いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2006/10/31 11:33:21|聖書
見世物を見物するように観察して
 十字架の歌詞が自分に関係がありそうだと感じるようになって、聖書の十字架の記事を考える時期がありました。“H 師”はしばしば 「正しい方が私たちの身代りとなった」 と言っておられたようです。

(おそらく、次の聖書の文を念頭に置かれていたと思われます。)
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
                             Tペテロ 3章18節


 私は、福音書の十字架の記事を読んでいましたが、自分との関係がわかりませんでした。マタイ、マルコ、ヨハネの各福音書からは自分との関係が見えませんでした。

 ただ、ルカによる福音書の中の 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 というイエスの祈りの言葉が少し気になっていたでしょうか。
                            (ルカによる福音書 23章34節参照)

 「彼ら」 の中に、遠くから見世物を見物するように十字架の出来事を観察していた 「私」 がいるように感じたからでした。







2006/10/30 6:41:24|聖書
よく歌われていた歌
人が
その神を神としない」 「神を知ろうとしない
ので
神は」 
彼らをその心の欲望のままに汚れに」 「彼らを恥ずべき情欲に」 「彼らを良くない思いに」 
引き渡され」 
ました。その結果人は・・・・・

 私には聖書の論旨を正しく把握出来ませんでしたが、これまでの常識と全く異なる神の原則のような内容があることを感じていました。

 そして、自分自身をそのままにして置きたくないと思うようになっていました。このときもし“H 師”に質問しておれば、丁寧に教えてくれたのだろうと思う。

この頃、礼拝(日曜午前中の集会)の中でよく歌われていた歌。

丘に立てる粗削りの 十字架に架かりて
救い主は人のために 捨てませり命を
十字架にイェスきみ 我をあがない (贖い) たもう
十字架の悩みは   我が罪のためなり


 この歌を歌いながら「そうか」・・「そういうことなのか」・・「私自身のためかも」と感じるように変わっておりました。しかし、遠い昔の出来事に変わりはありませんでした。







2006/10/25 10:20:04|聖書
神は・・・・・に引き渡され
 自分流で聖書を読み、牧師の話を聞こうとしませんでしたが、いつしか使途の働きを読み終え、ローマ人への手紙に入る。ここで生涯を変える文章にぶつかります。

 そして当時の私がひそかに感じていたことは、もし神がおられるなら、神々という感覚は「迷信」として消えておりましたから、「見えないだろう」「永遠の支配者だろう」ということでした。

 その感じ通りの言葉
  神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は (1章20節)
 に出会ったのです。さらに
  神を知っていながら、その神を神としてあがめず (1章21節)
  自分では知者であると言いながら、愚かな者となり (1章22節)
  神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され (1章24節)
  神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。 (1章26節)
  男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え (1章27節)
  彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され ( 1章28節))

と続く言葉に驚きました。

抑圧された時代から、それぞれの人が次第に自由な生き方をはじめたように感じた時期でしたが、 2000年前に書かれた文書に 「その神を神としない」「神を知ろうとしたがらない」 ので 「神は・・・・・に引き渡され」 と書いてあるのに驚いていました。

そして、経験はありませんでしたが、機会があれば諸悪に向かう可能性がある自分の思いに気づき、恐れを覚えたことでした。







2006/10/24 10:18:05|聖書
「選び」という迷走録
集会後の楽しそうな高校生の存在は、私を聖書に向かわせました。合唱活動も十分に楽しかったのですが、知らない何かを知りたいという探究心が勝っていたのでしょう。そんな私が自分だけの思いで聖書を知ろうとしたのですから、間違ってしまいます。

私は文章全体を読まずに 「あなたがたを選び」 の部分だけを抜き出して考えをめぐらしてしまったのです。若い彼らの喜々とした姿の原因を聖書に求めたのは特別な間違いでないのですが、文章全体からその意味を知ろうと考えなかったのです。

「彼らは選ばれていて喜んでいるようだが、私はどうなのかな」 と勝手に考え、 「私も選ばれていた」 と思いたいのでした。そして、そのように 「思い込んで」 しまったのでした。文章の後半を読めば単純な内容でないことがわかるのですが、 「何かちがうかな」 程度の感覚でやり過ごしていたのです。

 キリスト教を知識として見れば、「十字架が付いた建物でありイエス様を拝む宗教」 であると小学生でも知っていると思います。なのに、自分とのかかわりとしてそれを経験するのは、単純でないですネ。

 十字架で現された神の愛を知るようになるまで、「思い込み」 という間違いから、抜けられませんでした。私は誰の話にも耳を閉ざし、信仰の先輩の生き方を見ないで、遠回りの道を選んだのです。

注)聖書全体にからこの部分を読みますと、神のご計画の大きさや確実さその緻密さなどが現されているそうです。







2006/10/23 20:29:36|聖書
自己中心的 読み方
 私が聖書を読んだのは、「同じ物語が繰り返されて退屈」した経験いらい、聖書をいつ読んでいたのか思い出せません。たぶん、礼拝の時、牧師が話をしている時間帯に、牧師の話と関係ない部分を自分のペースで読んでいたのだろうと思います。

“H 師”の時期の私の記憶をたどると、「暴走の予感」で触れた聖書は マタイによる福音書でしたが、ヨハネによる福音書とローマ人への手紙でも、記憶に残る強い影響を受けています。経験の順序については、私の記憶が怪しくて、ヨハネによる福音書の影響が最初であったかもしれない。

私が間違って読んだのは次の文章です。私は、とんでもない、恥ずかしくなるような読み方をしていたのです。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
                     ヨハネによる福音書 15章16節