着いた翌日として記述されている。
ルカはこうした時間の流れを省略しているので、そのつもりで読まねばならない。
ルカによる福音書20章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。

(イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、イエスに言った。
「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」)1〜2節

(そこで、 「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」 )3〜4節

(すると彼らは、 「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」 と言って、互いに論じ合った。)5〜6節

(それで、 「どこからか知りません。」 と答えた。 するとイエスは、 「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」 と言われた。)7〜8節



(私が持つ聖書の補足欄から)
1〜20節、 : ルカは、イエスの権威についてのサンヘドリンとの問答を、宮清めと一組に扱い、両者を区切る日付の境(マタイ21章18節、 マルコ11章19節)を省いている。


(私の思索)
何の権威によって、これらのことをするのか、という問答が始まったのだが、ここでは二つの問題がある。
言葉通り 「何の権威」 という事と、 「これらの事」 とは何かという事であろう。

先ず、 「何の権威」 についてだが、祭司長、律法学者、長老たちは、旧約聖書を熱心に調べており、イザヤ56章7節の言葉も熟知していたであろうから、神からの権威と感じ取っていたであろう。
イエスは、父とわたしは、1つだと意識しておられるから、神の権威によっているのだ。

一見、何の問題もなさそうに見えるのだが、祭司長たちは、民衆の前で 「神の権威」 という発言をさせ、神に対する冒とく罪という名目で、民衆による“石打の刑”にしたいのだ。(ルカ22章70節参照)

次に 「これらの事」 とは、 「商売人たちを追い出した事」 と 「宮で民衆を教えている事」 だろう。
特に、 「商売人たちを追い出した事」 は、その活動を祭司長達が容認してきた事柄なので、それを否定する行動は、彼らのプライドを激しく傷つけ、彼ら自身が非難の対象になっている事を、感じ取ってていたことであろう。
また、 「宮で民衆を教えている事」 は、自分達の指導より、民衆が熱心に聞きたくなるような内容であったので、いまいましい思いをしていたのではなかろうか。


(私の脳裏をかすめる言葉)
「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、 『悔い改めます。』 と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」 ルカ17章4節


(私の感想)
この時のイエスは、何を考えておられただろうか。

イエスは、彼らが自分達の誤りを認めて、本来の信仰に戻るように、願っておられたのではなかろうか。







2008/06/10 8:29:07|聖書
祈りの家であるべきなのに
イエスは、オリーブ山沿いの小さな町ベタニヤを経由して、エルサレムに入った。即ち、都の東側にある門から、神殿のソロモンの廊に入っていったのであろう。
ルカによる福音書19章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、 「 『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』 と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」 と言われた。)45〜46節

(イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。
民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。)47〜48節


(私が持つ聖書の補足欄から)
45節、商売人たちを追い出し、 : エルサレム神殿では、祭司によって点検されたいけにえに用いる動物が売られていた。
また、各地の通貨をユダヤのシェケルに両替して神殿税を納める必要があったので、両替人が台を並べていた。

しかし、これらの商人は自己の利益のみを追求し、神のことなど少しも思っていなかった。

47節、イエスは毎日、宮で教えておられた :この事実が、宮きよめに積極的な内容を与えている。


(私の思索)
今回の聖句考察に入る前に、イエスとエルサレム宣教の関係を、整理しておきたい。ルカの福音書に限って調査した結果は、次の通りである。お手元の聖書で確認してください。
ルカ2章22節、 : 両親は幼子をささげるために、――連れて行った。
ルカ2章41節、 : 両親は過越しの祭りには毎年――行った。
ルカ2章42節、 : 12歳の時も――都に上り・・・・宮で教師達の真ん中に座って・・・・・・。
ルカ4章9節、  : 悪魔は――連れて行き・・・・・・・・御霊の力を帯びて、ガリラヤに帰られた。
したがって、イエスが福音宣教のために、エルサレムに来た事を記すのは、この部分が初めてである。

エルサレムの神殿に入られたイエスは、商売人たちを追い出し、「私の家は、祈りの家であるべきなのに、強盗の巣にした。」と非難した。
これは、イザヤ56章7節に「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」を指しており、遠くは、T列王8章43節「この宮では、御名が呼び求められなくてはならないことを知るようになるでしょう。」に始まると思う。

過越しの祭りが、目前に近づいている時期だが、ユダヤ教の形式を残しているものの、お金さえ準備すれば、簡単に「いけにえの動物」が準備できてしまう仕組み(商人が儲かる仕組み)によって、神の前に人が立つ真摯さ、神と人との交流という本質が、軽視されるようになってしまった。

旧約時代の過越しの準備は想像以上に大変である。(詳しくは、出エジプト12章1節以降を参照)
その月の10日に羊1頭を用意し、14日まで見守る。14日の夕方に殺し、血を二本の門柱と鴨居に塗布する。夜に、その肉を焼いて食べる。etc。
神は、こうした1つ1つの行動を通して、人が真摯に神の前に立ち、心を注ぎだす事を望まれたのでしょう。

不思議な事だが、エレミヤ7章11節で「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。」と述べられている。
イエスが、「強盗の巣」と表現したのは、人間の、行動を伴なう本質的信仰心と、代金を、神殿の必要のために納めるのでなく、商人が(儲かる仕組みによって)奪った――と言っているように感じる。

信仰の本質が見失われてくると、何時の時代でも、信仰活動が利得の手段になってしまうという警告かもしれないのだが、機会を見つけて考えてみる価値がありそうだ。

少なくとも、エルサレムの実態が、エレミヤ時代の実態と同じようになっていたのであろう。

そして、48節で、祭司長達が「どうしてよいかわからなかった」とは、イエスを殺そうとねらっていたが、民衆に疑念を与えないで殺す、という方法が見つからなかったということでしょう。

イエスは、祭司長達の殺意を察知しながら、毎日、神殿の中で福音を語り、民衆も熱心に聞いていた。
このイエスの姿勢を見ると、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」Uテモテ4章2節が連想されます。

しかし、民衆が喜んだという記述がないのはなぜか。イエスは、何かの「不思議」をされることもなかった。
不思議な噂を聞いて、期待しつつ待っていた人々が、一人もいなかったのだろうか。

ただ、民衆の心は、形骸化した律法学者達の話より、イエスに傾いていきそうだが。


(私の脳裏をかすめる言葉)
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(ルカ11章9節)

彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。 (ローマ1章28節)


(私の感想)
重苦しい空気だけが残る。
私(このブログの筆者)自身が、聖書が伝えている信仰から、自然に生まれる行動にしたがって、生きたいのに、ぎこちなさを感じていた。
聖書知識が、信仰にまで成長することを期待しつつ。さらに神を知りたい。







2008/06/07 20:27:06|聖書
目から隠されている
前回投稿の聖書記事では、弟子達の群れが、ロバの子に乗ったイエスを喜んでいるのに、同じ群れの中に、反抗するパリサイ人が混在していた。
聖書記者(ルカ)は、パリサイ人の混在を明文化する事によって、エルサレムの信仰的実態と、その運命を予感させようとしたのかも知れない。
ルカによる福音書19章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(エルサレムの近くまで来たころ、都を見られたイエスは、都のために泣きながら 「お前も、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、その事がお前の目から隠されている。」)41〜42節

(「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」 と言われた。)43〜44節



(私が持つ聖書の補足欄から)
41〜44節、 : 都エルサレムのために涙を流されるイエス。イエスのエルサレム入城は、 「勝利の入城」 というよりも 「涙の入城」 であった。

42節、その事がお前の目から隠されている。 : パリサイ人とエルサレム住民の無理解を嘆く。

43,44節、 : お前の敵、ティトゥスに率いられるローマ軍。このローマ軍によるエルサレム攻略で、文字通りエルサレムの滅亡が、紀元70年に成就する。


(私の思索)
今回の聖書記事は、イエスの嘆きと、パリサイ人に代表された宗教指導者達と、その指導によって、真理を見ようとしなくなったエルサレム住民に対する、イエスの嘆きと滅亡の預言であろう。

イエスは、 「もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。」 と嘆くのだが、ここで、“平和の事”とは何かが、わかり難い。
旧約聖書の専門家として、自他共に認めるパリサイ人が、冷静に聖書をチェックすれば、神に対する人の背き、神の憐みと預言者による警告、神の救いなどが書いてあるので、気付いても良かったのだが、大工の子、片田舎ナザレ出身のイエスが、神の子とは思いたくなかったのであろうか。
それより、宗教家達も 「平和の事」 を知らないまま、民衆と同じように政治的救い主を待っていたと考えるのが自然だろう。

「平和の事」 とは、 「柔和で、ロバに乗られる」 事に現わされているが、 「過越しの子羊」 による、父なる神と人間との平和・和解に想いが至らなかったのだ。
武力による、政治・経済的開放だけが、イスラエルの救いだと思っていたのだろう。

イエスは、弱っている人々、苦しんでいる人々、見捨てられた人々、さげすまれた人々に、 「不思議」な力」 を現わしながら近づき、愛された。
民衆が、イエスのこうした行動を見てついて行き、自分達から離れていく事を察知した彼ら(パリサイ人)は、おそらく、自分の指導的立場が危うくなると感じて、イエスを憎んでいる。

前回の投稿記事で、 「この人達が黙れば、石が叫びます。」 と答えたのは、 「わたしと父とは一つです。」 判り易く言えば 「私と神とは同質です」 と説明されたのだが、旧約の律法が要求する 「神を愛する」 事より、自分の立場を擁護する事を優先するようになってしまった彼らには、もはや理解しようとする力がなかった。
別の見方をすると、エルサレムの神殿は、本来の宮(神を礼拝するところ)ではなくなっていた。

聖書によれば、私を含め人間は、創世記3章以来、徹底して自分を擁護したい性質を持つようになってしまったからだ。

43、44節は、ローマ軍が攻略して、預言が実現したそうです。
これは、別の機会に考察したいと思う。


(私の脳裏をかすめる言葉)
ああ、エルサレム、エルサレム。
預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めん鶏がひなを翼の下にかばう様に、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。
それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
 ルカ 13章34節


(私の感想)
イエスの涙、イエスの嘆息の裏側に、恐ろしいほどの悲しみと苦しみを感じる。
パリサイ人とエルサレム住民の無理解を、 「今は、その事がお前の目から隠されている。」 と表現したイエスの言葉は、 「目を開かれる時が来る」 という言葉が、裏側に潜んでいて、実に憐れみに富んだ言葉だ。

私なら、あなたがたの自己中心性が、自分の目を見えなくしていると批判し、愛して下さる言葉を、よけいなお世話として跳ね除けてしまいそうだ。







2008/06/03 16:30:41|聖書
柔和で、ロバに乗られる
イエスは、子供のロバに乗られてエルサレムに入っていきます。それも、弟子達には、心の内を理解されないままです。
ルカによる福音書19章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(ロバの子の上に、自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。)35節b

(イエスが進んでいくと、人々は自分達の上着を道に敷いた。)36節

(イエスがオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子達の群れはみな、自分達の見た全ての力ある業のことで、喜んで、大声に、神を賛美し始め、「主の御名によって来られる王に。祝福あれ。天には平和。栄光は、いと高き所に。」 と言った。)37〜38節

(すると、あるパリサイ人たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子達をしかってください。」と言った。)39節

(イエスは、それに応えて「私は、あなたがたに言います。もし、この人達が黙れば、石が叫びます。」と言われた。)40節



(私が持つ聖書の補足欄から)
39節 : エルサレムに入場しょうとするイエスを歓呼して向かえる「弟子達の群れ」(37節)に対して、「先生。お弟子達をしかってください。」と、あからさまに敵意を示す者たち(パリサイ人)が現われた。


(私の思索)
38節に 「主の御名によって来られる王」 という言葉で神を賛美したのは何を根拠にしたのだろうか。
気になったので旧約聖書を調べてみた。
それで、ゼカリヤ書9章9節に 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ロバに乗られる。それも、雌ロバの子の子ロバに。」 という言葉を見つけた。

弟子達の群れは、この言葉を知っていて、“不思議”を行なったあのイエス様が、ロバの子に乗って、エルサレムに入って来たのだから、 「主の御名によって来られる王」 に間違いないと気付いて喜んだのだ。

これに対し、39節のパリサイ人は、あからさまに否定している。
それは 「あなたは、先生であるでしょうが、主から来た方ではないでしょう。」 と主張している様にだ。
パリサイ人の彼は、宗教熱心であったから、 「雌ロバの子の子ロバに。」 というゼカリヤ書言葉を知っていたので、イエスにプレッシャーを与えて、中止させようとしたのだろう。

イエスは、弟子達の反応も、パリサイ人の反応も、予知していたかのようです。

予知、以上に 「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」 とは、何という確信に満ちた言葉だろう。
今の筆者には、イエスは、 「私の父が、石に叫び声を与えるので、自然界が狂喜します。」 とでも言われているように感じる。


(私の脳裏をかすめる言葉)
「わたしと父とは一つです。」 ヨハネ10章30節

「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。」 ヨハネ10章37節

「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。」 ヨハネ12章49節

「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」 ヨハネ12章50節

「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」 ヨハネ14章7節

イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」 ヨハネ14章9節

「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言う言葉は、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」 ヨハネ14章10節

「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」 ヨハネ14章11節


(私の感想)
「石が叫びます。」 と、言われる。
私の、石のような心が、叫びだすのかもしれない。
同時に、表面的な喧騒に反するように、深く重いものをかんじてしまう。







2008/05/27 9:34:06|聖書
ロバの子を・・・・連れてきなさい
イエスの一行は、 「ミナ」 の例え話が終わって、エルサレムに向かって近づいて行きます。
そして、エルサレム入場の準備として、日曜学校のお話に登場する 「ロバの子」 を引いて来させます。
ルカによる福音書19章です。お手元の聖書で、確認しながらお読みください。


(話の後、イエスは、さらに進んで、上って行かれた。)28節

(オリーブという山のふもとにあるベテパゲとベタニヤの近くに来たとき、二人の弟子に 「向こうの村へ行きなさい。村に入ると、まだだれも乗った事のないロバの子がつないであるのに気付きます。それをほどいて連れてきなさい。」 と言って使いに出した。)29〜30節

(もし、 『なぜ、このロバの子をほどくのか。』と尋ねる人があったら、 『主がお入用なのです。』 と言いなさい)31節

(使いのふたりが行ってみると、イエスが話されたとおりであった。かれらがロバの子をほどいていると、その持ち主が、 「なぜ、このロバの子をほどくのか。」 と彼らに言った。弟子達は、 「主がお入用なのです。」 と言った。)32〜34節

(そしてふたりは、それをイエスのもとに連れてきた。)35節a



(私が持つ聖書の補足欄から)
29節、ベテパゲとベタニヤに近づかれ : ここから受難週の記事が始まる。
オリーブ山――終わりの日に神が立たれる場所(ゼカ14章4節)↓
「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。」
メシヤはオリーブ山に現れると考えられていた。
ベテパゲはオリーブ山の南西側に、ベタニヤは東南の側にあった。
ベタニヤ――オリーブ山沿いの小さな町。エルサレムから約3キロ。エリコへの街道沿いにある。マルタ、マリア、ラザロの兄姉、重い皮膚病のシモンが住んでいた。


(私の思索)
この部分は、過去の何度も読んでいるが、“日曜学校のお話”の領域を超えることはなかった。しかし、子ロバの持ち主が 「主がお入用なのです。」 に対して、なぜ、それ以上の詮索をしなかったのかが、不自然に感じていた。
それで、NKJ訳を確認すると  Because the Lord has need of it.  と書かれている。
子ロバの持ち主は、旧約聖書の“神”が入用だと聞いただけで、納得する人物であったのであろう。

この先は、私の思い込みですが、
その人物は、イエスを知っていたかもしれないが、イエスは、その人物を(特別な能力によって)御存知だったのだろう。
イエスという方は、隠れている信仰をおもてに引き出そうとなさる方だと思うからである。


補足欄の――ここから受難週の記事が始まる。――の説明は、今回、初めて気付いた。イエスの苦悩が、すでに始まっている。
同じく補足欄の――ゼカリヤ14章について、読んだことはあるはずなのだが、記憶に残っていない。
1節の「主の日が来る。」と記されているが、この類の預言を解明することは難しい。終末におけるキリストの再臨と考えるのが妥当だと感じるが、確証がない。


(私の脳裏をかすめる言葉)
ルカ9章22節 : そして言われた。 「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」
ルカ13章32節 : イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。
ルカ18章33節 : 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」


(私の感想)
子ロバの飼育主は、正体不明である。しかし、イエスの計画のために、子ロバを提供した。
私も、そのようでありたい。

日曜学校で教えられたことは、馬のように早く走れないロバ。
荷物を運んだ事がない子ロバ。
そのような者を、イエス様が選ばれて、ご自身の身を任せてお乗りになる。
力も、知識も、経験も足りない者で、しかも、すでに67歳だが、私も子ロバの様にイエスを運ぶ者でありたい。